関東七名城2
関東七名城の残りの城です。
忍城は石田三成の水攻めに耐えた城ということで、選ばれていると思うのですが、川越城や前橋城は落城の歴史があるので、どうも江戸の藩城時代の城構えやその景観により選ばれたのかもしれません。
もしそうだとしたら関東七名城は時代を超えた、いろんな要因による選択となるので、なかなか通好みの選択ですね。
佐竹城(太田城)についてはよくわかりません。近いうち実際にいって、遺構や地の利など見てこようと思います。
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川越城 |
所 在:埼玉県 川越市 郭町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR川越線 川越駅下車 バス10分 種 別:近世 平城 平安末期には坂東武者の河肥氏が館を構えていたようで、1457年に関東管領上杉持朝が、南進をもくろむ古河公方の備えとして、太田道真、道灌親子に川越城を築城させました。 その後、上杉家6代、北条家4代の居城となり、徳川家康の関東入封後は徳川譜代、親藩大名の居城となり、維新後は本丸御殿の一部を残し取り壊しとなります。 1637年、松平伊豆守信綱(知恵伊豆と呼ばれた有名な老中ですね。)が城主になるとこの城郭を大増築し、江戸北部の防御拠点として重要な城となりました。 遺構はほとんど残っていません。本丸御殿の一部が現存しており、内部も見学できるようですが、私はまだ見学していません。 上写真は本丸御殿すぐ東隣にある神社内にある土塁の遺構です。 中写真は天守代わりの御三階櫓があった富士見櫓跡とされる土塁で、西側に空堀も若干残っています。往年は水掘りだったみたいです。 本丸は初雁公園として、上記の神社、御殿、野球場などあります。すぐ東側には小さな河が流れており、この本丸が若干ですが高台にあることが分かります。 西側にある市役所(御殿から西に800mぐらいかな?)に、かつては大手門があったようで、古地図を見ていると丸馬出しになっています。現在の市役所正門前には、太田道灌像と、かつての川越城の縄張り図の石碑が置かれています。 今の川越は城そのものよりも、蔵造りの街並みの方が有名です。観光客でにぎわっていますが、蔵造りの前はバスがビュンビュン走っていて、交通量も多いので少し恐いです。 下写真は時の鐘の井楼矢倉で、小江戸川越のシンボルですね。 |
忍城 |
所 在:埼玉県 行田市 本丸
地図[MapFanWeb] 交 通:秩父鉄道 行田市駅から 徒歩15分 種 別:近世 平城 1478年頃、この地域の権力者であった成田顕泰が、沼や葦の生えている水域を利用した水城として築城し、1590年北条攻めによる開城まで成田氏の居城でした。 その後は、お決まりのパターンで、徳川譜代大名が主となり、維新により建造物は一般に払い下げられ、取り壊しとなっています。また近年の都市開発で沼地もすっかり消えています。 忍城といえば、石田三成が水攻めで失敗した城として有名?ですね。 忍城城代の成田長親は、2千600人ほどの戦闘要員で城に籠ります。 2万3千の石田三成を大将とする豊臣方は、沼地のぬかるみのため進退がとれず、犠牲者が増える一方なので、水攻めに切り替えました。 利根川と荒川から水を引き入れて、城を沈めてしまう作戦で、自然の堤防などを利用し、つなぎの部分に土石などを積んだもので、合計27kmに渡る大掛りなものでした。この工事を人海戦術で6日間で行ったのですが、土石の一部が決壊して水攻めは失敗に終わります。無理な突貫工事が裏目にでたみたいですね。 城は最後まで持ちこたえ、北条が小田原で降伏した時、小田原に出向いていた忍城城主の成田氏長の命にしたがって、城を開城しました。 上写真は模擬の御三階櫓で、今は行田市郷土博物館になっています。水攻めの詳しい説明がパネルやビデオで紹介されています。 下写真は本丸から東南へ500mほど行ったところにある水城公園で、かつての沼地が残っている場所です。 |