播磨赤松の城2
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赤松ゆかりの城第2弾です。嘉吉の乱で一時は断絶された赤松氏は、細川家の擁護により応仁の乱の間隙をついて再び播磨、備前、美作の三国の守護に返り咲きます。 栄華を誇ったのは後期1代目の政則だけであり、備前、美作では浦上氏の台頭、本国播磨では割拠の時代に突入し、ついには播磨で戦国大名が成長しなかった事もあり、赤松氏は一応最悪の滅亡だけは避け秀吉の中国攻めを迎える事になります。
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感状山城 |
所 在:兵庫県 相生市矢野町森
地図[MapFanWeb] 交 通:JR山陽本線 相生駅からバス30分で登山口 種 別:中世 山城 別名瓜生城とも呼ばれ、鎌倉時代に瓜生氏により築城された伝承があり、南北朝時代に赤松円心の三男則祐が築城した説もあります。 建武3年(1336年)足利尊氏が九州に落ちると、新田義貞の播磨侵攻に対し本城白旗城の円心の呼応した則祐がこの城に籠城してよく戦い、義貞の大軍を追い払いました。 その戦功により尊氏から感状を与えられたので、以後この城を感状山城と呼ばれるようになりました。 以後赤松一族の居城でしたが、天正5年(1577年)秀吉の播磨攻略で落城しています。 城は標高240mの山頂にあり、尾根上に主要の曲輪が直線的に並んだ梯郭式の縄張を持ち、野面積みの石垣や礎石がたくさん残っています。 上写真は山の尾根の東端にあたる物見岩から、本丸付近を撮ったもので、写真中央は南曲輪群の石垣です。 しばらく登るとV曲輪群に出られ、3段ほどの平削地が確認できます。 中写真はその一番高い平削地から撮ったもので、段差の部分には石垣も確認できます。 この写真の右側奥には北に向けて出曲輪もありました。 さらに登ると展望が開き、上写真の南曲輪群や南U曲輪があります。このあたりの石垣は見事で、結構な巨石で構成されており、さながら朝鮮式山城の古代城を見ているようです。 南U曲輪には礎石らしき石がたくさん見受けられますが、にわかには建造物跡かどうかは疑問です。なにか調査結果があるのでしょうか? 南U曲輪の北隣には小さな帯曲輪があり、ここには崩れた石垣がゴロゴロしています。ほんの少し崩れずに貼りついている石垣が妙に印象的です。 下写真は最高位のT曲輪から撮ったもので、T曲輪とU曲輪の間の石垣です。 T曲輪にも、山の地肌が露出した地面にたくさんの礎石があり、写真左下にはその一つが写っています。 T曲輪からは東南方向の眺望がよくきき、この山が平野の北限にある事がよく確認できます。 朝鮮式山城を彷彿させる石垣、妙にたくさん残っている礎石など、妙に不思議な中世山城です。 山の麓には石仏が彫られている洞窟があり、羅漢の里として観光客を集めているようです。(>私は見ていない) |
置塩城 |
所 在:兵庫県 飾磨郡夢前町宮置
地図[MapFanWeb] 交 通:JR山陽本線 姫路駅からバス40分で登山口 種 別:中世 山城 嘉吉の乱で一時断絶していた赤松氏でしたが、後裔の政則は応仁の乱に乗じて赤松氏の再興に成功。1469年(文明元年)置塩城を築城し、播磨、備前、美作の三国の守護に復帰し幕府でも要職につきます。 城下は京都風文化が栄え、後世に赤松小判、置塩鏡のなど文化遺産を残しています。 1496年(明応5年)政則が死去し義村が継ぐと守護代である三石城の浦上氏が台頭。1521年(大永元年)義村は室津で幽閉後殺害され、三代目晴政は流浪の身になりますが、1531年(享禄4年)父の仇を討つ事に成功し置塩城に復帰します。以後、播磨は他の国と同様に割拠の時代に突入し、1577年(天正5年)五代目則房は秀吉に屈服して置塩城を開城。 のち置塩城は解体され姫路城の資材として提供されています。 秀吉に置塩城を開城した則房は阿波住吉城に移封となり、秀吉の四国征伐にも功を上げますが慶長3年死去すると、関ヶ原もあってかは赤松家は断絶同然となり、子息の消息も定かではないようです。 標高360mの頂上部分に壮大な縄張の遺構があり、登山道を登って最初に現れるのが南曲輪群で、上写真は南曲輪群の中ほどの茶室跡の曲輪を仕切っている土塁を撮ったものです。写真右側は茶室跡で完璧に土塁で囲まれた空間がありました。奥に写っているのは置塩城の説明看板です。さらにその奥数m上にはこの城の中枢である二の丸があります。 中上写真は、二の丸から南西方向に伸びる西南曲輪群の先端にある大石垣です。 この曲輪群は馬蹄形の曲輪が尾根に沿って配置されているもので、現状でも遺構が良く確認できます。 二の丸直下から北の三の丸直下まで進み、西に曲がると西曲輪群があります。この城で一番長い曲輪群であり、整備はされていませんが馬蹄形の曲輪が道沿いに何個も確認できます。先端には大手門跡があるのですがよく判別出来ませんでした。現在旧大手の道は通行止めになっています。ここまで下りるとまた二の丸まで戻るのが一苦労です。 二の丸はこの城の中央部に位置し城主の居館があったとされており、二の丸内には南北を仕切っている土塁が良く残っています。北側直下には数個の帯曲輪を経て、大型の曲輪の列が東へ伸びている北曲輪群があり、尾根の窪みの曲輪から二の丸方向へは、階段状に見える曲輪群が圧巻です。 中下写真は二の丸の帯曲輪から下方向に撮った北曲輪群の一つで、写真右側には東の本丸向かって曲輪の列があります。写真中央下には若干ですが石垣も残っていました。写真左側は一段下がって台所跡の曲輪があります。 本丸は北曲輪群からさらに東へ、馬蹄形の曲輪を何個か過ごしながら登った最高位のところにあり、詰の丸といった雰囲気のさして広くない平削地があります。 ここからは西南に夢先川流域の城下が見えますが、木々により結構さえぎられています。 二の丸の北側に深い堀を隔てて下写真の三の丸があります。最も広い曲輪で迎賓館らしき礎石や枯山水式の庭園跡があるようで、庭園跡を探したのですが、ポコポコ窪みがあり雰囲気のある場所があったのですが、素人目には明確な確信が持てません。 置塩城は、応仁の乱直後の後期赤松家の栄華を伝え、かつ凋落したとはいえ下剋上の時代も耐え抜いた堅固な縄張をも持つ、一流の中世山城でしょう。(誉めすぎかな..) |