「治療は、死は、誰のものなのか」 
(日本尊厳死協会 会長 成田 薫 記)
(平成9年10月25日第20回年次大会特別公演要旨)




人は誰でも安らかな自然の死を願う。助かる見込みがないのに、 むりやり生かし
続けられることは望まない。無益な延命を拒否 して自然な死をとげるのが尊厳死だ。

 自然な死をなぜ尊厳死というのか。人間は理性も人格もある 唯一の生きものであり、
誰でも人間らしく尊厳を失うことなく 人生の終末を迎えたいと思うのは当然であり、
だからこそこの ような自然死を尊厳死という。


「安楽死は人を死なせる行為」




   したがって安楽死とは本質的に違う。安楽死の法的概念は明確 で、助かる見込み
のない病人が、死苦にもだえているのを見かね て死なせてやるのが安楽死だ。尊厳死
は安らかな自然死、安楽死 は死なせる行為であり、広い意味でいえば人を殺す行為だ
から時 に慈悲殺ともいう。刑法上は殺人、嘱託殺人、自殺ほう助などに おなるが、
ふつうの人殺しとはその動機が全く違う。

 私が名古屋高裁判事のときかかわった山内事件は親殺しの安楽死 事件だが、親を
愛すればこその人道的行為であるとして、懲役1年、 執行猶予3年の判決とした。
これは初の安楽死裁判として、諸外国 でも大きな反響があった  尊厳死思想は新しい
だが、この考え方が抬頭した背景には、 医学のめざましい進歩がある。その進歩に
よって、やがて延命が 医学の願いだという方向が生まれた。本人が望んでもいないのに、

無理に生かし続けることが、古来からの医は仁術の精神に合致する だろうか。
治療は誰のために行われるのか、死は誰のものなのか、という 論調が年を追って高く
なって 尊厳死の根底にあるのは、ひと口 にいえば死を選ぶ権利である。どのような
死に方ををしたいかは 自分で決めるという自己決定権の承認を求めるのが尊厳死運動で
ある。


尊厳死の切り札はリビング・ウィル」




 尊厳死を達成する手段としては、協会が用意しているLW (リビング・ウィル)
が恐らく切り札だろうと思う。LWは尊厳死 の宣言書といっているが、無益な延命
を拒否して安らかな尊厳ある 死を求めることを予め書いておくもので、宣言書は医師
に対する 事前の指示書で健康なうちに、熟慮して書いておく継続的な意志 表明である
から、LWには特別な効力が認められている。医師が LWを無視して延命を医療を
強行すれば、医師が法的責任を問わ れることにもなる。一方、延命治療から手を引
いて患者が死亡し ても、それは自然死だから医師が法的責任を問われることはない。

協会は20年来この主張を続けているが、尊厳死させた医師が 法的責任を問われた
例は1件もない。  逆に医師が延命処置を強行した場合、その治療費を請求する
権利はない。



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