下野の城
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ついに身近な城を掲載してしまうことになりました。栃木県の城です。 下野の諸侯の多くは秀吉の小田原征伐によって多くが改易され、かろうじて残った宇都宮氏、佐野氏も後に改易、下野生え抜きの豪族のほとんどが近世大名になれませんでした。 徳川幕府になってからは天領、譜代の小藩が多く、城主もめまぐるしく代わり、宇都宮に入封した本多正純も例の釣り天井で失脚と、栃木の城にはよい印象がなく、一般的には栃木で自慢できる城はありません。 が、山や川(川沿いの丘陵)に遺構が現存している城がいくつもあり、城郭ファンなら見逃す手はないでしょう。
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壬生城 |
所 在:栃木県 壬生町本丸
地図[MapFanWeb] 交 通:東武宇都宮線壬生駅 徒歩20分 種 別:近世 平城 文明年間(1470年頃)壬生氏初代胤業の子綱重が築城した城で、4代綱雄が外郭や出城の整備など本格改修改築します。壬生氏は5代義雄の時に小田原征伐により滅亡。その後三浦氏、松平氏などを経て、157年間に渡る鳥居氏の統治で幕末に至ります。 1712年に鳥居家初代の忠英が壬生城主になると、領内に殖産興業策としてカンピョウ栽培を実施させ、このカンピョウは現在の栃木県の名産となりました。 江戸時代の壬生城は本丸、二の丸、三の丸など6つの郭を掘や土塁で囲み、天守や櫓はなかったようです。 本丸には、関ヶ原の東軍の盾となり伏見城籠城戦で壮絶な最期をとげた元忠を奉る神社もあったようです。 写真はわずかに残る本丸南側の掘ですっかり綺麗に整備されています。本丸内は真新しい公民館、図書館、歴史民俗資料館がありました。 |
皆川城 |
所 在:栃木県 栃木市皆川城内町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR両毛線 栃木駅下車 車30分 種 別:中世 山城 応年元年(1394年)皆川氏を名乗った長沼秀宗が築城し、7代広照の時に豊臣軍によって落城するまでの196年間皆川氏の居城でした。 この間皆川氏は数多くの戦の連続で、めぼしいところでは大永3年(1523年)宇都宮氏との戦、天正12年(1584年)北条氏との戦、そして天正18年(1590年)の落城の戦いでは豊臣方の上杉景勝の大軍により攻略されています。 皆川広照は文武両道に優れた人物で、武名を上げたのはむしろ皆川城落城後で、豊臣秀吉に許された後は栃木城築城に着手し、一国一城令で廃城になった後は、徳川忠輝の家老を経て、大阪夏の陣にも徳川方で参陣し、家光にも取り立てられ常陸国府中で1万石を封じています。 城の現状は比高80mの頂上の本丸跡に城碑があり、ここから東、南側の眺望が良く効きます。この本丸を頂点にして裾野に帯郭や武者走りが何重にも取巻いており、この城の別名は法螺貝城とも呼ばれていました。 上写真は頂上付近のもので数段の帯郭らしき物が確認できます。 下写真は山の麓にある居館跡とされているところで現在は公民館になっています。写真右のグランドの端には土塁が良く残っていますね。 皆川城は山の西側半分は綺麗に木が刈られ、縄張の起伏を利用したアスレチックコースになっていますが、東側半分は私有地のようで手が加えられていません。このアンバランスさが妙な印象を受けちゃいますが、山全体を要塞化した様子がよくうかがえます。 |
烏山城 |
所 在:栃木県 那須郡烏山町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR烏山線 烏山駅 徒歩20分で登山口 種 別:近世 山城 応永25年(1418年)那須氏が築城したのがはじまりで、烏の導きにより城地を決定した伝承があるためこの名前がついています。 以後8代に渡り那須氏の居城で、那須資晴の代に小田原参陣に遅れたため、秀吉の怒りを買い領地没収となりました。 その後はめまぐるしく城主が代わり、忍城籠城で名を馳せた成田氏や、織田信雄、幕府直轄などの時代を経て、享保10年(1725年)に大久保氏が入封すると8代にわたり維新まで続きました。 比高150mほどの山頂に五城三郭と呼ばれる縄張があり、五城とは北から、北城、中城、古本丸、本丸、本丸の西にある西城を指し、三郭は北城の西の大野曲輪、本丸と西城の間の若狭曲輪、本丸の東の常盤曲輪のことで、那須氏時代の古本丸から拡張が続けられたようです。 上写真は大手道途中にある堀切で車橋跡と看板がありました。ここを渡るとまもなく正面に常盤曲輪の石垣に出て、左に曲がると吹貫門跡に出ます。 ここからさらに左に行くと正門跡があり、草木がうっそうとした中で石段の跡や礎石など確認できました。 中写真は正門跡付近にある石垣の遺構で、写真左にはすぐ本丸への入口があります。 ここから広大な本丸、掘を隔てて古本丸と踏破が可能ですが整備は全然されていません。 若干古本丸の方が高い位置にあり、築城当時はこちらが本丸で、戦国時代早々に建造物が全焼してから現在の本丸に移動したようです。このような経緯から古本丸の名が残っているのでしょう。 古本丸を通過して掘を降りると、中城の左側を迂回するように、北城との間にある掘底を通って古本丸の東側に出られます。中城の踏破は不可能でしょう。 下写真は本丸の東側下から撮ったもので左上にある高台が古本丸にあたります。 その他の曲輪の大半は薮の中で見学は困難ですが、本丸、古本丸を取巻く掘の深さは容易に確認できるでしょう。 麓には三の丸跡の石垣による段の遺構があります。 |