甲斐の城2
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甲斐の城第2弾です。 ”人は城なり”の信玄ですが、イメージに反して思いのほか躑躅ケ崎館は堅固な城であり、要害城という詰め城までありました。館からは少し距離があり、別途根小屋までありましたが、館を追われるとこの山に逃げるしかないでしょう。その名のとおり非常にわかりやすい要害です。 岩殿城は郡内領主の小山田氏の居城で、勝頼が新府城を追われるとこの城を頼りに東へ落ちますが、小山田氏の謀反が発覚し笹子峠手前の天目山で自害します。 勝沼氏館は、県内でも屈指の中世館跡で、豊富な出土品もあってか、完全整備された公園となっています。
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岩殿城 |
所 在:山梨県 大月市賑岡町岩殿山
地図[MapFanWeb] 交 通:JR中央本線 大月駅 徒歩15分登山口 種 別:中世 山城 築城時期や築城者は定かでなく、最初から小山田氏が築城した説や、武田氏が甲斐国内防衛のために築城した説などありますが、10世紀には天台宗円通寺により開山されています。 享禄5年(1532年)、武田家臣小山田氏の谷村館の詰め城として整備され、甲斐にとっても相模、武蔵口を固める重要な拠点として機能しました。 上写真は岩殿山の全容です。比高は250m程度ですが、ほとんど直角にそそり立っており、山の上部は岩肌が露出しているため、一級の要害といえるでしょう。 また山頂から南側真下には、東西に走る平野部が一望でき、現在は中央道、中央線、国道20号線などを眼下に治めることができます。 山道のほとんどが階段で、山頂付近に近づいて最初に見る遺構が、中写真の揚城戸と呼ばれる城門跡で、山頂にある主要城郭への門で、自然の岩を切り開いてできています。写真左の巨石の裏には、番所跡とされる小さな平削地が南に突き出ていました。 ここから少し登って西物見台にでます。このあたりは山頂部分の西端にあたるので非常に狭いエリアで、ここから東へ馬場を経て馬屋、兵舎 などの跡とされる展望台にでます。土塁などの明確な遺構は見当たらなく、平削地があるのみのようです。 下写真は、展望台から少し北側に折れたところにある蔵屋敷と呼ばれる最も広いエリアです。 写真左の道に沿って、右のスロープを登って東側に行くと、二の丸を経由して最高位の本丸に出ます。本丸は電波塔が建っており、回りの眺望も全くききません。ここからさらに東の稜線には堀切や帯郭などあるようですが、安易には確認できないでしょう。私は見ていません。 揚城戸から少し道を下ると、西側の尾根づたいに下る道があり大手門跡経由で兜岩、稚児落しと呼ばれる難所があるようですが、7月の炎天下でさすがに向かう気にはなりませんでした。このルートは落城の道とされており、稚児落しの由来も落城の事実からきているのでしょうか?...>合掌 |
勝沼氏館 |
所 在:山梨県 東山梨郡勝沼町勝沼字御所
地図[MapFanWeb] 交 通:JR中央線 勝沼ぶとう郷駅下車 徒歩30分 種 別:中世 城館 勝沼氏は武田信虎の弟である次郎五郎信友が、勝沼氏を興したのが始まりですが、築城の詳細は不明です。天文4年(1535年)の北条氏綱との戦で信友が戦死すると、嫡男信元が勝沼氏を継ぎます。”甲陽軍鑑”にも勝沼殿の名がよく見受けられるようで、武田氏の有力な親族として重要な軍事力を担ってきたようです。 郡内岩殿城の小山田氏の目付けの意味も兼ねて、この地に館を構えたようですが、永禄3年(1560年)に謀反の企てが露見し、勝沼氏は信玄により滅ぼされています。 この館跡は、昭和48年県立ワインセンターの建設により発見された城館跡で、以後7次に渡る発掘調査を経て全容が明らかになり、全面保存へと転じ国史跡指定も受けました。 上写真は東門近くの土塁に上って撮った城館の全容で、40m四方程度のエリアに北、東に空堀と土塁を巡らせた主郭に、大小12程度の礎石建造物の遺構を復元表現されています。その他の遺構として井戸、厠、庭園跡、水路跡、水溜跡などもあります。 金属溶融物が発掘されたビットにより、鍛冶場の施設も館内にあったようです。 下写真は、北に向かって走る土塁、空堀でともによく整備されています。手前は東門であり、撮影位置は上写真と同じで向きだけが異なります。 北門(上写真の中央奥)は低いながらも石垣が枡形状あり、その上の土塁に礎石も確認されています。 陶磁器、古銭、武具、農具、生活用品など出土品も豊富であり、遺構の状況も良好な中世城館跡として高い評価を得て、整備保存に至っているようですが、訪れる人は少ないでしょう。 |
要害城 |
所 在:山梨県 甲府市上積翠寺町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR中央線 甲府駅下車バス20分登山口 種 別:中世 山城 永正17年(1520年)武田信虎が躑躅ケ崎館と同時期に築城した山城です。 上写真は躑躅ケ崎館 西曲輪から撮った要害城の遠景で、写真手前の田んぼは館の旧北曲輪跡です。 この館を囲むように深い山々があり、その中央にポツンとある比高260mの独立峰が、館の詰めの城として機能した要害城です。 城へは山の西側にある温泉ホテルの脇から入山します。山の中腹あたりから山頂まで、小さな郭が連結しており、合計八つの門跡を経て本丸に至ります。遺構が最も良好なのが第二の門跡で、大きな石垣と土塁により枡形を構成しており、主要な門であったようです。写真は天気が良すぎたためコントラストが強すぎました。 門近くに見晴らしのいい郭跡があり、館を手前に平野が一望できます。 郭跡の平削地を横断しては登りの繰りかえしで、最後の門跡を越えると山頂の主郭に到達します。 下写真は、主郭を中央から東側を撮ったもので、土塁で囲まれている様子が分かるでしょうか? 写真右端には虎口があり、ここを出るとすぐ堀切で、土橋の左側の堀は石垣で固められます。この写真も失敗です。 この城の南東側麓に熊城と呼ばれる要害城の出城とされる遺構があるようですが、虎口から降りていけば到達できるのかどうかは不明です。行先表示が無かったので私は断念しました。 山の西側には積翠寺があり、大永元年(1521年)駿河今川の攻撃を受けた際、この寺に非難した信虎夫人が晴信を産んでいます。 |