浅井、朝倉の城
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浅井、朝倉両家が、織田信長に滅ぼされる経緯は割愛して、両家の城を中心に見てみましょう。
浅井家の方は小谷城、朝倉家は一乗谷館で、共にそのまま廃城となってしまい、今は辺鄙なところになっているのですが、それが幸いしてか当時の遺構が良く残る中世城郭が見られます。
共に有力の戦国大名として、恥ずかしくない規模の城で、城下も栄えたことでしょう。それゆえかつての反映が見られない現在の状況や遺構を見ていると、まさに滅ぼされたという感じです。
現在、一乗谷館跡の方はそれなりに観光地になっているようですが、小谷城は今一つかな?城好きであれば、どちらの城も見て損はないでしょう!
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一乗谷館 |
所 在:福井県 福井市 城戸ノ内町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR越美線 一乗谷駅下車 バス20分 種 別:中世 山城 1471年、越前守護大名の朝倉孝景が、黒丸城からこの地に城を移し、5代目義景までの100年、越前の有力な戦国大名として名を馳せますが、1573年織田信長によって滅ぼされます。 城下はそのまま埋もれてしまい、昭和42年頃から発掘が始まり、現在では観光地になっています。 左記の3つの写真は10年以上前のもので、現状とは異なる点もあると思います。あらかじめお断りします。 上写真は一乗谷城山の麓にある朝倉義景館跡で、ごらんのとおりかなり大きな物です。(写真左上の車と比較しましょう)約1ヘクタールの土塁で囲まれた敷地に、主殿、茶室、湯殿、など10数棟の礎石があります。当時では将軍邸と遜色ない規模の大きなもので、地方の戦国大名としては破格だったようです。 中写真は本館の東北にある南陽寺跡にある庭園跡で、今でも使用できそうなほど完璧に残っています。 本館すぐ南の諏訪館跡にもりっぱな庭園が残っています。京都銀閣寺の石組みを真似ているとのことです。 下写真は武家屋敷跡で、写真の白い四角のものは井戸の跡です。道沿いにたくさんの屋敷跡があり、一部の屋敷が復元されていました。 義景は京都にあこがれ茶会、歌会を催したそうで、その影響が家臣にも及び武家屋敷跡にも、瀬戸や美濃焼きの天目茶碗が出土しているようです。かつて一乗谷は北陸の小京都といわれるほど繁栄を誇ったようです。 本館の東背後の山頂に一乗山城址があるそうなんですが、途中で道がなくなったのであきらめました。現在はどうかわかりませんが... |
小谷城 |
所 在:滋賀県 東浅井郡 湖西町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR北陸本線 河毛駅 徒歩30分 種 別:中世 山城 1524年、近江守護大名京極氏にかわり湖北地方を制した浅井亮雅政が築城したといわれています。以後3代目の長政まで有力な戦国大名としてその地位を確立しました。 上写真は小谷山の全容で,国道365号線から撮ったものです。この地は北国街道がとおっており、北陸と東海、西国を結ぶ重要な要所です。現在も国道8、365号線、北陸自動車道、北陸本線が山と湖に挟まれた狭い部分を通っています。 城は三つの部分にわけられ、本丸、中の丸がある本城部分、山頂の大獄を中心とする朝倉援軍の詰所でもあった大獄城、家臣団の屋敷跡の曲輪がたくさんある清水谷からなっています。 中写真は本丸の石垣で、この上に三重櫓が建っていた伝承があり、この石垣の前は大広間と言われる広場で、千畳屋敷の主殿が建っていたそうです。 本丸部分はその他にも、山王丸、中丸、京極丸などたくさんの見所があり、土塁、石垣、階段などの遺構が良く残っています。特に山王丸と中丸の間にある大石垣で、まとまった大きな野面積みの石垣が見られます。 下写真は馬洗い池で、見づらいですが下半分が池になっているのがわかりますかぁ? 写真奥には土塁が走っています。この曲輪は御馬屋跡とされています。 大獄城へ行くには標高495mの山頂にあるため、かなりきついですがちゃんと曲輪と、少しですが崩れた石垣も確認できます。 清水谷は今でも小さい川が流れていて、川を挟むように家臣団の屋敷跡の曲輪がゴロゴロしています。 姉川合戦後3年ほど秀吉が入城しましたが後に廃城になり、秀吉は長浜城を築城することになります。 |