北条の城3
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北条の城の第3弾です。津久井城は相模と甲斐の国境に位置する城で、津久井衆と呼ばれる家臣団が結成され甲斐武田氏に備えていました。 永禄12年(1569年)には城の南方にある三増峠(みまませとうげ)で、円熟期の信玄率いる武田勢と北条勢による合戦が行れ、山岳戦では戦国史に残る激戦で武田氏の大勝に終わってます。 滝山城は北条氏康の次男氏照の居城で、三増峠合戦の直前に武田軍との籠城戦を行い、決着は付きませんでしたが、のちに氏照がより難攻な八王子城に移住する決心をさせる戦でした。
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津久井城 |
所 在:神奈川県 津久井郡津久井町根古屋
地図[MapFanWeb] 交 通:JR横浜線 橋本駅下車 バスで30分で登山口 種 別:中世 山城 鎌倉初期に三浦一族の筑井氏が築城したといわれています。戦国時代に北条早雲の家臣内藤氏が津久井城の修復し、「津久井衆」と呼ばれる家臣団を結成し、甲斐武田氏に備えましたが、津久井城はたびたび武田氏の攻撃を受け、領地は相模、甲斐両方の支配を受ける地区もあり複雑な情勢でした。 永禄12年(1569年)武田信玄は、北条氏邦が守る鉢形城を攻め、守りが固く落ちないと見るや南下し、北条氏照が守る滝山城を攻め、決着をつけること無くその足で小田原城を囲み城下を焼き払い、甲斐に引き上げる途中で、津久井城の南3Kmにある三増峠で、北条氏照、氏邦ら率いる北条勢と合戦しました。 合戦は武田軍の圧勝でしたが、2000人の戦死者を出した武田軍は、早々に甲斐に引き上げています。津久井城主内藤氏が合戦に参加した記録はなく、詳細は不明のままです。 合戦後、津久井城は普請を重ね、天正18年(1591年)の小田原の役時は内藤氏が籠もりましたが、家康の家臣本多氏らにより攻略され、廃城となりました。 津久井城は、津久井湖に接した標高374mの3つのコブを持った独立峰で、それぞれに主要な曲輪が配置され、南から飯縄曲輪、太鼓曲輪、本城曲輪となっており、数個の馬蹄形の腰曲輪が取巻き、立堀が本城中心に放射状に数本あります。 上写真は飯縄曲輪にある飯縄神社です。それほど大きくありません。すぐ南側にある烽台とされている曲輪からは、三増峠がよく確認できます。真ん中にある太鼓曲輪はさらに小さく、15mほど下には家老屋敷の遺構がある曲輪があるようですが、私は確認できませんでした。 中写真は太鼓曲輪からすぐにある掘切で、引橋跡の看板があります。この掘切を渡り、土蔵とされる曲輪をすぎると、最高位の本城曲輪に達します。 下写真は本城曲輪で、土塁がくの字に囲んでおり、写真右奥は暗くて確認できませんが、土塁の上に江戸中期に建てられた筑井古城碑があります。本城曲輪のすぐ北にある一段下がった曲輪からは、津久井湖の眺めがきれいです。かつての津久井城は、山の南側斜面に馬場、南側麓に主殿、家臣団屋敷、根小屋があって、現在は主殿跡の遺構があるようですが、場所が確認できませんでした。 |
滝山城 |
所 在:東京都 八王子市舟木町2〜3丁目
地図[MapFanWeb] 交 通:JR中央線 八王子駅 バス30分 種 別:中世 平山城 大永元年(1521年)高月城を居城としていた武蔵国守護の大石定重が、滝山城を築城したとされています。 天文15年(1546年)、定重の子定久は北条氏康との戦にやぶれ、氏康の次男氏照に家督を譲り引退し、以後、北条氏照の居城となります。 永禄12年(1569年)信玄率いる2万の武田軍が、小田原城攻略の途中にこの滝山城を囲み、激しく攻め立てて三の丸までを攻略します。 城主氏照はみずから二の丸の城門で指揮をとり城内の兵もよく戦い、犠牲者が増えるのを憂えた信玄は、兵を引き上げ小田原に向かっています。 氏照は見事に武田軍を釘づけにして、小田原城攻防の時間稼ぎに成功したのでした。 この戦の反省をもとに氏照は天正12年(1584年)頃、より難攻な八王子城を築城し移住しています。まもなく滝山城は廃城となりました。 遺構はすばらしく良く残っている、関東でも屈指の中世城址でしょう。多摩川の侵食による台地にある、谷や溜池など取り込んだ30余りの郭で構成された広大な城で、折り、馬出など多用した北条流の技法が随所に用いられています。本丸最高位から多摩川水面までは80mに至ります。 ”滝山城址”のバス停から城の西側へと見学道がありますが、かつての大手は東側からだそうです。その見学道から最初に飛び込んでくるのは左側に小宮郭、右側に三の丸で、ともに整備はされてなく曲輪には入れない?ようですが、空掘は竹林の中によく確認できます。 上写真は二の丸掘でこれも規模の大きな空掘です。写真右側が二の丸になり西側に30mほど続いています。写真左側は二の丸から南へ突き出た馬出のような遺構があって複雑な形状をしており、手持ちの縄張り図と見比べて理解に苦しみました。>結局理解していない! 中上写真は二の丸から北へ曲がり、本丸に向かう途中で左側に見られる郭です。道からは5mほど下になる広い曲輪で、北にある本丸の桝形から直結しています。残念ながら曲輪の名称が不明です。 中下写真は引橋を下から撮ったもので、右側が中の丸、左側が本丸です。 かつての中の丸は千畳屋敷があり、現在は国民宿舎のような施設があります。ここから北へは、木々のすきまに多摩川や拝島方面が望め、すばらしい眺望です。 下写真は、南北の二段で構成されている南側の本丸です。写真中央の土塁は、引橋にかかる枡形の土塁を裏から撮ったもので、城碑が立っています。これとは別に、南側にも枡形の遺構があり、掘底を経由して中上写真の郭に通じています。南側の枡形の近くには井戸もありました。 北側の本丸は最高位にあたりますが、眺望は木々にさえぎられています。簡素な神社があります。 東側の大手道とされるところは家臣屋敷の郭があり、土橋、馬出などあるようですが、日が暮れたので見学はあきらめました。ぜひ、もう一度じっくり見学したいですね。(今度は冬に!)>光量不足の写真で失礼しました。 |