大和の城2
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大和国第2弾です。松永久秀の多聞城、筒井順慶ゆかりの筒井城ともに遺構はないのを承知で見学してまいりました。 多聞城への行き方を奈良駅の観光案内で聞いたところ、期待に反してちゃんとした答えが返ってきました。観光名所ではなくとも訪れる人がいるのでしょう。 筒井城は何もありません。順慶ファン以外はお勧めできません。 十市氏が築城した龍王山城は比高500m近くあり、見学は4時間近く掛かりますが、中世城郭が良く残った規模の大きな城です。南城の見学は程々にして北城をじっくり見るとよいでしょう。
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多聞城 |
所 在:奈良県 奈良市多門町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR関西本線奈良駅 バス15分 種 別:中世 平山城 永禄3年(1560年)松永久秀が築城した城で、宣教師の見聞記で白壁をもつ多くの櫓や四重櫓の存在が報告されており、日本城郭史上初の本格的な高層建築でしょう。ちなみに細長い櫓のことを一般的に多聞櫓と呼んでいますが、久秀が多聞天を奉ったことがこのネーミングの由来だそうです。 大和で強大な勢力を誇った久秀も、筒井順慶、三好三人衆との争いで徐々に衰退し、天正元年(1573年)多聞城を信長に明け渡し信貴山城へ退きました。 その後は信長の武将が入城しますが天正5年に順慶により取り壊され、同年久秀は信長により信貴山城を攻められ滅亡しています。 遺構は全く確認できません。東側の高台にある中学校の敷地と、西側の仁正天皇陵、聖武天皇陵がくっついた縄張のようで、現在中学校東側に走っている道路は旧掘跡かもしれませんが道路を見ても面白くありません。 遺構は掘切や土塁が天皇陵の中で確認されているそうですがもちろん見学は不可能です。 写真は多聞城というより仁正皇后陵を北側の住宅地から撮ったものです。一応証拠写真ということで.. |
筒井城 |
所 在:奈良県 大和郡山市筒井町
地図[MapFanWeb] 交 通:近鉄 橿原線筒井駅下車 徒歩10分 種 別:中世 平城 筒井氏は早くから大和の有力豪族で、永享元年(1429年)には筒井城の前身として筒井館が存在していたようです。 戦国期に筒井城を巡る攻防の記録は非常に多く、文明8年(1476年)に越智氏、明応7年(1498年)には赤沢氏、享禄元年(1528年)には柳本氏や木沢氏との覇権争いで一進一退を繰りかえします。 木沢氏滅亡後台頭したのが龍王山城の十市遠忠で、筒井当主の順昭は遠忠と覇を競い天文14年(1545年)遠忠の死により大和の制圧に成功します。その順昭も天文20年に死去すると子の順慶は幼少で、松永久秀の台頭もあり筒井氏の覇権はまた奪われてしまいます。 順慶が成長すると久秀と激しく争い、久秀滅亡後の天正7年(1579年)に織田政権の大名として筒井城の改修が行われますが、翌年に郡山城へ移転になり筒井城は廃城となりました。 かつて市中を惣掘で囲んでいた城も現在は市街地になり、遺構はほとんどありません。小さな神社に順慶の碑があり、城の中央部であったろう別の神社には順慶の木像があるそうです。 写真はその神社の裏手にある湿地帯で掘のなごりであると勝手に思っていいます。 >見苦しい写真で申し訳ありません。 |
龍王山城 |
所 在:奈良県 天理市柳本町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR桜井線 柳本駅 徒歩2時間弱 種 別:中世 山城 龍王山は標高520mで西側は大和平野が見渡せる拠点であり、麓の道は天理市街まで山の辺の道と呼ばれハイキング客でにぎわっています。この城の特徴は山頂に、中世初期の単純な縄張である南城、北1kmの別峰には中世過渡期の複雑な縄張をもつ北城と二つの城があり、大和国で最高位にある規模も信貴山城と競う大規模な山城です。 築城した十市氏は古くから筒井氏との関係が強い豪族で、山の南西にある十市平城(現橿原市十市)を居城とし、事あるごとに山の東側の集落に逃避を繰り返したようで、そのころから南城には簡単な砦があったとされています。 十市遠忠が家督を継いだ天文2年(1533年)に、河内から乱入した木沢長政と筒井氏が結んだため十市氏は孤立し、遠忠は北城に本格的な城郭を築きます。 天文11年長政が敗死すると遠忠の勢力は筒井氏を上回り全盛を迎えます。遠忠は武人のみならず歌人として公家とも交際しその名を馳せますが天文14年に急死します。 永禄5年(1562年)跡を継いだ遠勝は松永久秀に降り、三好三人衆が筒井順慶と結ぶと家中は対立分断され、龍王山城に残った遠勝も、永禄11年(1568年)宇陀の秋山氏が領内に乱入すると、龍王山城を放棄し十市平城へ退きます。 まもなく遠勝は死去し、久秀は遠勝の娘と久秀の甥を祝言させ、龍王山城に十市残党の集結させますが、久秀が信貴山城で滅亡とともに龍王山城も廃城となりました。 上写真は山の最高位にある南城です。三つの連郭式縄張で一番低い三番目の郭から上の郭を撮ったものです。二番目の郭には礎石も良く確認できますが、城の建造物であるかどうかは不明です。後世の神社の跡かもしれません。 一番上の郭からの眺めは最高で、麓の古墳群や平野が一望でき西に対極する二上山もよく見えます。 中上写真は北城の南虎口にあたり、写真の上半分にある大きな穴は丸掘で円形桝形とも呼ばれています。この丸掘の向かって右に一段上がって太鼓ノ丸、左に辰巳ノ櫓の曲輪がありますが見学は不可能でした。写真は本丸へ至る道から撮っており、うねうねした道が虎口に向かって降りているのがよく分かります。 中下写真は南虎口の西側、太鼓ノ丸直下にある竪堀群で畝掘とも呼ばれているものです。写真左上から右下に筋状の空堀数本が走っているのが分かるでしょうか? 上から大きな石を転がし攻め手を防ぐもので、私は畝掘を明確に確認したのは初めてで感動と同時に、マリオブラザーズを思い浮かべてしまいました。(>失礼!) 下写真は北城の本丸で御覧のとおり広大なものです。 その他、本丸の北側や西側にも曲輪がいくつかあり、また大手とされる西ノ手丸向かう途中所々に空堀や曲輪が無数に確認できますが、整備があまりされていないのと台風の影響で倒木が多いことで、ついに西ノ手丸まではたどり着くことが出来ませんでした。 この大和を代表する中世山城は一度も実戦に使用される事無くその生涯を閉じているのです。 |