本年度ひとり言 99年度ひとり言

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ホームページ開設記念 作者紹介 城と私

アクセス数200突破記念 関東の城

アクセス数500突破記念 N大T城

アクセス数900突破記念 県別による城訪問事情

アクセス数1000突破記念 お知らせ

アクセス数5000?突破記念 アクセスカウンタの怪

アクセス数7000突破記念 地方の中世平城

アクセス数8000突破記念 前身の城

アクセス数9000突破記念 築城の名人 丹羽長重

アクセス数10000突破記念 武田流、北条流 縄張の特徴



アクセス数10000突破記念 武田流、北条流 縄張の特徴

こんにちはお久し振りです。おかげでアクセス数10000を突破しました。 これを機に容量の大きなサーバーに変えました。これからも頑張って更新していきたいと思います。
今回は生意気なタイトルですが簡単に話しすると...(この程度しか理解していない感もあるが..)

武田流 縄張の特徴丸い
北条流 縄張の特徴四角い

と、言えるのではないでしょうか! 武田の城はその土地柄山城が多く、三日月掘丸馬出などの手法が特徴で、郭の形状も丸みのある物が多いです。
北条流は、横矢折り角馬出などのカクカクした形状が特徴です。山城が少ないことや、時代的背景もあって、北条の城の方が築城技術も進んでいることが見受けられます。
このカクカクした形状は、総構えなどと合わせて、近世城郭に大きく影響した築城技術と言えるでしょう。


アクセス数9000突破記念 築城の名人 丹羽長重

あついですねぇ!またまた更新が遅れました。
築城の名人ということで、よく本に紹介されるのは加藤清正、黒田如水、藤堂高虎などは必ずでてきますが、丹羽長重のことを取り上げているのは皆無ですね。

彼は、安土城築城の奉行であった丹羽長秀の子で、棚倉城や白河小峰城を築城しています。白河小峰城は、東北ではめずらしい総石垣造りの城で、特に本丸の高石垣は圧巻です。 のちに丹羽家は二本松城に転封して、白河城には譜代が入封になります。
結果的に幕府は、棚倉城築城と同様に、丹羽家の築城技術を利用したことになるのです。

二本松城の築城は、長重の子光重の代になり、ここでも山頂に見事な石垣造りの本丸を建てています。丹羽家は明治維新まで二本松藩で存続し、会津白虎隊の影に隠れてぜんぜんメジャーじゃないですが、戊辰戦争では二本松少年隊の悲劇もあるのです。

丹羽家の築城技術の評価や、知名度は、もう少し高くても良いと思うのですが。どうでしょ?


アクセス数8000突破記念 前身の城

おおげさなタイトルで恐縮です。城には、その城が築城される前に存在した、前身の城がある場合があります。何かの事情で御引越しするわけですが、一番ダイナミックに変移したのは戦国後期で、山城から、平山城、平城に移った経緯はよく知られているケースですね。

  • 吉田郡山城 −> 広島城
  • 高山城 −> 三原城
  • 七尾城 −> 小丸山城 −> 金沢城
  • 豊原寺 −> 丸岡城
  • 小谷城 −> 長浜城
  • 太田城 −> 水戸城
  • これぐらいしか思いつきませんが、もっとたくさんあるはずですね。戦国前期から中期には、逆のパターンもあるようです。

  • 駒寄城 −> 久川城(福島県久川村)
  • 滝山城 −> 八王子城(東京都八王子市)
  • 戦を直前に控え、より実戦的な要害の地に移動しているわけです。かなり地域限定の例で、数も少ないと思います。
    このように、その城に前身の城がある場合は、移動した経緯を知り、両方の城を見学をしたいものですね。つまらない話しで申し訳ありませんでした。(^_^)


    アクセス数7000突破記念 地方の中世平城

    おひさしぶりです。更新が遅れまして申し訳ありません。
    最近思うんですが、地方の中世平城はいいですね。開発があまり行われていない分、遺構がしっかりと残っています。それに国からの補助金か知らないけど、意外と遺構の整備にお金をかけ、町おこしに利用している場合も見受けられます。
    逆に、全然整備されてなく野放しで、雑木林や田んぼの中に遺構がある場合もありますが、どちらにしろ開発により消滅していないという点で評価できるのです。

    ただ、中世の平城というのは数は非常に限られ、背後に川、沼、あるいは台地の先端などの要害の地がほとんどで、近世の平城のようなものはわずかだと思いますが...


    アクセス数5000?突破記念 アクセスカウンタの怪

    おひさしぶりです。いま長期出張中の単身赴任中なのです。なんと出張先からHP更新をしてしまったのだ。
    お気づきの方もいらっしゃると思いますが、最近、アクセスカウンタの増え方が異常なくらい多いのです。なんと3月31日から4月1日の24時間で2500件もカウンタが増えてしまいました。それからも1日100件のペースで増え続けています。
    管理者の方に、サーバのCGIに異常ないか調べて欲しいと、メールを出したのですが、異常ないとのことです。なんでかなぁ? そんなに見てわけないのにね!!
    その後、数人の方からメールをいただき、4月1日のPC−WATCHのパロディ版”PCうおっち”からリンクされていたことが分かりました。多分この影響で、アクセスカウンタが増大したものと思われます。メールをくださった方ありがとうございました。


    アクセス数1000突破記念 お知らせ

    おかげさまでアクセス1000を越えることができました。あまり気にしないようにしているのですが、やっぱり気になりますよね。
    話しは飛びますが、これから仕事で出張が増えそうなので、HP更新の方が毎週ってわけには行かない状況になりそうです。 せっかく1000を越えたのに残念ですが、2,3週間で一度は更新するつもりなのでどうぞ見捨てないで下さい。
    また出先でも城を見てきます!!


    アクセス数900突破記念 県別による城訪問事情

    すいぶん更新がおくれまして申し訳ありません。出張続きだったもので...おかげで城も見てまいりました。
    城見学にいろいろな県を訪れていますが、静岡市には感心することだらけですね。まず人が非常に親切で、道を聞いても親切に教えてくれます。 バスの運転手も皆さん親切です。

    それからこの県は、なにかこうわれわれは観光でやっていくのだ!!みたいな気概が見れます。
    丸子城について、静岡市のHPにメールで問い合わせたところ、丸子の観光パンフレッドのイメージをJPGでくれました。さらに住所を教えてくれればお送りしますとのことで、非常に気持ちのよい対応ですね。
    また、各城跡の整備がかなり進んでいます。城の建造物には必ず御老人の男性スタッフがおられ、いろいろ説明し質問にも答えてくれます。社会をリタイヤした御老人を観光の方にシフトする制度みたいなものがあるのかなぁ(僕の勝手な想像です。)

    古都であり大勢の観光客を集めるN県は、城に関しては遅れている印象がします。 有名な城はそれなりでしょうが、少しマイナーな城に関しては、整備や看板など今ひとつかな? これからに期待しましょう。


    アクセス数500突破記念 N大T城

    おかげさまでカウンタが500を越えました。今回のタイトルでなにを言っているのか全く分からないでしょうが、N大T城のNには数が入り、Tには城の形容?が入ります。
    そうです。下記に上げられている様に、日本(地方)の城を形容するタイトルというか何というかそんなものがあります。私の知っている限りですが他にもあると思いますよ。

    三大名城 :大阪城、名古屋城、熊本城
    石垣の規模の大きさで選択されているようだと、勝手に思っています。

    三大平山城 :姫路城、和歌山城、松山城
    タイトルのとおりです。

    三大山城 :岩村城、高取城、備中松山城あるいは、岡城、高取城、備中松山城
    タイトルのとおり江戸藩城で山城だったものの選択ですが、2とおりあるのがおもしろいですね!

    関東七名城
    詳しくは私の無名城の写真館にありますが、難攻不落を誇った城から選択されているみたいです。また、関東三名城というのもあるみたいですが、佐竹城の他は分かりません。

    五大山城 :春日山城、七尾城、小谷城、観音寺城、富田月山城
    小谷城のパンフレッドにあったのですが、タイトルに中世をつけるべきだと思うのですが..また東日本からの選択が無いようなんで、個人的には八王子城は入れて欲しいですね。(じゃぁ、どの城をけずるんやぁ)

    他にもあると思いますよ。 どんなローカルなものでも良いですからあれば教えてくださいね!


    アクセス数200突破記念 関東の城

    おかげさで2週間ほどでカウンタが200を越えました。まぁそのうちの半分は身内の方々だとは思いますが..(^.^)早く相互リンクふやさなきゃぁ!!
    最近、週末に地元の栃木をはじめ、埼玉、茨城、群馬の城を精力的に巡っております。
    がぁ、山城は遺構が残っているものの、平城で諸藩の居城でありながら、遺構がちゃんと現存する城は非常に少ないではありませんかっ!
    この原因を私なりに考えてみました。

    1. 関東は平野部のため石が採取できないので、土塁による城が圧倒的に多い。これは明治維新後、街の景観として城を残すかどうか判断された時に非常に不利で、取り壊しが行われた。
    2. 北条氏滅亡後、関東の城には徳川譜代が入城したため、大きな城を建てる必要もなかった。あるいは、建てることもできなかった。
    3. 戊辰の役後、官軍中心の明治政府は、関東の城には執着が無かったので、簡単に取り壊しの判断ができた。
    4. 昭和の大戦で、こてんぱんに空襲をうけたため、戦後の都市開発のついでに、取り壊しが行われた。
    5. 関東の城は、沼地や川岸を利用して水掘りを構築したのが多い。そのため戦後の都市開発で、治水を目的に堀の埋め立てや、堤防の建設により消滅した。

    まあ、こんなところです。一番影響が大きいのはやはり4、5でしょう。 近年の城ブームで、わずかな遺構を必死で公園化しているのを見ると、せつなく思う私は異常でしょうか?


    ホームページ開設記念 作者紹介 城と私

    大阪府出身、栃木県在住の3?才のおやじです。
    小さい時に城のプラモデルに狂い、お年玉で城の写真集を買う異常な少年でした。
    当時はもちろん文章など読まずに、写真をみて絵を書いておりました。母は私のことを、城持ち大名の生まれ変わりだと言っております。
    (ちなみに嫁さんは、城好き大名の生まれ変わりだと言っております。)

    城についていろいろ勉強(注1)しだしたのは、このHP作成がきっかけで、自分がいかに漠然と城巡りをしていたのか思い知らされ、後悔の念でいっぱいなのです。
    (注1:勉強といっても市販されている城の本を読んでるだけです。)



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