関東七名城3
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関東七名城の残りの城で、もっとも遺構が残っていない前橋城と太田城(佐竹城)です。
前橋城は本丸土塁が一部ありますが、太田城はまったく無い状態です。どちらもメインで見学すると欲求不満になるので、前橋城は箕輪城、太田城は水戸城と、抱き合わせで見学すると良いでしょう。
まぁ、太田城を見学する人は皆無でしょう。私もこのHP作成のために行ったようなものです。しかし、地の利は名城を彷彿させるものはあります。
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太田城 |
所 在:茨城県 常陸太田市 中城町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR水郡線 常陸太田駅下車 徒歩10分 種 別:中世 城館 最初に築城したのは、天仁年間(1108年頃)の太田氏で、のち佐竹氏が台頭し、初代隆義がこの地を治めます。 応年14年(1407年)12代義盛は嫡子が無く、関東管領上杉憲定の次男龍保丸を13代としますが、それに反対する佐竹一族の山入氏が反龍保丸体制をとり、百年後の永正元年(1504年)16代義舜が山入氏を攻め滅ぼすまで、この宗家佐竹氏と山入氏の紛争は続きます。 18代義昭は、宇都宮氏と血縁関係を結び、北関東の大名と連合して反北条体制を取り、19代義重の代は、白河、芦名、那須、北条と敵対し、20代義宜は、小田原役に参陣して54万石の近代大名となります。太田城は義宜の父義重の隠居城となり、当主義宜は水戸城にて統治の拠点とします。 その後、義宜は徳川幕府の体制になじめず、関ヶ原では会津上杉討伐に参陣しないなど、幕府に反抗し、ついに慶長7年(1602年)出羽秋田に国替えを命じられます。 遺構は全くありません。上写真は本丸跡の小学校校庭に立っている碑で、太田城の別名である舞鶴城址とあります。 このあたりは水戸を含む平野の北限になり、城館は南へ舌状に伸びた台地上に築かれ、久慈川流域の平野部と、陸奥への通路とを押さえる要所で、古くから重要な交通路だったようです。 下写真は旧二の丸にある若宮八幡宮近くから、南側を撮ったもので、台地の様子が分かって頂けるものと思います。 このように、交通の要所でもあり要害でもあり、名家佐竹氏の居城でもあるために、かつては名城と賞されていたのです。 |
前橋城 |
所 在:群馬県 前橋市 大手町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR両毛線 前橋駅 徒歩15分 種 別:近世 平城 戦国時代に西上野を押さえた長野氏が、箕輪城の支城として最初の築城を行い、関東管領の上杉政虎(謙信)が北条討伐のため関東に出馬すると、これに従い厩橋城(前橋城)も謙信に明け渡し、以後、謙信の家臣が厩橋城に入城し、謙信の関東出馬の拠点の城となります。 永録9年(1566年)箕輪城は武田信玄に攻められ長野氏が滅ぶと、上野の諸氏はこぞって北条氏に寝返り、謙信の関東での立場は危うくなりますが、永録11年(1568年)信玄が今川氏真を攻めたため、武田と北条の同盟は破れ、北条氏政は上杉謙信と和睦して、厩橋城には北条(きたじょう)高広、高定親子が入城します。 謙信が死去すると、厩橋城の北条高広は、武田勝頼、のち滝川一益に恭順し、本能寺後は上杉景勝を頼り、宇都宮、結城軍を援軍として、北条氏と戦を交えますが、天正12年(1584年)ついに北条氏に従い、天正15年に死去します。 小田原役後は、平岩氏、酒井氏が入封。寛永2年(1747年)に姫路から松平氏が入封したのち、利根川の侵食で城郭の破壊が進み、明和4年(1767年)川越に移転となると、前橋城は廃城同然の扱いを受けます。 百年後の文久3年(1863年)、領民の嘆願と幕末の動乱の兆しから、再構築の許可が下り、前橋新城として4年後に完成し、最後の日本式城郭とされています 上写真は本丸土塁を上から撮ったもので、右の建物は県庁の別館です。土塁は、近代城郭にふさわしい大型のもので、要所には大砲も常設されていたようです。本丸北側には高浜門の遺構があり県庁の裏門になっています。 下写真は、本丸土塁から東に500mほどの住宅地の中にある車橋門跡で、土台となった石組が残ります。 |