播磨赤松の城3
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残りの赤松由来の城です。龍野城はまぁまぁ有名な城ですが、コンテンツ上このページで紹介した方がいいでしょう。 室山城は戦国期に悲惨な運命をたどった浦上氏の城で、江戸時代は海の宿場街として栄えました。九州など雄藩の参勤交代では、ここで船を下り陸路で京や江戸に向かったそうです。遊女の街でも知られています。 光明山城は畝状竪掘群で有名?なんですが場所が特定できませんでした。一応写真を撮りましたので強制掲載します。
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龍野城 |
所 在:兵庫県 龍野市龍野町上霞城
地図[MapFanWeb] 交 通:JR姫新線 本竜野駅から徒歩20分 種 別:中世 山城、近世 平山城 後期赤松の初代政則が、娘婿の義村に宗家二代目を託す決断をしたのち、側室が政則の男子(のちの赤松村秀)が誕生したため、お家騒動を危惧した政則は、その子を塩屋城の宇野政秀に養子に与え、明応仁8年(1499年)宇野政秀が赤松村秀のために鶏龍山に築城したのが龍野城のはじまりです。 この龍野系赤松氏は4代続き、天正5年(1577年)に本城置塩城にならい秀吉に屈服し開城します。 のちに蜂須賀、木下、石川と豊臣の諸将が入封し、関ヶ原後は池田、京極、天領の時期を経て、寛文12年(1672年)脇坂氏が入封すると10代に渡り維新まで統治します。 龍野城は鶏龍山山頂に中世城の遺構を持ち、山麓に近世城郭の復興建築物がある城で、、城が山麓に移った時期は定かでなく石川氏統治時代や、京極氏時代とも言われています。 上写真は揖保川を手前にした鶏龍山で、標高210mの印象的な小山です。 残念ながら山頂の中世城は、登山道が見つからなかったことと、夕暮れも迫っていたこともあり見学していません。 下写真は山麓にある復興埋門を城内から撮ったもので、多聞渡櫓形式になっています。 その他の復興建築物は長塀や西端にある二重隅櫓で、本丸中央には古絵図を元に復元されたかわいらしい本丸御殿あり、資料館になっていますが閉館でした。 また龍野は城下も良く残っており、古い醤油工場が情緒をかもし出しています。 しかし鶏龍山の登山道はどこにあるんでしょうね? 少なくとも麓の近世城跡からの登山道は見つかりませんでした。御存知の方はお教え下さい。 |
室山城 |
所 在:兵庫県 揖保郡御津町室津
地図[MapFanWeb] 交 通:山陽電鉄網干駅 バス30分 種 別:中世 山城 室山城のある室津は古くから栄えていた港町で、源平時代に室小四郎が砦を築いた伝承や、赤松の祖である赤松円心が室津港を押さえるために築城した説があります。 建武2年(1335年)九州へ敗走した足利尊氏を追う新田義貞の追討軍は、円心の長男範資が守る室山城を攻め落とすと、赤松本城の白旗城を攻めますが、尊氏が九州の兵を率いて東上を始めると、義貞は白旗城攻略をあきらめ兵庫まで引き下がります。 円心は室津で尊氏軍と合流して湊川合戦に挑んだのでした。 応仁の乱後、後期赤松の執事である浦上則宗が室山の城主となり、則宗は室津海域の税に支えられその武略により勢力を増し、主家赤松を凌ぐようになります。 大永元年(1521年)則宗の孫の浦上村宗は、主家赤松の二代目義村を室津に幽閉し殺害。下剋上に至りますが、その村宗も義村の子の赤松晴政に京で殺害されています。 室山城には村宗の子の浦上正宗がおり、主家赤松に代わって台頭した龍野系赤松の村秀、政秀親子は、永禄9年(1566年)正月、正宗の子の浦上清宗が祝言を上げている中、室山城を急襲し、正宗親子と花嫁ごと殺害しました。以後、室山城は廃城になっています。 室津は小さな半島が出っ張っているところで、上写真は半島の最高位にある本丸跡です。(写真奥の山は半島の山ではありません。)土塁らしきもので囲まれている雰囲気がありますが、野ざらし状態で踏破は無理でしょう。近くには住宅が迫っているため、海への展望も良くありません。 遺構はこれだけでしょう。 下写真は現在の室津港です。この写真の反対側には江戸時代の買積廻船問屋を復元した室津海家館があります。京や江戸に向かう朝鮮通信使が必ず寄港したそうで、館内にはその時の饗応料理のレプリカが展示されていました。 写真向こうの小山には賀茂神社で古くから海上安全のため鎮座しているます。(>当然見ていない) |
光明山城? |
所 在:兵庫県 相生市睦町光明山
地図[MapFanWeb] 交 通:JR山陽本線 相生駅から徒歩XX分 種 別:中世 山城 城跡の場所は特定できませんでした。その時の経緯は、ひとり言[謎の播州光明山城]にあります。 建武年間(1335年ごろ)赤松円心が築城し、南北朝時代には海老名氏、応仁の乱後は宇野氏、その後は龍野系赤松氏の城代が居城し、秀吉の播磨征伐で廃城になりました。 上写真は光明山であろう山頂付近のそばにあった石塔で、山道のすぐ側にありました。 人工的な物はこれだけです。看板などの指標もありませんでした。 下写真は同じく山頂付近にあったもので、竹林のなかに三段の郭みたいなものが確認できますが、遺構であるかは確定できません。まぁ、なんでもその気になれば遺構に見えてくる自分が恐ろしいです。 誰かこの城の真相を教えて下され! |