風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     11月                                 過去の「風日好」

   11月某日 ユダ(7) → * ((1)〜(6)は10月分を見てください)

 最近の研究では、トモの供述がなければ宮城の逮捕はなく事件の発覚はなかった、という過去の通説は、覆されたようである。 とはいえ、事実に関しては、議論する力はないしその気もない。だが、百歩譲って、過去の通説が正しかったとして、たとえそうだとして、どうなのか。トモは、何としても黙秘を続けるべきであったのか。
 トモが供述した背景には、宮城が既に逮捕されたに違いないという思いこみと並んでもうひとつ、何とかして、体の悪い老夫が無関係であることを伝えて、夫が釈放されるようにしたいと強く願った、という事情がある。少なくともトモは、「きっとどこかで喘息の発作を起こしている」に違いない芳三郎、「無思想で老いて行く夫を助けたい一心で」供述したのだ、といっている。
 そのようなトモに対して、それでもなお、「ユダだ」ということを否定せず、つまりは供述を拒否すべきだったということは、トモに対して、自らと老夫の生命を賭けるよう強要することである。
 もちろん、トモ本人の苦悩は分かる。後に、供述の時点では宮城が未だ逮捕されていなかったということを知ったトモ本人が、たとえ「夫を助けたい一心」からであったとしても、結果的に、思いがけず宮城を逮捕させてしまったことに、深い自責の念を抱き、自らを「ユダ」だといわねばならなかった辛さは、よく分かる。
 だが、繰り返すが、問題は光子である。山代氏は彼女に、「そうではない。あなたが自分を責めることはない!」、とはいわせていない。トモは老夫よりも宮城の方をまもるべきであった。暗黙の内に、そういっていることになる。(続く↓)

   11月某日 ユダ(8)

 ゾルゲ事件は、41年の発覚当時、詳しい報道はなされなかった。非常時「挙国一致」の綻びは、詳報に相応しくなかったからである。世間の人々が事件のことを詳しく知ったのは、ゾルゲや尾崎らが処刑され、やがて戦争が終わったあとのことである。
 戦争の終結が体制の転倒を結果するとき、往々にして政治価値の劇的な転換がひき起こされる。日本だけではない。例えばナチスと闘って逮捕され処刑されたレジスタンスの活動家たちは、戦後、一躍「英雄」として賞賛されることになった。だが、尾崎らの場合は違った。もちろん彼らを、「生命を賭けて軍国主義体制と闘った反戦の闘士」、として評価する人々もいた。けれども、事情は単純ではなかった。もともと事件の公開そのものが、ある政治意図をもってなされたのであり、受け止める方も、自らの政治戦略の中で事件を受け止めた。ここでは、その問題には入らないが、いわゆる「伊藤律ユダ」説も、その渦中で生まれたのであり、こうして、事件は幾層にも交錯した政治的思惑の渦に巻き込まれていった。
 だが、そういった政治世界を離れた世間一般の人々にとっては、尾崎秀実の名は、『愛情は降る星のごとく』という、獄中から妻や娘に宛てた書簡集によって有名になった。120通もの切々たる愛情書簡で編まれたその本はベストセラーとなって、多くの人々の胸をうった。いまも文庫本で読めるようである。
 申し訳けないが私はその書簡集を手に取ったことはないのだが、今回、彼の調書や手記は読んだ。知られているように、尾崎は、最終的には諜報団に関与したことを「深く反省」する手記を残すのだが、彼は自らの転心について、そうさせた第一のものは、家族への愛情だったと書いている。もちろん手記は手記である。ために、その反省転心はいわゆる「偽装」だったという説がある。あるいはそうかもしれない。それでも、全く心にもない文書だとは思えない。いや、たとえ手記はそうだったとしても、妻や娘への書簡は「偽装」ではもちろんない。である以上、そこにみられるような愛情が、獄中にある尾崎の、ある心の揺れを引き起こしていることは間違いなかろう。
 繰り返すが、ためにするいいがかりだという物言いは承知の上である。それでいうのだが、東大出の知識人尾崎秀実が獄中で妻を思い娘を思うことは、<美しい家族愛>の文脈で語られる。一方、田舎に住む一介の「おばさん」北林トモの場合は、自らと共に捕らえられ遠く護送されて厳しい取り調べを受けている病身の夫を思うことは、そして夫を救うために安全だと信じて供述したことが、ユダという<忌まわしい密告者>に関連させて想起され、夫を犠牲にすべきであったのに・・という文脈の中で語られる。尾崎は、諜報団の活動と思想を裏切る「反省」のことばを書くが、それは高度な判断による偽装であり、あるいは家族のために「生きよう」という、家族愛に基づく行為だと語られる。一方、トモはといえば、既に逮捕されているに違いないから名を出しても安全だと思った上での供述が、少なくとも結果的には裏切り行為だと受け取られる。尾崎の書簡集には「愛情は降る星のごとく」という題が贈られ、トモの告白には「ユダの自覚」という題がつけられる。(続く↓)

   11月某日 ユダ(9)

 切れ切れをいいことに、内容の薄い話を長く続けてしまったが、もう少しだけ書くことがある。日常短文にしては何とも面白くない記事だが、何卒ご容赦を。
 さてこれまで、いいがかり的で申し訳ないことながら山代氏の記述をとりあげ、北林トモの自責の告白に対して光子(山代)が「あなたはユダではない!」といわなかった、ということに、あえて拘泥してきた。
 けれども私は、ある義理による行きがかり上((註)ある 展示に間接的に協力している)、勝手にトモの助太刀を買って出て「何故、トモだけが・・」と何度も述べはしたが、光子(山代)は「あなたはユダではない」というべきであった、と主張したわけではない。ただ、彼女がトモの自責のことばに涙するだけでそれを否定はしなかったという、そのことを確認したのである。
 問題は、この先にもある。
 図式的にいえば、トモは、病身の老夫を護るか信頼する友人を庇うかという、心情的に辛い選択を迫られたのであった。確かに、トモにとって宮城は単なる友人ではなく、彼女は、思想的にも組織上も、同志として彼に関わっているつもりでもあった。だが、宮城は彼女を組織に入れなかったし、彼女もそのことは知っていた。トモは、義務感から組織の同志を庇おうとしたのではなく、最もよく「私を理解し」てくれる人である宮城、「得難い思慕をしっかり抱いて」いる宮城を庇おうとしたのであり、結果的にそれができなかったが故に、深く自らを責めたのである。
 彼女は自分を「ユダ」だといった。宮城の信頼を裏切った、と思ったからである。だがもし逆の場合には、夫の信頼を裏切る結果になったことで、同じく自分を責めたであろう。強権は特高の手を借りて、トモをそのような淵に追い込んだのである。
 一方、光子はといえば、繰り返すが、もちろんトモをユダだと「告発」しているのでは決してない。彼女の涙は、トモが「老いて行く夫を助けたい一心で」とった行動への心情的な共感から、思わずあふれ出たのである。
 だが光子すなわち山代氏は、トモの心情に涙し、辛い選択肢に彼女を追い込んだ強権に怒りを抱きつつも、トモの行動を肯定はしない。例えば世間の人のように、「喘息の夫が泡を吹いて倒れたと聞けば、夫を助けるのが当然の責務でしょう」などとはいわないにしても、例えば「老いた母を選ぶか祖国への義務を選ぶかは自由な実存的選択に属する」といった思想家のような対応も彼女はしない。「選択はあなたの自由に委ねられており、その限りにおいて選択肢は等価であって、自分を責めることはない」、というようないい方で、光子はトモを慰めたりはしていない。
 光子から見れば、「無思想で老いて行く夫」と、主義者であり組織の一員である宮城は、等価ではない。少なくとも、そのような組織世界を光子(山代)は知っており、自ら厳しく関わってもきて、いま獄中にいる。(続く↓)

   11月某日 ユダ(10)

 少し寄り道する。
 夏前、篠田正浩が満を持して遺作のつもりで送り出した映画『スパイ・ゾルゲ』が封切られたのを、誘われて観た。ひとこと個人的感想をいえといわれるなら、申し訳けないが失敗作といわせてもらう他ない。とはいえ映画評がここでの主題ではなく、トモのことである。
 その映画では、宮城与徳を含む諜報団のメンバーや関係者また歴史上の有名人が、実に数え切れない程多く登場するのだが、ところがそこに北林トモの姿はない。多磨霊園にある碑に名前を刻まれているゾルゲ事件犠牲者の中で、映画に登場しないのは彼女だけである。歴史を動かすのは庶民だという史観をおそらく篠田氏は肯定しているであろうが、しかし映画の中に僅かに映される庶民は、例えば石のように座り込む貧農たちや人形のように駅に立ちつくす売られ行く少女たちなどとして描かれる。こうして、実に多くの名を知られた人たちがやたら動き、また人を動かす<歴史映画>の中には、関係者といっても一介の田舎洋裁教師でしかない中年女性の登場する余地はなかったのだろう。歴史を動かすのはマスとしての人民であっても個々の庶民ではないのでもあろうか。
 一方、映画ではないが、ゾルゲ事件といえば劇団民芸の18番モノがある。その木下順二『オットーと呼ばれる日本人』には、トモが、「南田のおばちゃん」という名で出ている。ところがこの人物は、「チグハグなケバケバしさ」をもった女性と指定されており、
 「十年まえはミーも元気よかったかんね」
 「ミーはぬけたよ。ユーは?」

などといった奇妙な台詞を与えられて、いかにもこの軽率さが事件を発覚させてしまったに違いないと思わせる人物として描かれている。オットーと呼ばれる尾崎秀実ら知識人メンバーの沈着で慎重な言動と、アメリカ帰りの庶民「おばちゃん」の軽率さが、対比されているのである。
 戦後この劇を見た山代氏は、怒りを覚える。私の知るトモさんは、決してああいう軽薄な人ではなかった。彼女はわざわざ木下順二に、訂正を申し入れさえもする。もちろん作者は応じなかったが、このエピソードからみても、山代氏がトモと共に流したのは、嘘いつわりのない共感の涙であったことは間違いない。
 そういうことばを使ってよければ、心情倫理的には、山代氏は、トモの行動に心から共感しているのである。
 それでも、山代氏は、トモは「ユダではない」、ということはできない。そういってはならないという政治倫理の支配する世界に自ら厳しく関わってきて、光子(山代氏)は、いま獄中にいる。その世界では、「無思想で老いて行く夫」と、確固たる思想をもって組織に所属する同志は、等価ではない。(続く↓)

   11月某日 100円のベートーヴェン

 恥ずかしいことだが、来月、「第九」を唱うことになっている。9月から1週間に1,2度練習に通っているのだが、まあ大きな声を出すのは、少なくとも健康には悪くないだろうということで。
 それで、家での練習用に、昔のレコードからMDに録音したものを使っていたのだが、何と、100円均一店にCDがあるという。今日見たら、なるほどあった。それも、ベルリン・フィルである。もっとも指揮者の名前がない。買ったきただけでまだ聴いてはいないが、どうせ聴いても多分私には指揮者は分からない。しかし同じシリーズのコンツェルトではゼルキン、ケンプ、メニューインという往年の名手が弾いているし、別のCDシリーズでフルトヴェングラー指揮のものがあるらしいから、おそらくこのCDも、おかしなものではないだろう。  ベルリンフィルのベートーヴェンが100円! 著作権が切れた録音を使っているのであろうが、それにしても、である。
 もちろん今はもう、例えば、フルトヴェングラーなんて重苦し過ぎてもはや・・・などという時代なのでもあろう。だから、クラシックCD市場にとっては、脅威ではないのでもあろう。しかし、そうなのだろうか。
 他のジャンルと違って、「クラシック」の市場の大半は、19世紀を中心に作られたいわゆる「クラシック曲」の<演奏>でもっている。だからファンは、「いま」の<演奏>を聴き「いま」のデジタル録音CDを買う。けれども、クラシックに関心をもったばかりで、<曲>を聴きたい、音質や<演奏>の古い新しいは分からないしどうでもよい、という人々も、当然かなりいるだろう。もともといわば骨董名曲を繰り返し聴くという市場だから、骨董演奏でもかまわないといわれてしまうと、骨董演奏100円と現代演奏3000円の差がなくなるわけである。
 しかし、そうなると、一体、私如きが唱う第九の入場券が数千円もするというのは、どういうことなのか。解釈や演奏の「新しさ」に関心があるのでない人々にとっても、プロのオーケストラを生で聴くことには、100円CDとはかけ離れた価値があるだろう。しかし、少なくとも私のような素人が混じった合唱部分については、ほとんど詐欺ではないか、と思う人がいてもおかしくない。実に実に困ったことである。恐縮に耐えない。

   11月某日 ユダ(11)

 再び戻る。
 光子(山代)は、たとえ心情倫理的には忍びがたくとも「無思想」の家族と確固たる思想をもって組織に所属する同志は等価ではないという、厳しい政治倫理の支配する世界に自ら関わってきて、いま獄中にいる。
 もちろんそれは、組織倫理に逆立する家族幻想は端的に切り捨てるべきだ、といったことではない。当時の厳しい組織倫理の教科書のような小林多喜二の『党生活者』に従えば、トモは夫の「無思想」を放置しておくべきではなかった。夫のことを思えばこそ、過酷な取り調べや喘息の苦しみまでもが「敵」への怒りに向かうよう、予め彼を「思想」的に鍛えておくべきだった、ということになる。そうすれば彼女は、非常の時に「無思想な」夫を思いやらねばならないという<私ごと>に曳きづられて結果的に「ユダ」を選んでしまうという事態を、回避もできたであろう。
 非合法の「党生活者」は、私的心情に曳きづられることなく、「廿四時間の政治生活」を送らねばならない。彼には「「自分」の生活」はない。
 私にはちょんびり(ママ)もの個人生活も残らなくなった。今では季節季節さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。
 今では我々は私的生活というべきものを持っていない〜
 とはいえ、トモは、もちろん小林多喜二の描く「党生活者」ではなく、ゾルゲ機関についても、組織のメンバーというよりは、メンバーである宮城与徳の協力者、情報提供者に留まる。それを知る光子は、トモを責めるわけでは決してない。しかし一方、「私的生活」の全てを捧げている「党生活」の厳しさを知っている。
 過酷な取り調べを受けたトモは、「知りません」「忘れました」だけで頑張ろうとするのだが、結局やがて供述する。前述のように、それはトモだけではないのだが、しかし「党生活者」の組織倫理に照らせば、「白紙の調書」で押し通すことができずに「何か一言しゃべることは、〜何事かをしゃべらせるという敵の規律に屈服したことになる」。『党生活者』では、逮捕されて拷問を伴う取り調べに耐えた同志が、3日後に遂に供述したとたん、「腐った分子」とまで批判される。もちろん、批判する側は覚悟をもっている。例えば、伊藤という女性党員は、逮捕されて、「〜真ッ裸にされ竹刀の先でコヅキ廻されたことがあった」のだが、それでも口を割らなかった。
 光子(山代)は、そのような厳しい「党生活者」の規律、自らを縛る倫理を知っている(もちろん、小林多喜二その人の虐殺も)。
 彼女は、組織の外にいるトモに対して、「無思想」な夫をもっている弱さ、「天真爛漫」で黙秘を通せない甘さ、などを非難するのではない。あくまでも組織を守るという靭さをもたぬまま諜報活動に関わったトモを、光子(山代)は「腐った分子」などとは決して思わない。逆に、トモの境遇と心情に涙している。だが、そうしながら同時に光子は、トモの弱さと甘さが組織に、ひいては戦線全体にもたらした(と思っている)重大な結果を、当然思い浮かべていただろう。彼女が「あなたはユダなんかではない」といい切れなかったことは、理解できる。(続く↓)

   11月某日 ユダ(12)

 ここでまた、少しばかり寄り道しておく。
 戦後、平野謙や荒正人が『党生活者』を批判的にとりあげた。古い話だが、とりわけ問題となったのは、主人公である「党生活者」の、「笠原」という女性の扱い方である。主人公は、独り身を不審がられるのを避けるため、いわゆるシンパの女性である笠原の好意を利用して同棲する。
 しかし、「党生活者」は、「私的生活というべきものを持っていない。」  既に触れたように、「「自分」の生活」の全てを組織活動に捧げるためには、予め「私的生活」に属する人々つまり家族や身辺の者を、「思想」的に鍛えておくべきである。だが、家族や身辺の者が、充分な「思想」をもちえていないときはどうするか。そのときは、その人達を<犠牲>にする他ない。「廿四時間の政治生活」を送る非合法党生活者は、私的心情に曳きづられてはならない。
 こうして彼は、笠原との生活を、つまりは笠原を<犠牲>にする。そして、そのことで不満を抱く笠原について、彼はこういうのである。
 〜然し私は全部の個人生活というものを持たない「私」である。とすればその「私」の犠牲になるということは何を意味するか、ハッキリしたことだ。私は組織の一メンバーであり、組織を守り、我々の仕事、それは全プロレタリアートの解放の仕事であるが、それを飽く迄も行って行くように義務づけられている。その意味で、私は私を最も貴重にしなければならないのだ。私が偉いからでも、私が英雄だからでもない。一個人生活しか知らない笠原は、だから他人(ヒト)をも個人的尺度でしか理解できない。
 もちろんここで、いまさらのように古い批判を蒸し返そうというのでは全くない。ただ、下世話にいえば義理と人情を秤にかければ義理が重たい世界のその重たさを、反世間的な組織倫理を心情倫理に優先させねばならない世界の厳しさを、確認したまでのことである。
 私的な心情倫理を越えた「党生活者」の世界にあっては、ある局面では、笠原のような「私生活」に属する者を<犠牲>にしてもやむをえない。むしろ、そうすべきである。とすれば当然、「無思想で老いて行く夫」を<犠牲>にしてでも、「思想」をもった組織の同志宮城を護り通すべきである、ということになる。  このような厳しい政治倫理によって支えられた「思想」が、この時代には厳然としてあった。光子(山代氏)自身もまた、そうした厳しい政治世界に関わるなかで、自らの「私生活」を、例えば家族を、何ほどか犠牲にしてきた筈である。そしてまた、そうであれば、その犠牲の正当化を、獄中にある自らの支えにしている筈でもある。
 光子(山代)が、トモの境遇と心情に涙しつつ、しかも「ユダ」ということばを否定することができなかったのは、おそらくそのためである。 (続く↓)

   11月某日 ユダ(13)

 ちなみに、笠原のような存在を「ハウスキーパー」というらしいのだが、宮城与徳もまた、使命をおびて東京に住むことになったとき、「カモフラージュのために沖縄から連れて来た芸者さんと結婚」している。だが「思想を理解できない人」だということもあって(最初から分かっていた筈だが)すぐに別れて、今度は息子と二人暮らしで「好意を持って、いろいろめんどうを見て」くれる岡野さんという女性の家に寄宿する。これらの女性たちが宮城のことをどうみていたのかは分からない。それでも、宮城は人間関係に関して、諜報員としての使命を優先させていたのであろう、とは推測できる。
 「笠原」や「沖縄の芸者さん」のような女性の扱いを世間的な倫理に照らして「非人間的だ」などということは簡単であるが、そういうことではない。そもそも「人間的」とはどういうことか、という議論になろう。
 ひとたび厳しい政治世界に入ると、「私的生活」に伴う心情倫理は捨て去らねばならない。「組織を守り、我々の仕事〜を飽く迄も行って行くように義務づけられている」者は、「私生活」の一切を捧げるのであり、世間的な心情倫理とは全く異なる、非情な組織倫理が支配する世界に入る。そこでは、「全プロレタリアートの解放の仕事」の方こそが、「人間的」な仕事だということになる。
 そういえば、トモとの間でも、こういうことがあったようだ。
 「わたしはアメリカの友人に手紙を出すためもあって、防空演習のことや、物資の輸送が遅れがちなこと、配給のこと、出征兵士の遺家族のことなど、かなり詳しく書いていました。ところどころには新聞記事の切り抜きも貼っていました。十五年の暮れに尋ねて来た宮城さんはそれをだまって持って帰りました。わたしはちょっと腹を立てました。」
 世間的な倫理に照らせば、ひどい行為である。信頼への裏切りである。だが、宮城はそうしたし、トモも結局それを許した。宮城は何より自らの<仕事>を優先させたのであり、その<仕事>の倫理は、必要な場合には相互の「私」を認めあうという世間的な倫理の制約を超えることを、彼に命じていた筈である。(もちろんそれは、常に世間倫理を無視せよということでは決してない。全く逆に、「党生活者」は常に世間倫理を軽視してはならない。世間から疑われないように、である)。(続く↓)

   11月某日 ユダ(14)

 さて、既に書いたように、私は、光子がトモに「あなたはユダではない」といわなかったことをしつこく問題にしたが、だからといって私は逆に、光子はそういうべきであったと主張したのではなかった。同様にここでも私は、「私」を認めあう世間的な心情倫理の側に立って、組織倫理の「非人間性」を批判しようというのではないし、かといって逆に、協同的な「人間解放」を実現しようという政治倫理の側に立って、「私」にとらわれた世間の営みを蔑視しようというのでもない。少なくともいまは、それが主題ではない。
 さてしかし、ここまで来るとやはり、ずっと戸を立てていた問題に、触れる他ないのかもしれない。もうひとりの、というより本家の「ユダ」である、伊藤律のことである。
 実は、ゾルゲ事件発覚問題に関して、前からひっかかっていることがあった。これまで、トモの助太刀といいながら、遂にはここまで、いいがかりを引き延ばし引き延ばして、心情倫理と政治倫理を単純図式的に対立させるところにまで来たのも、無意識のうちに、そのひっかかりがあったからかもしれない。
 けれども、改めてお断りしておきたい。私は、全くの不精者である。新しい資料や証拠を発掘するといった気配などは、もともと私のどこを探してもないのだが、それどころか最近では、本を読むことも全くしない。ゾルゲ事件の関係文献についても例外ではない。殆ど何も読んでいないし、読む気もない。(もしも万一、これまで拙文に付き合ってこられた方で、そんなことはないだろうといわれる方がおられるとすれば、それは、私がいささか身に付けているゴマカシ術に目を眩まされておられる結果に過ぎない。数頁だけ目を走らせた本を熟読したかのようにごまかす、題名だけしか知らない本を読んだかのようにごまかす、などなどという、ろくでもない技術のことである。(^ ^ ;))
 というわけで、もちろん伊藤ユダ説についても、これから、様々な要因が錯綜している具体的な事実問題の闇に分け入ろうというのでは全くない。その気力もなければ能力も全くない。つもりもない。そうしようとすればどうしてもからみつく様々な政治的な網に足を取られるのも嫌だ。
 もちろん、事実問題についても、素人予感ならなくはない。最初に触れたように、渡辺氏の労作を画期として、それまでの通説であった伊藤ユダ説は、もはや殆ど支持を失っている。が、それ以前に、もともとあの通説は胡散臭さい。返還された資料に<偶然!>挟まっていた紙片。<旧特高!>の記憶証言。松川事件ひとつ挙げるだけでも、伊藤個人を疑う前に、まだまだ強く疑わねばならない謀略の闇の世界があることを私たちは知っている。・・という程度の唾は、不精者の素人でも、眉につけていたのである。  (続く↓)

   11月某日 ユダ(15)

 長すぎる。そろそろ終わりにしたいのだが、なかなか終われない。
 さて、伊藤ユダ説の骨子は、こうである。獄中にあった党幹部伊藤律は、取り調べの特高刑事から持ちかけられた誘いに乗り、「魂は売らない」といいつつも暗黙の取引に応じて、北林トモの名を挙げたというのである。彼は、トモが党外の人間であることは当然知っていたが、その言動から「アメリカのスパイかもしれない」といった、ということになっている。
 前述のように、この話の中心は旧特高刑事の証言である。大いに怪しい。どころか、渡辺氏が丹念に検証批判したように、間違いなく作り話であろう。ただし、そうだとすれば、その背後には何らかの謀略があることになる。あるいはまた、謀略を利用する更なる謀略も考えられる。一方また、烙印は全くの「偽り」であるとしても、伊藤及びその周辺グループにも、謀略に利用される何かがあったのかもしれない。それら重なる謀略の闇に手をつけることは、おそらくもはや誰にも不可能に近い。闇は幾層にも重なったまま、歴史の彼方へ少しづつ沈んでゆく。
 もちろん私には、そうした事実問題に触れる資格は全くない。私が、長い間通説であった伊藤律ユダ説に、あるひっかかりを感じていた、というのは、事実関係の怪しさとは全く異質なことである。
 仮に、あくまでも仮に、である。仮にもし、事実関係が、伊藤ユダ説のいう通りだったとして、そうだとして、伊藤律が「ユダ」である、というのは、どういうことか。(続く↓)

   11月某日 ユダ(16)

 われわれのはじまりの問いはこうだった。トモはユダなのか?
 いま、こう問うてみよう。伊藤律はユダなのか? 仮にもし、事実が旧通説の通りだとすれば、伊藤律はユダなのか?
 光子(山代氏)がトモをユダと見たのは、少なくとも「ユダではない」といわなかったのは、トモが、宮城の名を出したからであり、一方、尾崎秀樹が伊藤律を「生きているユダ」だといったのは、伊藤律が、北林トモの名を出したからである。伊藤はトモの名を、トモは宮城の名を出すことで、両者ともに、ゾルゲ事件の発覚の鍵となった。
 とはいえ、イエスを売ったイスカリオテのユダとは違って、両者ともに、事件そのものを密告し暴露しようとして供述したのではない。彼らはともに、その供述が大事件発覚の鍵にとなるとは、思っていなかった。第一、ふたりとも、ゾルゲ諜報団のことを殆ど知らない。ただ、結果的に、彼らの供述が、諜報団の発覚に繋がったのである。
 だが、それにしてもなぜ、彼らは供述したのか。トモが宮城の名を出したのは、病身の夫を解放してもらうためであった。一方、伊藤がトモの名を出したのは、病身の自らを解放してもらうためであった、ということになっている。ともに、自分あるいは自分の家族の解放と引き替えにゾルゲ事件に繋がる者の名を供述した、とされる。そこで、ともに、「ユダ」の烙印が押されたりするのである。
 こうして、ふたりの「ユダ」がいる。仮にもし事実が以上のようであったとすれば、両者ともに、そういわれてもやむをえないようにも思える。ふたりの共通点は、確かに多い。
 だが、もう少し、両者の比較を続けよう。(続く↓)

   11月某日 ユダ(17)

 ふたりの「ユダ」には、確かに共通点が多い。だが・・・
 今度は逆に、相違点をみてみよう。
 前述のように、トモは諜報組織のメンバーではない。トモは、宮城がコミンテルンの指令に従って、ある組織の一員として秘密の諜報活動をしている、ということは知っていたし、自分も何からの役に立ちたいと思ってはいた。だが、もうこの仕事はやめたいと漏らした宮城に、やめることを強く勧めてもいた。いずれにしても、ゾルゲ諜報組織の一員である宮城とは違って、トモ自身は、協力者、情報提供者であっても、組織のメンバーではない。
 一方、伊藤律は、まさに組織の人である。歴とした「党生活者」であり、それも、当時の厳しい状況にある党の幹部である。この点でトモとは全く違う。
 次に、彼らが名を出したとされる方を比べると、トモは宮城与徳の名を供述したのだが、その時点でトモは、宮城が諜報組織の一員だと知っていた。一方、伊藤についていえば、実際にその名を出したかどうかに関わりなく、問題の時点で伊藤は、北林という「おばさん」は党メンバーではないと当然知っていた。結果的にはゾルゲ組織に繋がる人物だったのであるが、その時点ではそれは知らない。はっきりしていたのは、伊藤にとって北林トモは、自らが幹部である党組織に所属しない、外の者だったということである。
 組織外のトモが名を供述したのは諜報組織の一員と知っている宮城であり、党幹部である伊藤が名を告げたのは、党組織の一員ではないと知っている北林トモである。こういういい方をすれば、両者の関係は正反対である。
 トモは諜報組織のメンバーではないのだから、組織防御を全てに優先させる義務はない、ともいえる。伊藤は党組織のメンバーを明かしたのではないのだから、組織規律を破ったのではない、ともいえる。だが、余りにも有名になったゾルゲ事件のために、意図的にでは全くないが、結果的に事件発覚の鍵となる人物の名を告げたことで、トモと伊藤は「ユダ」という烙印を押されたのであり、少なくとも否定されなかったのである。
 トモについては、もはやいうことはない。比較を離れて、伊藤律のことを、もう少し検討しよう。
 もしも仮に、事実が伊藤ユダ説の通りだとすれば、伊藤律はユダだなのか? (続く↓)

   11月某日 ユダ(18)

 伊藤律ユダ説が「偽りの烙印」であることが殆ど確定的であるいま、あえてなお伊藤ユダ説を前提にする無駄話にどれほどの意味があるのか。伊藤の名誉回復への妨害ではないか。そういった疑問もあろう。だが、もうしばらくおつき合い願いたい。
 それにしても。大した陰影も屈折もない駄文だのに、どうしてこんなに長くなったのだろうか。継ぎ足し継ぎ足し書いているので、同じことを何度も書いている気がする。われながら飽きてきたが、仕方がない。少し口調を変えて、急ぐことにする。
 ・・・伊藤律は、囚われていた。病身であった。幹部として自らが責任をもつ党組織は、壊滅状態にあった。彼は焦っていた。何とかして、ここを出る手だてはないのか。
 ひとつだけあった。取り引きの申し出に応じることである。しかし、取引は give and take である。 相手は、誰かの「名」が欲しい、といった。そこで伊藤は、北林トモの名を挙げ、それと引き替えに、自分の釈放を約束させた・・・。伊藤ユダ説とは、まあそういうことである。
 もちろん、これは旧特高の証言なので大いに怪しい。怪しいが、もし仮に事実だったと仮定すれば、伊藤律は、結果的にゾルゲ事件発覚の鍵を<敵>に渡してしまったことになる。そこから、ゾルゲが、尾崎秀実が、スパイの汚名を背負わされて死刑台に消えた。
 戦後、尾崎秀実の弟秀樹は、事件発覚の経緯の解明に執念を燃やし、そして遂に、伊藤律が北林トモの名を出したという情報をえた。いまふり返れば、その情報は、何らかの謀略によって作られたか歪められたものである可能性が高い。彼は、しかし、その情報を信じたのである。自分の釈放と引き替えにトモを刺し兄を売った伊藤律、そのことを隠したまま戦後も党幹部としてのうのうと生きている伊藤律。尾崎秀樹は、伊藤律こそ「生きているユダ」だ、と告発した。
 その告発は、20世紀最大の謀略事件といわれるゾルゲ事件のニュース性の高さと、ベストセラー『愛情は降る星のごとく』が呼び起こした尾崎秀実へのシンパシーの拡がりを背景に、たちまち有名な通説となった。そして更に、不幸なことには、当時の社会的激動と交錯して、伊藤が幹部であった党組織内外の対立抗争に連動してもいった。  だが・・・(続く↓)

   11月末日 ユダ(19)

 気がつけば11月も終わり。駄文のカッパエビセン状態とは困ったことである。実は、いまも既に3回分ほど書き進んでいる。・・・それを入れて、あと5回で絶対に終わろう。どうせ大した内容はないのだから。では皆様、あと5回。いやいや、いますぐ読むのをやめてもらえば、もっと早いのですが。
 伊藤律ユダ説は、たちまち通説となった。だが・・・
 状況を、次のように書き直せば、どうか。
 ・・・伊藤律は、囚われていた。病身であった。幹部として自らが責任をもつ党組織は、壊滅状態にあった。彼は焦っていた。何とかしてここを出て、闘いを続けたい。
 もちろん、出たとしても、自由な政治活動はできない。しかし、外へさえ出れられれば、地下に「潜る」ことができる。再び、非合法活動に従事することができる。治安維持法によって非合法とされ激しい攻撃を受けている党を、建て直す努力ができる。
 先に触れた「党生活者」も、こういっている。
 我々が「潜ぐる」というのは、〜逃げ廻るということでもない。〜若しも「潜ぐる」ということがそんなものならば、彼奴等におとなしく捕まって留置場でジッとしている方が事実百倍も楽であるのだ。「潜ぐる」ということは逆に敵の攻撃から我身を遮断して、最も大胆に且つ断乎として闘争するためである。
 伊藤にとってもまた、このまま「ジッとしている方が事実百倍も楽である」。だがそれでは、政治的には敗北でしかない。党を建て直さなければならない。そのために、自分が出ることこそ、党生活者としての、幹部としての義務である。
 何とかして出られないか。潜るためにここを出る手だてはないのか。  ひとつだけあった。取り引きの申し出に応じることである。もちろん、取引は悪である。だが、絶対悪ではない。レーニンも封印列車で帰国した。
 だが、党幹部である自らの釈放を勝ち取るには、代償がいる。
 相手は、誰かの「名」が欲しい、といった。もちろん、<同志>の名は出せない。出すつもりはない。自分たちの組織は絶対護る。取引相手にも、「魂は売らない」と、はっきりいった。しかし、全くデタラメな名では、取引には使えない。
 そのとき、伊藤律の脳裡に、「北林トモという名の、アメリカ帰りの変わったおばさん」が浮かんだ。おばさんの言動は少し怪しいが、どういう人なのかはよく分からない。けれども、党組織に所属する人でないことだけは間違いない。そこで彼は、北林トモは「アメリカのスパイかもしれないよ」と告げ、それと引き替えに自分の釈放を約束させた。
 繰り返すが、事実がどうだったかは、いま問題なのではない。また、伊藤律なる人物が、政治的に性格的にどういう人物であったかということも、釈放後の彼が実際にどのように行動したかも関わりない。問題はただこうである。仮にもし(たとえ事実ではなく単なる仮定であるとしても)、ある「党生活者」が、このような場面でこのように考えて行動したとすれば、それは<裏切り>なのか。(続く↓)

   ユダ(20)  (もう面倒になってきたので、一挙に続けて終わります・・)

 闘争のために、組織のために、<敵>とのある取引に応じるかどうかは、政治判断の次元に属する。伊藤ユダ説に拠れば、伊藤は、応じるべきだと判断した。
 北林トモの名を出したことはどうか。「党生活者」である伊藤は、自らが外に出るために、組織外の「おばさん」を<犠牲>に提供した。もちろん、世間的には密告である。弁護の余地はない。けれども、闘争のためにどうしても誰かの<犠牲>が必要なときがある。そのときは、たとえ世間的な日常倫理には反することであっても、心情的には忍びないことであっても、心を鬼にして決断しなければならない。「党生活者」にとっては、それはむしろ、義務である。
 たまたま「おばさん」は、ゾルゲ諜報団に繋がっていたが、それはあくまで結果である。北林トモの名を出した際、伊藤が、あの「おばさん」は大物であるわけはないし、目を付けられても大したことはないだろうと思ったのかどうか、それは分からない。また、彼女の名を口にするまで、彼がどれだけ悩んだのかも分からない。が、いずれにしても、彼にとって、トモは組織外の人である。たとえもし実際に伊藤律がトモの名を挙げたのだとしても、彼は党組織に所属する「同志」を<犠牲>にしたのではない。
 しかし、告発が単に、不用意に他人の名を出してゾルゲ事件を引き出してしまった結果責任を問うといった次元に留まるなら、あるいは、党外の者に犠牲を強いたというだけのことなら、伊藤律は、「生きているユダ」とまではいわれなかったであろう。伊藤の行動が、「ユダ」という最大級の卑劣漢に喩えられたのは、彼が、他ならぬ「自分自身」を救ったからである。世間は、自己犠牲的な行動を何より尊ぶ一方、他人を犠牲にして自分を救う者を最も嫌悪する。伊藤律はまさに、トモの名を提供することによって他ならぬ自分の釈放をはかった、と告発されたのである。
 けれども、思い出して頂きたい。「党生活者」は、笠原という女性を<犠牲>にしていることについて、このようにいっていたのではなかったか。
 〜然し私は全部の個人生活というものを持たない「私」である。とすればその「私」の犠牲になるということは何を意味するか、ハッキリしたことだ。私は組織の一メンバーであり、組織を守り、我々の仕事、それは全プロレタリアートの解放の仕事であるが、それを飽く迄も行って行くように義務づけられている。その意味で、私は私を最も貴重にしなければならないのだ。私が偉いからでも、私が英雄だからでもない。
 もちろん、世間的な心情倫理に照らせば、「カモフラージュのために」同棲したり結婚したりして犠牲を強要することや、ましてや特高刑事に知り合いの者が怪しいと密告することは、許せない卑劣行為である。だが、個々の行為についてはともかく、少なくとも一般的には、他人を<「私」の犠牲>にすることを、むしろ「義務」とする政治倫理が、少なくともある時代には、あった。(続く↓)

   ユダ(21)

 大急ぎで附記しておくが、私は、自分が釈放されることと引き替えに知り合いの誰かを密告するような行為を弁護しようとしているのではない。もしもそういう人物がいたなら、私もまたもちろん、彼を卑劣漢というだろう。だが、私が確認しておきたかったのは、私たち世間の者から「卑劣」といわれるような行動をすることを、むしろ「義務」とするような組織倫理が、かつてはあった、ということである。かつてあったことは、そして、いまもどこかにありうるであろう。
 「スパイ・ゾルゲ」にも出ている政治家で、スターリンによって粛正された、ブハーリンという人物がいる。昔、『ブハーリン裁判』という本を読んだことがある。それ以後、「政治的」ということばを聞くとき、私はいつも彼のことを思い浮かべる。
 記憶なので甚だ怪しいが、こういうことが書いてあった。・・・ブハーリンはスパイとして処刑された。公開裁判で、そのことを自白したのである。もちろん彼にそういう事実はない。筋金入りの革命家である彼は、過酷な取り調べを通じて、いかなる告発をも断固拒否し続けた。だが、ある夜、かつての同志スターリンが房に来て、鉄格子ごしに彼にいった。「必要なのは真実ではない。プロレタリアートの祖国は、いま危機的状況にある。いまこそ、改めて全人民に対して、わが政府に結集して難局に立ち向かう力を与えなければならない。そのためには、この難局は体制の歪みや政府の誤りによってもたらされたのではなく、政府中枢に外国に通じた勢力が入りこんでいたことによるのだということを証明する<事実>がいる。難局にある祖国のために、いま、君がスパイであったという<事実>が必要なのだ」。こうして遂にブハーリンは、プロレタリアート人民のためにできる最後の仕事として、「人民の敵、プロレタリアートの裏切り者」となることを引き受けたのであった。
 本の記憶は甚だ怪しい。ましてや、この話が事実かどうかはもっと怪しい。しかしともかく、この話の背後には、「プロレタリアートの裏切り者」といわれることさえもあえて引き受けるという、ある種の政治倫理がある。ある、といって悪ければ、こういい直しても良い。少なくとも、この話が話として成立していると読む読者は、ある種の政治倫理の存在を予感している。
 「党生活者には「私」はない」ということが、「プロレタリアートの解放」のために「プロレタリアートの裏切り者」の汚名を引き受けることさえ含むのだとすれば、「卑劣なユダ」といわれることなど何であろうか。(続く↓)

   ユダ(22)

 甚だ単純乱暴なことになってしまった。どうもいけない。もう終わることにする。
 ・・・思えば全ては、北林トモと光子の会話からはじまったのだった。
 山代氏(光子)がトモと話すことができたのは、彼女が、志願して軟膏塗りの仕事をしていたからである。敗戦直前の刑務所の劣悪な衛生状態のもとで、疥癬に侵される受刑者が非常に多かった。
 トモの最後は悲惨である。病に冒された彼女は、見る影もなくやせ衰え、病のために釈放された僅か数日後に、芳三郎に看取られて死んだ。
 やがて戦争は終わる。例えば獄中にあった羽仁五郎は、すぐにも人々が自分たちを解放するために駆けつけると思っていた、と後に書いている。だが、人々は動かなかった。そして、真夏の敗戦の日から月がかわり、もはや秋風が立ち始めたある朝、ある刑務所の看守は、ひとりの受刑者が死んでいるのを発見した。疥癬に侵され、身体をかきむしりながらベッドから転がり落ちて死んでいたのは、三木清という名の著名な思想家であった。
 彼は、既に治安維持法による下獄も経験していたが、今回は、高倉テルという人物をかくまったことで逮捕されて獄にあった。高倉テルも名の知られた人物であるが、「党生活者」として捕らえられていた彼は、家族の葬儀のために仮釈放されたのを機会に脱獄して「潜ろう」とした。そして、知友の三木を訪ねて宿泊し、衣服などを借りて更に逃亡しようとして逮捕され、三木の名を挙げたことで、彼を逮捕させてしまったのである。
 妻を亡くした三木は、幼い娘と二人暮らしであった。三木の獄死によって、彼女はひとり取り残された。
 だらだらと続けてきた駄文の最後に触れたいのは、高倉テルが、残された少女にあてた公開書簡である。
 もちろん彼は少女に、自分のせいでお父さんを死なせてしまったことを詫びている。だが彼は、続けて書いている。泊めてもらった夜久しぶりに将棋をしたが、「私が勝った」。そしていう。思えばあなたのお父さんは、なお「勉強が足りなかった」。お父さんは死んでしまったが、それは、私のような者が今後の闘いを続けてゆくための<犠牲>だったのだと思ってください、と。
 記憶で書いているので、正確ではない。歪めて記憶しているとすれば申し訳ない。だが、これまで長々と駄文を辿って来て下さった奇特な方なら、問題は決して個人の言動や個別的な事実にあるのではないことを理解して頂けるであろう。
 映画「スパイ・ゾルゲ」の宣伝惹句は、こうであった。

   正義が人を怪物にする。

 必要ならば、「勉強が足りない」者「無思想」な者を<犠牲>にしてでも、正義を実現する義務・・・。どんな義務も引き受けずにいまの時代にのうのうと暮らすだけの私は、それに論評を加える立場にはない。というわけで、北林トモを「ユダ」というべきだったかどうかについても何もいわない。ただ、田舎のおばさん北林トモは、「無思想なまま老いてゆく夫」を犠牲にしなかったことを、確認しただけである。
 さてさて、これで長い長い駄文を終わる。饒語を重ねて辿り着いてみれば、見古した風景が拡がるばかり。(終)
 
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