常陸南朝の城2
小田城に入った北畠親房が味方を募り呼応した諸侯は、小田城の小田治久、関城の関宗祐、大宝城の下妻正泰、伊佐城の伊達行朝、真壁城の真壁幹重らでした。 暦応2年(1339年)吉野で後醍醐天皇が崩御すると、親房は新帝に献上するため小田城で「新皇正統記」を執筆します。 暦応4年、高師冬率いる北朝軍により小田城が開城されると、親房は関城に拠点を移し、暦応6年(1343年)にはこの関城も落ち親房は失意のまま吉野に帰るのでした。(関城は旧茨城西部の城から移動)
1つ前に戻る ホームへ戻る
関城 |
所 在:茨城県 真壁郡関城町
地図[MapFanWeb] 交 通:関東鉄道 常総線 騰波ノ江(とばのえ)駅下車 徒歩20分 種 別:中世 平城 撮 影:1998年 2月 結城家二代朝広の四男朝泰が、結城家の領地の一部を相続、地頭となり関氏を名乗ったのが始まりで、南北朝時代の初期、常陸における南朝の中心となった城です。 関城主の関宗祐は、1338年、吉野から海路で常陸に上陸した南朝方の北畠親房に協力し、1341年小田城(関城から西南20km)が落城すると、北畠親房を関城に迎え、関城は、南朝方の重要拠点として機能します。 2年後の1343年、北朝との籠城戦を経て落城。関宗祐、宗政親子は討死、北畠親房は吉野に戻っています。 上写真は関城城跡にある関宗祐の墓と城跡の説明看板です。関城は、南を先端にした舌状の台地にある城で、かつての台地の下は大宝沼が広がり、それなりの要害であったようです。 中写真はその舌状の先端部分で、わずかですが高台になっているのが今でも分かります。遺構は、本丸跡、二の丸跡といったまとまった遺構でなく、雑木林の中に土塁が確認できる場所がいくつかあります。 下写真は北朝方が、関城の物見矢倉を攻撃するために掘ったとされる坑道跡で、上記の関城城跡から東北に200mほどの田んぼの真ん中にあります。現在でも5mほど中に入れますが、それ以降は暗くて狭いのであきらめました。この作戦は途中で地盤が崩れたため失敗に終わっています。 関城の南4kmほど行くと、かつての大宝沼南限の高台があり、関氏とともに北朝と戦った下妻氏の大宝城があり、現在は大宝八幡宮になっています。 なんと、この関城から大宝城までの広範囲に渡り、昭和9年の早々に国指定史跡になっています。 |
伊佐城 |
所 在:茨城県 下館市中館
地図[MapFanWeb] 交 通:JR水戸線 下館駅下車 車10分 種 別:中世 平城 撮 影:1999年 10月 この中館の付近は、伊佐氏の子孫から派生した伊達氏の発祥の地で、本領が陸奥に移ってからも代々領していたようで、伊佐城と下館城は同一であるとする説もあります。 足利尊氏が京都で武家政治を復活させた時、南朝方の北畠親房が延元3年(1338年)が海路で常陸に入り、小田城に入城した際、伊達行朝はこれに従い、自身は一族の守る伊佐城に入りました。 以後、小田城、関城などと呼応しながら北朝方の高師冬軍との攻防戦を展開しますが、興国4年(1343年)南朝の各城が落城する中、北畠親房が吉野に逃れるのに合わせ、孤城をささえ奮戦した行朝も力尽き陸奥へ去っていったとされます。 その後の伊佐城は城としての機能はされていないようです。 城跡は、下館市街地から北へ2キロの、五行川左岸の高台にある中館観音寺の境内になっており、春には花見客でにぎわうようで、郭跡らしき遺構が見受けられます。 上写真は本堂の前にある土塁により区画されてる広場で、西に隣接する保育園のグランドも兼ねているようで、運動会があったんでしょうか白線のトラックが引かれていました。 下写真は城の東側に流れる五行川で、藤原秀郷が建てたといわれる下館(のち下館城)、中館(のち伊佐城)、上館(久下田城)の三館はこの五行川右岸に位置し、 勤行川(ごんぎょうがわ)との記述のある古い本もありました。流れが穏やかな趣のある川ですね。 写真左側が伊佐城ある高台にあたります。 |