下野の城2
![]()
栃木県の城第2段です。今回は宇都宮氏と縁深い塩谷氏と芳賀氏の城の紹介です。 矢板市にある塩谷氏の川崎城と御前原城は距離もさほど離れてなく、山城である川崎城が本城で市街が一望できる要害にあり、平城である御前原城が支城的な存在で、現在は家電S社の工場の敷地に囲まれた方形の本丸が残っています。 芳賀氏の飛山城は国史跡指定を受けた立派な断崖上にある平城で、現在は発掘調査が進んでおり今後の整備公園化が楽しみな城です。
1つ前に戻る ホームへ戻る
川崎城 |
所 在:栃木県 矢板市川崎反町
地図[MapFanWeb] 交 通:東北本線矢板駅 徒歩40分 種 別:中世 山城 撮 影:1999年 5月 建仁年間(1200年頃)塩谷朝業が築城した城で、朝業は宇都宮家4代業綱の2男で塩谷家に養子に入りました。 歌人としても有名で鎌倉4代将軍実朝の歌の相手をしていた人物です。 実朝の暗殺後の朝業はこの川崎城にて出家し、歌と信仰に余生を過ごしたようです。 朝業から13代目の教綱のころ、宇都宮宗家は同族の武茂氏から持綱を相続させますが、これに不満を持った教綱は、応永30年(1423年)川崎城近くで、持綱とその家臣を謀殺しています。自身も長禄2年(1458年)宇都宮城にて謀殺され、塩谷家は断絶しています。 宇都宮氏17代目成綱の弟孝綱が塩谷家を継ぐ頃には、宇都宮氏と那須氏の争いの全盛で、孝綱の長男由綱が川崎城、次男孝信は喜連川城主となると、次男孝信の妻が那須方の大関氏の娘だったことから兄弟敵味方となり、弟孝信は喜連川城が落城すると、川崎城を奇襲により放火、それを知った兄由綱は自殺、若干6才の義綱は家臣に連れ出され、数年後に川崎城に戻りました。 秀吉の小田原攻めにより塩谷家は改易、川崎城も廃城となりましたが、 義綱は常陸佐竹氏を頼ったため、塩谷家は秋田移封にも伴い、家老格で明治を迎えているそうです。 上写真は東側からの遠景です。南北に長い小山であり、西側は崖状ですぐ横に東北高速道路が走っています。本丸からは東側展望が開け矢板市街が一望できます。 縄張は本丸を頂点に、二の丸、三の丸、帯郭が取巻いている平凡なものですが、武者走りのような道が螺旋状に本丸に至っていることから蝸牛城の別名を持ちます。 遊歩道も良く整備されお花畑になってる郭もあります。下写真は本丸から撮った二の丸で木製のジムがありました。本丸南側にある帯郭との間の深い堀も見所です。 |
御前原城 |
所 在:栃木県 矢板市中字御前原
地図[MapFanWeb] 交 通:東北本線矢板駅 徒歩40分 種 別:中世 平城 撮 影:1999年 5月 築城は定かでなく源義家の孫頼純による説や、正和4年(1315年)塩谷頼安による説がありその時代も大きく異なります。 いずれにしろ川崎城築城後は支城として機能していたようで、小田原攻めで塩谷家が改易になった時は、義綱の庶兄義道の居館でした。 かつては壮大な輪郭式縄張でしたが、現在は堀に囲まれた方形の本丸を残すのみです。写真は東側堀を撮ったもので、当然ですが掘が高い右側が本丸になります。 写真左奥の芝の部分には虎口の遺構があり、若干残っている桝形状の凹凸にひどく感動しましたが、写真ではその感動を御伝えできません。 |
飛山城 |
所 在:栃木県 宇都宮市竹下町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR宇都宮線宇都宮駅 車20分 種 別:中世 平城 撮 影:1999年 8月 永仁年間(1295年頃)芳賀高俊が築城した城で、芳賀氏の本城である芳賀城(真岡市)から、より主家宇都宮氏に近いこの地に築城したとされています。 芳賀氏は天武天皇の末裔清原氏の末裔であり、高俊から4代前の高親の時代に、益子の紀氏と共に宇都宮氏に仕え、以後紀清両党として坂東武者の代名詞となる勇猛を誇りました。 宇都宮氏と芳賀氏とは密接な親族関係にあり、南北朝時代は、常陸にあった北畠親房の南朝軍に対する北朝の最前線の城としての位置づけがあったようです。 良好な関係が続いた両家も、永正9年(1512年)宇都宮成綱が筆頭家老の芳賀高勝を殺害すると、天文8年(1539年)、芳賀高経は宇都宮尚綱との争いに敗れ幽閉殺害されると、高経の子高照は那須氏と手を組み、天文18年(1549年)喜連川の早乙女坂の戦いで、尚綱を討つますが、自身も芳賀氏を継いだ高定に討たれます。 高定の弟高継が継ぐと、秀吉の北条攻めを経て宇都宮氏改易と運命を共にし、飛山城は廃城になっています。 宇都宮市街から東方7kmの鬼怒川左岸台地ある城で、城の北、西の直下は断崖であり、東、南は、二重の堀で区画された広大な平城です。 堀の内側には名称のない郭がたくさんあり、手元の縄張図ではT〜Zの記号で表現されています。一番大きな郭は城の南半分を占めるY郭で、空堀をはさみ北半分にX、W、V、U、T郭と北端に向け郭も小ぶりになっていきます。こちらの区画も空堀によるものですが、前記のものよりかは規模はぐっと小さめです。城主のいた本丸部分はT、U、V郭と推測されています。 上写真は外側の堀を撮ったものです。二重堀の外側には櫓台跡と考えられる突出部が等間隔に5つあり、縄張図では南側の真ん中のものがNo.1、南東の角がNo.2、ここから北に向けて順に3、4、5と番号が付いています。上写真の奥には見づらいですがNo.3櫓台も写っています。 中上写真は内側の堀にかかる土橋であり大手口と推測されています。 大手口の外側の堀は土橋でなく、木橋跡の遺構が発見されたようです。 土橋を渡り城内に入ると中下写真の枡形に出ます。 この堀は、前記の城を南北に分断している空堀であり、左がY郭で右がX郭です。 私は、桝形は土塁で構成されるものとの思い込みがあったので新鮮な感じがしました。 下写真はW郭の全容で発掘調査中でした。郭内の土をまんべんなく取り除いているようで、木の根本の土が盛り上がっています。 堀立柱建物跡の遺構が確認されているようです。 その他、W郭の南端中央には城の搦め手と推測されるかわいい土橋が掛かっていました。 飛山城では発掘調査を進めており、陶器、馬具、古銭など豊富な出土品も出ており、その後は整備公園化の計画もあるようです。 手付かずの広大な敷地、完全に残っている二重の堀が非常に魅力的であり、本気で整備すれば結構な新名所になるでしょう。宇都宮市の奮起に期待します。 |