(株)SEGA/カスタマーゲートウェイ部 部長
竹崎忠さん
 1964年生まれ。学生時代にSEGAのゲームのファンとなり、やがてSEGAという企業そのものにも興味を持つようになる。大学卒業後CSKに入社、SE(システムエンジニア)として6年間勤務した後、当時CSKの子会社だったSEGAへ出向。現在正社員。同社の家庭用ゲーム機、ゲームソフトなどの広報担当者として雑誌やテレビにもたびたび登場しており、SEGAのゲームのファンには広く知られた存在である。

【株式会社SEGA】
設立:1960年6月  従業員数:約1,000名
主な業務:ゲームソフトの開発・製造・販売  本社:東京都大田区羽田1-2-12
URL:http://sega.jp/


学生時代はゲームマニアだった

 特に熱心なゲームファンでなくとも、SEGAの名を知らない人はいないだろう。古くはUFOキャッチャー、家庭用ゲーム機としてはメガドライブやドリームキャスト、ゲームソフトでは『ソニックアドベンチャー』などで大ヒットを飛ばしたゲームメーカーである。

 「いわゆるゲームマニアでしたよ(笑)。SEGAの大ファンで、ゲーム情報のミニコミ誌を作ったりしていました」。家庭用ゲーム機が一般に出回り始めた'80年代、大学生だった竹崎さんはSEGA商品に夢中になり、その延長で同社に就職したいと強く思うようになった。しかし、専攻していたのは機械工学。

 「教授に、“そんな先の見えない業界に入ってどうする”と猛反対されましてね。そこで、少しでもSEGAに近い道として見つけたのが、当時親会社だったCSKでした」。家庭用ゲームが、まだ一部のマニアのものだった時代のことだ。

 

SEGAのパブリシティーに憧れて

竹崎さんがSEGAに入社して最初にパブリシティ−を手がけたゲームの数々

 竹崎さんが憧れたのは、「SEGAのパブリシティー担当」。機械工学とは何の関係もない。「ミニコミ誌や自作の小説を載せた同人誌を作っていたぐらいですから、書くことが好きなんです。だから、どうしても情報発信の部分に目がいく。SEGAの雑誌記事を見ながら、“こう書けばもっと商品の良さが伝わるのに”などと研究していましたね」。ここまで来れば、もはやゲームマニアの域を超えてSEGAマニアである。

 パブリシティーは、自社商品をTVや雑誌が「ネタ」として取り上げてくれるように計らう仕事だ。掲載・放送が決まったら、今度はライターや編集者に商品の魅力を十分に理解してもらわなければならない。パブリシティー担当者に必要なのは、「自社商品への愛着」と「長所を伝えようとする熱意」なのだ。それも、SEGA商品に興味がない人をも説得できるぐらいの。

 

念願かなってSEGAに出向

 社会人になって6年後、念願かなってSEGAに出向。部下も上司もいない、たった1人での出発だった。「何を教えてくれるわけでもなく、PR担当という席だけ与えられてね。で、取りあえず関連部署の人たちに一堂に集まってもらって、情報発信元の整理から始めたんです」。

 SEGAマニアとして(?)、ずっとSEGAの情報発信方法を研究してきただけあって、彼の仕事は確信的だった。まずは社内調整をして情報を自分に集中させ、その後に、出版社やTV局を回り、コツコツと信頼を築いていく。その過程の中で、第一の目標としていたのが「新聞でゲームを記事として取り上げてもらうこと」だったそうだ。

 

ドリームキャスト発売の陰で

ドリームキャスト発売日の夕刊('98.11.27)を見て「自分の仕事は終わった」と…

 「当時目指していたのは、SEGAの商品を、ゲームファンだけでなく一般の人にも認知してもらうこと。最初は、成し遂げるには一生かかると思っていました」。ところが、この読みは見事にはずれた。パブリシティ−を担当して6年後、SEGAのゲーム機が読売新聞に掲載されたのだ。'98年、新世代家庭用ゲーム機として華々しく登場したドリームキャストである。

 「夕刊の一面に、男の子がドリームキャストを掲げて喜んでいる姿が載っていた。本当に感動して…もう、これで自分の仕事は終わったと思いましたね」。SEGAが社運を賭けて発売したゲーム機。当然、パブリシティー担当者にもかなりのプレッシャーがかかっただろう。ドリームキャスト発売の陰で不眠不休で働いた苦労は、竹崎さんが最も望んでいた形で報われたのだ。このときの職名は「パブリシティーチームマネージャー」。たった1人で始めたパブリシティーの仕事はいつの間にか社内の部署の1つに昇格し、彼も管理職の一員になっていた。

 

SEGAでなければ味わえなかった喜び

 ゲームが急激に流行した'90年代。関連のイベントやTV番組も増え、SEGAのシンボル的存在として竹崎さん自身がスポットを浴びることも多くなった。「SEGAの竹崎」はファンの間で有名である。握手やサインを求められたり、時には悩みを相談されることも。暗い顔をしてイベントに来た少年が彼に悩みを相談する。できる限りのアドバイスをして別れ、次に会ったら、少年は明るい顔になっていた…それが何よりもうれしいのだと言う。

 「SEGAファンの人たちと直接話すことに対して、“仕事だから”という意識はまったくない。僕がこの仕事を好きなのは、ファンとのコミュニケーションがあるからこそなんです。SEGAでなければこんな喜びは味わえなかったと思うし、自分が少しは人の役に立つこともできるのかなと実感することもなかったはず。心の底から、入社して良かったと思っていますよ」。

 SEGAの広報活動を1から築き上げた男として、同業者からの引き抜きの声がかかることもあるが、SEGA一筋でやってきた。竹崎さんは、筋金入りのSEGAファンなのだ──学生のころと、少しも変わらず。