甲斐の城
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四方を山に囲まれたこの国は、天然の国境によって昔からその領域はほとんど変わらず、よその国から侵略されることもあまり無く、武田氏滅亡までは比較的安定した統治が行われました。 鎌倉時代終わりに武田氏が守護大名についてから数代を経て、戦国時代中期に信玄の父信虎は、守護大名から戦国大名の転換に成功し国内を統一しました。その子信玄の時代には最盛期を迎え領土も信濃、上野、駿河、遠江まで広げましたが、勝頼の代で武田氏は滅亡します。本能寺の変を経て、北条氏と徳川氏による甲斐の争奪戦が勃発、壬午の役で武田旧家臣をうまく取り込んだ徳川が勝利します。
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笹尾塁 |
所 在:山梨県 北巨摩郡小淵沢町下笹尾
地図[MapFanWeb] 交 通:JR中央本線 小淵沢駅下車 徒歩40分 種 別:中世 山城 笹尾砦とも言います。武田信虎が諏訪勢の侵攻に備え、享禄4年(1531年)ごろに牢人衆に築城させたのが始まりで、のち武田の臣、笹尾岩見守の居城とされていますが詳細は不明です。武田氏滅亡後の天正10年(1582年)北条と徳川の間で勃発した壬午の役では、北条勢がこの城に陣取った記録もあります。 城は釜無川の左岸にある七里岩と呼ばれる崖の上にあります。この急崖はものすごい高低差を誇り、この城あたりでは50mほどあるのではないでしょうか。 上写真は旧三の郭付近にある看板から西側を撮ったもので、七里岩の高低差を表わしたものですが、上からだと少し分かりづらいですね。 縄張は一の郭を最南端にして、北へ向かって二〜六の郭を並べた連郭式縄張ですが、城の名称がつかないのを反映してそれほど広くはありません。現状は、一、二の郭は整備されささやかな公園となっており、土塁が良く残っています。 下写真は一の郭の土塁で、東側を開けた「し」の字状に土塁が走っています。中央は看板の裏側で、写真は「し」の右下端の土塁から北側に向かって撮ったものです。 二の郭は南側に口をあけたU状に土塁が走り、一の郭との間には左右に竪堀を隔てて連結されています。三の郭は薮となっており、四の郭は畑、五の郭、六の郭は薮となっています。 |
能見城 |
所 在:山梨県 韮崎市穴山町夏目
地図[MapFanWeb] 交 通:JR中央線 穴山駅下車 徒歩10分 種 別:中世 山城 新府城から北に2kmほどのところにある山城です。新府城の出城とされており、信濃口を固める目的があったようです。JR中央線の穴山駅を降りると、目の前にある山がそうで、山に能見城の看板も立っているのですぐ分かります。 写真は山頂の様子です。能見城址の看板があるだけです。写真右の碑は武田家臣の守屋氏発祥の碑です。 遺構は、すぐ下に帯曲輪みたいなものが確認できましたが、縄張図もなく整備ももちろんされていないのでそれ以外は確定できません。この城は出城というより新府城の外郭の一部のようで、釜無川の斜面からこの能見城までを土塁が走っているようです。この土塁も場所が確定できなかったので見ていません。残念!! |
新府城 |
所 在:山梨県 韮崎市中田町中条上野字城山
地図[MapFanWeb] 交 通:JR中央線 新府駅 下車徒歩30分 種 別:中世 平山城 天正元年(1573年)勝頼が長篠で織田、徳川軍に大敗し、天正6年に謙信が死去すると、勝頼は上杉景勝と甲越連合を組みます。この影響で北条との関係は崩れ、北条は徳川と結び、甲斐は関東の北条、東海の徳川と挟まれ情勢は緊迫します。 侵入する敵軍に対して、対抗できる城郭を築く必要に迫られた勝頼は、穴山梅雪の進言により、穴山氏発祥の地の七里岩(釜無川の左岸にある比高70mほどの崖)の上に築城を始めます。 突貫工事のすえわずか8ヶ月後に城は完成し、城下も甲府から移し、天正9年(1581年)の12月に勝頼が入城します。甲府の古府に対し新府城と名づけました。この強引な遷都に快く思わない家臣が少なくなく、のちに続出する謀反の引き金にもなります。 天正10年の3月、戦局は日に日に悪化し織田軍がいよいよ新府城に迫ろうとした時、勝頼は新府城に火をつけ、小田信茂が城主の大月の岩殿城へと向かいます。勝頼一行は途中の笹子峠で小田信茂の謀反で峠を越えることができず、天目山田野にて自刃し甲斐源氏はここに滅亡となります。新府城はわずか3ヶ月でその使命を終えました。 翌年に勃発した壬午の役では、徳川軍の本陣に新府城が使われてました。 縄張は七里岩の上に比高70mの台地に築かれた平山城です。南北に主要曲輪が構成され北東の最高位に本丸、その西隣に二の丸、帯曲輪を経て城の最南端に東三の丸、その西隣に東三の丸で構成され、その他多数の腰曲輪、帯曲輪が取巻いています。 大手は南端から三日月掘、馬出を経て東三の丸に直結していますが、整備がされていませんので容易に確認できません。搦手は最北西端になり二の丸北側の腰曲輪に結ばれていますが、これも確認は難しいでしょう。 城の北側にある水掘に、長方形をした東出構、西出構とよばれる鉄砲陣地が、「つの」のように平行に掘へ突き出ています。上写真は掘の外から撮った東出構で、写真の右上から左下に出構が突き出ている様子が分かって頂けるものと思います。 中上写真は東三の丸で中央は看板です。現在の遊歩道は東三の丸、西三の丸の外周を回って、二の丸、本丸に至っています。写真のとおり曲輪の内部の整備はされていません。西三の丸から無理矢理中に入ると、縄張図どおりに東三の丸とを仕切る土塁が確認できました。 中下写真は二の丸の南側に広がる馬出だと思っています。この辺は複雑なので確定は難しく、二の丸自身かもしれません。 下写真は本丸です。かなりの広さを誇り、土塁により枡形や蔀(しとみ)など構成していたようですが、現在では多少のボコボコが確認できるのみです。本丸中央には神社があり、西側には長篠合戦戦没者の慰霊碑や戦死した14臣の分骨した木柱が立っています。このあたりから西には、天気が悪く裾野しか見えませんでしたが、雄大な山が見え富士山?と思いましたが方向が違うようですね。 |