播磨の城
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秀吉の中国攻め関連で落城の歴史がある3城です。三木城は兵糧攻めで名を馳せており、遺構はありませんが地の利を見る楽しさはあります。 上月城は4度の落城の歴史をもち、尼子再興の夢果てた落城の話しも有名ですが、城の遺構となると大したものではありません。 3城の中でも一番マイナーであろう利神城は、江戸初期に築城された山城であり、現在も山頂に残る城郭の石垣は見事です。崩壊が激しいので早めに見に行って下さい。
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三木城 |
所 在:兵庫県 三木市上の丸町
地図[MapFanWeb] 交 通:神戸電鉄 上の丸駅から徒歩5分 種 別:中世 山城 築城は後期赤松家が再興された頃、別所家初代の則治によるもので、則治は赤松家臣団の中でも有力な武将であり、東播磨守護代の権力を持っていたとされています。 三代目村治の代の三木城は、主家赤松氏を見限った浦上村宗による攻撃、2回に渡る尼子晴久による攻撃を受け、これらの攻防を経て別所氏は主家赤松氏からしだいに自立し、細川元晴の与党三好長慶の傘下に入りました。 四代目安治は信長と結び、五代目長治になると北播磨の在田氏を破り、別所家の全盛を迎えますが、天正6年(1578年)の秀吉による毛利攻めが始まります。 当初は毛利攻めの先導を任されていた長治ですが、諸豪族と連帯して秀吉に叛旗を翻します。叛旗の真相は毛利による調略の成果とされているようです。 こののち長治は三木城に籠城。秀吉は別所氏に呼応した諸氏の城を1つ1つ落し、三木城を孤立させ兵糧攻めを行い、天正8年の1月、長治は城兵の命の保証を条件に自刃し、三木城は開城されました。足掛け三年間にわたる籠城戦は戦国史において突出したものでしょう。 以後の三木城は姫路城の支城となりますが、元和元年の一国一城令で廃城になっています。 美嚢川(みのがわ)左岸の丘に位置する城で、かつては本丸、西の丸、東の丸、新城など南をのぞく三方は崖で、南は八幡山がある要害の地なのですが、現在はすっかり宅地に成り果て、現在では本丸北側のコンクリートで固められた崖で、要害の雰囲気を堪能するしかありません。 上写真は本丸天守台跡にある別所長治の時世の句の碑で、”今はただ うらみもあらじ諸人の いのちにかわる 我が身とおもえば”とあるそうです。 下写真は本丸から北側を撮ったもので、模擬塀の向こうに市街と美嚢川が写っています。 現在本丸には、保育園、金物神社、金物資料館などありました。 |
上月城 |
所 在:兵庫県 佐用郡上月町上月
地図[MapFanWeb] 交 通:JR姫新線 上月駅から徒歩20分で登山口 種 別:中世 山城 築城は正治年間(1200年頃)までさかのぼり上月氏が築城したとされています。嘉吉の乱(1441年)後は山名一族の城となり、天文7年(1538年)尼子晴久により攻略され、尼子の播磨進出の拠点の城となりました。 永禄十年(1567年)には毛利が攻略。 天正5年(1577年)には毛利方の赤松政範が籠城する上月城を、秀吉軍が落城させます。 秀吉は尼子再興を願う尼子勝久と山中鹿之助らに与え、自身は姫路城に戻りますが、翌年の天正6年に毛利の大軍に攻撃され落城。尼子勝久は自刃し鹿之助も謀殺されました。 写真は比高140mの山頂にある本丸にある碑で、赤松政範主従の慰霊碑です。(ほとんど墓ですが..) 本丸は容易に平削地が確認できますが、西にある二の丸は看板の存在はあったものの、ちょっと広い山道の雰囲気で明確な曲輪の確認ができません。 さらに西には馬落しとされる堀らしきものもありますが、こにらも大したものではありません。 |
利神城 |
所 在:兵庫県 佐用郡佐用町平福
地図[MapFanWeb] 交 通:智頭特急線 平福駅から徒歩60分 種 別:中世 山城 貞和5年(1344年)赤松氏の支流である別所氏が築城したもので、白旗城の北の守りとしての機能があったようです。 嘉吉の乱(1441年)で赤松家と共に滅亡しますが、応仁元年(1466年)に別所治定が城主に返り咲きます。 秀吉の中国征服時の城主別所定道は、秀吉に人質を送り恭順の意を示していましたが、天正6年(1578年)上月城の山中鹿之助に攻められ落城しました。 その後は宇喜多の所有を経て関ヶ原後は、姫路城主となった池田輝政の甥由之が利神城主となりました。 由之が築いた利神城は三層の天守を中心に、曲輪を回廊で結んだ威容を誇るもので、これをみた輝政は早速に破壊を命じ、由之を退去させています。 その後数回城主が変り、元和元年の一国一城令で廃城になりました。 佐用川の左岸に位置する標高373mの急峻な山で、登山は南側から尾根伝いに1時間ほどかけて登ります。 山頂部分には周囲をすべて石垣で固めた広大な三角形の平削地があり、最初に出会う遺構の三の丸城門跡から、東側に見る石垣の列は圧巻ですが写真は失敗しました。 三角形の真ん中には総石垣造りの本丸があり、西側は崩落が激しいですが東側から登れ、上からは真下に佐用川を挟む平福の街並みが綺麗に望めます。 本丸北側には東側の鴉丸と西側の大坂丸を区画する石垣の列が見受けられます。 上写真は大坂丸側から撮った石垣の列で、中央に虎口の跡が明確に確認できますね。 中写真は、本丸の東南に位置する二の丸から、東側城外に出る桝形の石垣で、影で分かりづらいですが、石垣は写真中央で右側に折れています 無理矢理城外に出ると、今にも崩れそうな石垣の壁が目の前に迫り、なかなかのスリルです。(立ち入り禁止区域です。<真似しない様に..) さらに本丸の東南には馬場とされる曲輪もありますが、踏破は非常に危険でしょう。こちらも周囲を石垣で固められおり、雑草交じりの石垣の列が見事です。 城下の平福は因幡街道の宿場町で、下写真の佐用川沿いの古い家並みが風情があります。近くには宮本武蔵最初の決闘の河原もありました。 |