安芸毛利の城
大河ドラマに煽られていってしまいました。吉田町付近は、郡山城を中心に四方を固めた中世の山城があります。規模はもちろん郡山城が一番で、次が五竜城かな? この辺の山城は、石垣はほとんどありませんが、曲輪とは言わずに壇と呼ばれる小ぶりな平地の遺構が、どの山城にも残っています。 少し離れて、三原周辺には小早川ゆかりの城があり、見所はたくさんあります。
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五竜城 |
所 在:広島県 高田郡 甲田町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR芸備線 甲立駅下車 西へ徒歩10分 種 別:中世 山城 足利尊氏とともに六波羅攻めで功があった宍戸氏は、安芸守に任ぜられ当初は菊山に蜒P城を築城しました。のちに現在の元木山に城を移したが、水不足のため五龍王を祭ったとたん水に恵まれるようになったので、以後、五龍城と改名されました。 九代目の宍戸元続が周防三丘に移るまでの266年間、宍戸氏の居城でした。 本村川と江の川が合流する鋭角の丘陵に、幾段の壇と空掘りでなっている城です。 この丘陵がものすごく急で要害になっており、毛利が数回攻めていますが落ちることはありませんでした。 上写真は矢倉の段と呼ばれている遺構で、ここから、釣井の段、三の丸、二の丸、桜の段、姫の丸 を階段状に経て本丸に至ります。それぞれの曲輪は大きくないですが、急勾配であることが幸いして、難攻の城であったことは容易に想像できます。 下写真は二の丸の崩れた石垣の遺構で、これ以外にも数は少ないものの、ところどころで石が散乱しています。 八代目の隆家が、毛利元就の娘と婚姻して両家は和睦し、関ヶ原の敗北で毛利が防長移封になった際に、九代目の宍戸元続が周防三丘に移り、五龍城は廃城になりました。 |
高山城 |
所 在:広島県 豊田郡 本郷町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR山陽本線 本郷駅下車 徒歩20分で登山口 種 別:中世 山城 源平居合戦ののち沼田庄の地頭に命じられた土肥氏が、四代のちに小早川と名乗り、古高山城に本拠地を移し、以後、鎌倉、室町の後期、300年に渡り沼田小早川の本城となりました。 戦国末期になり沼田小早川を継いだ小早川隆景は、西隣の山を新高山城として大改修し大規模な山城を築城し、三原城に移るまでの45年間、小早川家の本拠地としました。 上写真は沼田川と国号2号線を挟んで、東側の山城(写真右の山)が古高山城、西側(写真左の山)が新高山城です。残念ながら古高山城は嫁さんの猛反対で見学しておりません(;_;) 頂上までに、詰ノ丸、番所、匡真寺跡の曲輪、中の丸、釣井ノ壇などの大小さまざまの曲輪があり、本丸近くの”釣井の壇”は、50m四方の広大な平地に5個ほどの井戸が残っていて、下写真はその1つです。そこから大手門への石段跡と桝形門の遺構を経て、本丸に至ります。 匡真寺は小早川氏の菩提寺で父元就の7回忌、母妙玖の33回忌を機に建てられた寺で、現在は広大な曲輪に、庭園を思わせるような遺構もあります。 |
三原城 |
所 在:広島県 三原市
地図[MapFanWeb] 交 通:JR山陽本線 三原駅下車すぐ 種 別:近世 平城(海城) ぜんぜん”無名城”じゃないですがついでに.. 隆景は瀬戸内の掌握のために、城下兼軍港として三原城を1567年に築城し、1580年頃には沼田本郷から、寺院、町家を三原に移しました。 本丸、二の丸、三の丸に隅櫓32、城門14があったらしく、南は海に突き出ており満潮時には海に浮いて見えるため、浮城とも呼ばれました。 三方には山や寺院で固め、完璧な縄張りに秀吉や家康は驚嘆したといわれます。 上写真は天守台で、その上はなんと山陽新幹線の三原駅のホームです。天守台といっても、当時から天守はないのですが、広島城天守の6倍の広さを誇るそうです。 下写真は舟入り櫓台です。 当時は海に突き出ていた大きな波止場で、上に登るとちょっとした公園になっています。 遺構は、天守台、舟入り櫓台、駅前デパート横のわずかな堀が残っているだけです。 秀吉は、なんとかして隆景を毛利宗家から分断しようと懐柔を試みますが、隆景は最後まで輝元を守り立てました。>三矢の家訓ですねぇ! 関ヶ原後は、安芸の重要な分城として城代が入り、明治を迎えました。 |