小山氏の城
室町時代に勢力を持っていた名門、小山氏の城が栃木県小山市に残っています。 1380年、小山氏21代の義政は、鎌倉公方足利氏満と関東八カ国を敵に回し、ろう城戦を行いました。この時ろう城した鷲城や祇園城(小山城)長福寺城の3つの城は、いすれも思川沿いの丘陵にあり、小山三城と呼ばれています。かつての小山には、この3城と城の中久喜城とあわせ、一大城郭都市であったことが、最近の調査で報告されています。
(実は、作者は小山市在住なのです。^^;)
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祇園城(小山城) |
所 在:栃木県 小山市
地図[MapFanWeb] 交 通:JR宇都宮線 小山駅下車 西へ徒歩10分 種 別:中世 平城 藤原秀郷の子孫 大田政光が、1148年に小山氏を名乗り、この城を築城したのが始まりで、のち小山氏は、源平合戦、南北朝の戦乱で武将として名をあげ、領地を拡大しました。 21代の義政が、鎌倉公方足利氏満の制止を無視して、宇都宮城主基綱を討ち取ったのが原因で小山義政の乱が勃発、敗れた義政は自害し小山氏直系は滅びます。がのちに、足利氏満は、同族の結城基光の次男泰朝に、小山氏を再興させました。 戦国時代には、古河公方の傘下で名門が復活しましたが、秀吉の小田原城攻めには、姻戚関係があった北条氏に加勢したため小山氏は滅亡しました。 関ヶ原後、本多正純が近世城郭に改修しましたが、宇都宮に移ったため廃城となります。 現在の祇園城は、小山城址公園となっており、遺構は、連郭式縄張りで南北に土塁、空堀による大小5つほどの曲輪が残り、西側は思川の断崖で自然の要害になっています。 上写真は曲輪と曲輪を結ぶ祇園橋です。 下写真は祇園城から見た思川で、左の岸辺の高台に長福寺城、鷲城と構えていました。 祇園城が落城した時、姫が井戸に身を投げ、家臣が供養のために銀杏の小枝をさし、根づいたが実をつけないという実なし銀杏が、一番奥の曲輪に残っています。 また、七夕の日に祇園城は落城したため、小山では七夕を祝う習慣はないそうです。 |
鷲城 |
所 在:栃木県 小山市 外城
地図[MapFanWeb] 交 通:JR宇都宮線 小山駅下車 旧4号線南下 車10分 種 別:中世 平城 小山義政の乱の時に、小山軍は祇園城からより堅固な鷲城を改築し立て籠もり、鎌倉公方足利氏満率いる鎌倉軍相手に、同族である結城氏の援護も得られず、孤立無援で半年の間ろう城戦を行いました。 鎌倉軍は各地からの援軍で3万ほどに膨れ上がり、総力で堀を埋め、鷲城になだれ込んだといわれています。 鷲城は内城と外城に別れ、内城には鷲神社や参道の杉並木がありますが、半分は畑や雑木林(私有地でしょう)です。 内城の下の思川河川敷は、小山総合公園できれいに整備されています。 上写真は見づらいですが、虎口とされるところです。 中央の道の右手に大規模な空堀が残っています。 その他、櫓台跡や土塁など見られますが、全般的に整備はあまりされていません。 城内には、保存会の方々で作成した鷲城のパンフレッドが、ポストの中にあり好感が持てます。 下写真は外城の土塁の遺構です。現在、外城は完全に住宅街になっており、地名にもなってます。 1991年に祇園城跡と鷲城跡とは、国指定史跡に指定されました。 |
中久喜城 |
所 在:栃木県 小山市 中久喜
地図[MapFanWeb] 交 通:JR宇都宮線 小山駅下車 東へ 車10分 種 別:中世 平城 小山市の東隣(茨城県結城市)の結城氏は、小山氏の分家にあたり両家の結びの城の意味合いで、古くから存在していました。 小山義政の乱の後は、結城氏の管轄下になり、結城氏が1601年に越前に移封になると同時に廃城になります。 現在の中久喜城は、上写真のようにJR水戸線により南北に真っ二つに分断されております。 下写真は北側の遺構の長い土塁です。けっこう長いもので直線で200mmぐらい続いているかな? 土塁の上は完全に住宅街で、土塁以外の遺構は見当たりません。 南側の遺構はよく残っていますが、私有地でもあるため整備の手がついておらず、本丸跡は畑になっています。土塁がL字型に走っている様子や、櫓台のような土塁もあり、虎口の様子も認識できます。 南側は田んぼに囲まれているため、外から見るとただの林のようでが、開発で破壊されるよりこのような形でも残る方がよほどましです。 ちなみに私の嫁さんは、実家がすぐ近くにあるのですが、この城の存在を今まで知らなかったようです。 たぶん地元の人もほとんど知らないでしょう。 |