一向一揆の城1
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文明三年(1471年)蓮如が加賀、越前で布教しはじめた真宗本願寺派は、急速に北陸で成長します。 応仁の乱により加賀守富樫氏の後継者争いが起こり、富樫政親、幸千代両派の争いで、政親は真宗本願寺派の門徒の支援を受け、文明六年には加賀守護大名職につきます。
のちに政親と本願寺派の争いが勃発。ついに長享二年(1488年)政親が滅ぶと、本願寺派の僧侶、門徒の合議制による百姓の持ちたる国が、加賀を中心に100年近く、武士の支配外で存在しました。
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二曲城 |
所 在:石川県 石川郡 鳥越村出合
地図[MapFanWeb] 交 通:JR北陸本線 小松駅から車で西へ40分 種 別:中世 山城 ふとげじょうと呼びます。 この地に館を構えていた土豪の二曲氏は、一向宗本願寺派の勢力が強まるとこれに与し、山内門徒衆の旗本となります。元亀元年(1570年)本願寺派の武将鈴木出羽守が、織田軍との戦に備え、鳥越城を主城として白山山麓に幾つもの砦を築いた時に、この二曲城も山城として要塞化します。その後、鳥越城とまったく同じ運命をたどり、天正8年(1580年)に織田軍の柴田勝家により攻められ落城します。 このあたりは、南北に白山支脈の山がポコポコと存在しているところです。二曲城は、鳥越城から南へ1kmほどにある比高120mの急峻な山で、東側直下は大日川が流れ、西側は能美平野へ抜ける三坂峠(現在は国道360号線で小松方面)がある要山であり、山頂からは鳥越城の山が目と鼻の先です。 山城としての規模は小さい方で、山頂には本丸の平削地はありますが、土塁や掘などは確認できません。山頂にいたる山道は、所々で人工的に屈折しており、貯水池跡のような窪みや、若干の石塁も確認できます。 上写真は登山口にある碑で、城の説明看板と慰霊碑が立っています。慰霊碑には、”鎮魂 加賀一向一揆 山内門徒衆 之霊”とあります。 下写真は登山口からすぐのところにある土塁の遺構で、真ん中には現在の登山道が走っています。門か塀などの建造物があった可能性もありますね。 |
鳥越城 |
所 在:石川県 石川郡 鳥越村字別宮
地図[MapFanWeb] 交 通:JR北陸本線 小松駅から車で西へ1時間弱 種 別:中世 山城 白山の支脈にある山で、白山信仰の聖地で古くから開けており、1570年に織田信長と本願寺との間で勃発した石山合戦で、本願寺派の武将鈴木出羽守が、山内衆徒の百姓たちを従え、加賀一向一揆の拠点として山を要塞化し、この鳥越城が主城として、白山山麓に幾つもの砦を築き、織田軍の侵攻に備えました。 1578年に本願寺顕如が織田信長に屈し、金沢御坊(金沢城の前身)も柴田勝家に落とされ、この鳥越城が最後の一向一揆軍の砦となり、抵抗を見せていましたが、1580年に柴田勝家軍により攻略されました。 その後、勝家の家臣が鳥越城に入城した後も、山内衆徒の抵抗は激しく、一度は鳥越城の奪回に成功しますが、1582年、信長から一揆軍の一掃の命をうけた佐久間盛成により、300人もの門徒たちが磔刑にあっています。 城は比高130mの独立丘陵にあり、南側を除くの三方の眺望がきき、山間の平野部を押さえるには格好の要害で、縄張りは南北に長く、北から後三の丸、後二の丸、本丸、二の丸、三の丸の連郭式で、その他腰曲輪も取巻いている立派な中世山城です。 上写真は北端にある後三の丸です。北を頂点とするおにぎりの形をした曲輪で、三段ぐらいの高低で構成されています。最上段の平地は鳥越城で一番の広さを誇り、高位も本丸とたいして変わらないようで、西側直下には腰曲輪があり、北の頂点から東、南にかけて空堀が囲み、南側は本丸と接する掘で、林道が走っています。 中上写真は本丸の前にある枡形門の石垣で、最近復元されたものでしょう。10数年は掘底の石垣しか残っていませんでした。 中下写真は、枡形門から入ってすぐ右横にある望楼跡から撮った本丸です。発掘調査の結果をもとに、建造物の位置、排水溝、井戸の跡などを表現しています。写っていませんが写真奥には、空掘を隔てて5mほど下段に後二の丸があります。ここからは北側の眺望は、大日川沿の平野部が一望できます。 二の丸は本丸ほど整備されていませんが、2つの隅櫓跡を含む建造物跡があり、西側には20mほど下にある腰曲輪へ降りる道があります。この腰曲輪は、南北に100m程度の長さがあり、北端は発掘調査の最中でした。二の丸へ上がるスロープのところに若干の石塁があります。 下写真は、二の丸から三の丸へ通じる土橋で、左右に自害谷と呼ばれる堀切が走っています。本丸東南にある空堀は首切り谷と呼ばれおり、落城の悲惨さを語っている名称です。>合掌 鳥越城は、悲惨な歴史もさる事ながら、規模は小さいながらもコンパクトにまとまった、土木技術の高い中世山城の一面を持っています。 |