駿府の城
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駿府といえば徳川でしょうが、家康以前の今川時代には、府中館を取り囲むように山城、出城があって、守りを強化していました。
府中館は、1411年に今川範政が館を構えてから七代に渡り、今川氏の拠点となりますが、府中館の場所や規模は、家康の駿府築城のため手がかり無しとなってます。
駿府城二の丸内で中世館の遺構が出土しており、このあたりが有力な候補となっていますが、諸説がいろいろあるようです。 1568年の武田軍による侵攻により、駿府は今川支配から離れますが、1582年には徳川が奪回しています。
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愛宕山城 |
所 在:静岡県 静岡市 沓谷城山
地図[MapFanWeb] 交 通:静岡鉄道 長沼駅 徒歩15分 種 別:中世 山城 当時は愛宕山城ではなく、長沼塁や茶臼山砦などで記録されています。築城の由来はさだかではなく、今川氏が府中館を構えるようになってから、東を守る砦として、昔からあった城を改築したみたいです。 遺構は、本丸をはじめ、その他の曲輪、空掘がありますが、縄張り図が無いため詳細は不明です。写真は二の丸?から撮った本丸で、現在は愛宕神社になっています。本丸は小さな小山になっており、天守台のような雰囲気もあります。 城としての看板は、山の南側麓に愛宕山砦の看板があるだけで、山頂付近にはなにもありません。 |
賊機山城 |
所 在:静岡県 静岡市大岩町
地図[MapFanWeb] 交 通:静岡駅からバス10分 種 別:中世 山城 しずはたやまじょうと呼びます。”静岡”のネーミングはここから来ているそうです。この城も不明な点が多い城で、築城は今川氏四代目の範忠が、1410年頃に築城したといわれています。 この城は私は見学していません。見学するつもりで近くまで行ったのですが、雨が強くなってきたので、断腸の思いで見学をあきらめました。 写真は駿府城三の丸で、写真の右奥の山が賊機山です。賊機山は南北に長細い山で、北側に最高位(173m)があり、南側の賊機山公園には古墳もあるみたいです。 城の縄張りも不明なのですが、本丸は南側にあったようです。 |
丸子城 |
所 在:静岡県 静岡市丸子
地図[MapFanWeb] 交 通:静岡駅からバス20分で登山口付近へ 種 別:中世 山城 まるこではなくまりこと呼びます。 やはり築城の詳細は不明で、今川氏が駿河国を支配した南北朝時代には存在していたようです。 府中館の西側の守りとして、丸子城を重視した今川氏親(義元の父)は、家臣である斎藤氏の丸子城を大改修し、府中館の支城としています。 1568年に武田軍の駿河侵攻により丸子城も武田氏のものとなり、1570年頃から丸子城の武田流による大改築が行われており、現在の遺構はこの時のものとされています。 高天神城落城を直前に武田氏は、丸子城を徳川氏に明け渡しており、その後徳川家臣が入城しますが、1590年、徳川の関東移封により廃城となっています。 最高位136mの三角山の頂上を中心に、今川時代に本丸があった北城と、武田時代の本丸の南城を連結した縄張りで、尾根伝いにいくつもの曲輪があり、横堀や竪堀、出曲輪などもある、非常に遺構が良く確認できる中世山城です。 上写真は泉ケ谷(城の東側)から入って最初に見られる遺構で、大規模な三日月掘の遺構です。写真では分かりづらいですが、かなり大型で深い掘です。感動してしまいました。 三日月掘は武田流築城の特徴のようです。 この三日月掘をすぎ、東の曲輪、腰曲輪を経て、北城の本丸に至ります。この本丸はそれほど大きな曲輪ではありませんが、L型になっていて南方向へと曲輪の列を変えています。 中上写真は、北城本丸を南側へ出た直後にある掘割の遺構です。 写真右側が土橋で、すぐ左横に竪掘が迫っています。写真にはありませんが右側にも同じような光景で、左右両方に竪掘が迫っていて、掘割(堀切)を構築しています。 ここから,三の丸、二の丸、さらに掘割を経て、南城の本丸の虎口に至ります。虎口は本丸の土塁が削られて、外側に枡形か、あるいは食い違いを構築していた形跡が確認できます。 中下写真は、南城の本丸で、別名千畳敷と呼ばれたように広大な広さを誇っています。 下写真は大鑪曲輪(おおだらくるわ)と呼ばれている曲輪で、南城本丸西側の物見曲輪のさらに下にある独立した曲輪で、捨曲輪とされています。捨曲輪の定義の詳細は分かりませんが、読んで字のごとく理解しています。この手法も武田流の特徴のようです。 |