青  
原作 サミュエル ウルマン  
訳詞 岡田 義夫

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで
人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月
の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する、欽仰、事に
する剛毅な挑戦、小児の
如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

 人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる。
 人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる。
 希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全く
老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。

 

“青春”の詩は、米国人Smuel Ullman(1840-1924)の原作“Youth”がReader's Digestの1945年12月号に“How to stay young”の題で、日本に紹介された。
 この訳詩がはじめて多くの人の目に触れたのは、昭和33年9月16日付けの、日刊「東毛毎夕新聞」の"雑草苑随筆"というコラム欄で「青春とは(老人の日に)」と題した随筆で、執筆者は山形大学を定年退職され(最終勤務地は山形大学学長)、故郷の桐生市に帰られ、同新聞の社長に迎えらた森平三郎先生でした。このコラム「雑草苑」は昭和43年8月に、単行本「雑草苑随筆」として出版された。 なお、森先生は作家で評論家の羽仁五郎氏(故人)の実弟に当たられる。ご親友の岡田 義夫氏が訳されたのは恐らく昭和21年ごろであろうが、その後新聞に「青春」の詩について紹介したのが昭和33年であるから、12年もの長い間、親友の訳された詩のことを忘れずにいたのはそれだけ感動も大きかったのであろう。


青春とは(老人の日に) (上)
 蔵前時代の同級生に岡田君が居る。もう数年で七十才になる筈であるが、全く元気である。卒業するとすぐ毛織の会社に入社したが以来一貫して毛織物の仕上げを本業として居る。
 彼は仲々の通人であって酒は滅法に強い。その道にかけても仲々の強の者で、東西の事情に精通しているらしい。と云って道楽に身をくずすなどの事は毫もなく、若い時から勉強もよくやった。蔵前の生徒の頃は、学校がひけると浅草から九段の暁星中学の夜学に通い、フランス語の稽古をしていたし、会社へ入ってからは千住から牛込の物理学校へ通って、化学をみっちりと勉強した。
 学生の頃はパンダラギユ−と云うあだ名がつけられた。夏の頃当時流行の、叩くとパンパン音のカンカン帽をかぶり、歩くとギューギューとなる赤革の靴をはいて居た為である。
 タラと云うのは、彼はその頃口中唾液の分泌が多く、時にタラリとたらすと云うのである。頭のテッペンから足の先迄をうたったものである。
 その唾液のせいか彼は熱いものも平気で、さっさと平げる。一緒に汁粉やに行くと、こちらが一杯目をフウフウやってる内に彼はサッサッと三杯目位にとりついていった。そう云えば、あの蔵前の通りの一杯二銭位の、あんまり奇麗でもない汁粉やや、時によると少々奮発して柳橋のこれは一杯で五銭か十銭の色町めいた造りのお汁粉やへはよく一緒に通ったものだ。何しろ学校から近いし、柔道やボ−ト、さてはテニス等で無暗に腹をへらして居た当時である。
 この岡田君は二十才の頃、僕が桐生の会社あたりでまごまごしてるうちに早くもイギリスに渡り向うの学校へも工場にも入って本場ですっかり修業をつんでしまった上に帰り際にはフランスにも滞在したのであるから、本業は云わずもがな横道の方も自然たっしゃになったのも無理はない。爾来六十何才の今日迄彼は一言もその技術から離れないで相変らず丸善あたりに続々と洋書を注文してるのである。
 これが学校の教師ででもあれば誠に当り前であるが、彼の現在は会社の重役内至は顧問である。そして昨今は若い業者を集めて研究会等も創立し、業界の発展を企画してるのだから、僕などは及びもつかない。
 敗戦直後彼はある統制組合の世話をして居った。訪ねて雑談をしてるうちふと見ると壁に何か書いたものがはりつけてある。読み出すとなかなかによろしい。たづねると、マックアーサーの座右の銘だよとの答である。誰が訳したのかなかなかよろしい。きけば俺の訳だよとすまして居る。僕は感心してその場で写しにかゝる。彼はよせよせとてれて居った。今読んで見ると、その時ほどの感銘はない。当時はなにしろ敗戦で、誰でもがすっかりペチャンコだった。彼の訳にもきっと推稿の余地はあろうが、大体次のような文句であった。
 「老人の日」にはふさわしい文句と思う。「青春とは人生のある期間を云うのではなく心の様相を謂うのだ。たくましい意志、優れたる想像力、炎ゆる情熱、怯懦退ける勇猛心、安易を振りすてる冒険心、こういう様相が青春なのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に始めて老が来る。歳月は皮膚のシワを増すが、情熱をすてる時、精神はしぼむ。苦悶や、孤疑や、不安、恐怖、失望、こういうものこそあたかも長年月の如く、人を老いさせ、生気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
 年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。日く驚異への愛慕心、空に閃めく星辰、その輝きにも似たる事物や思想への欽仰、事に対する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。人はその信念と共に若く、その疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる。大地より、人より、神より美と喜悦、勇気と壮大と偉力との霊感を受け得る限り、人の若さは失われない。これ等の霊感が絶え、悲観の白雪が人の心の奥までもおゝいつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、その時にこそ人は全く老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。