響灘に沈む落陽

響灘の語源の由来ははっきり しませんが、このあたりの海を詠んだものとして、万葉集 巻十七

読人知 らず

昨日こそ  船出はせしか  鯨魚とり

ひぢきの灘を  今日みつるかも

とあります。 古代ではこのあたりはひじき (海藻の一、食用)、わかめなどの海産物が多くとれ、平城京

( 奈良の都 ) へ献上した記録が残っています。鯨魚(勇魚:いさな)とりは、今日でいう捕鯨を意味する

ものと思われます。近年 明治時代まで近くの長門 青海島でさかんに捕鯨がおこなわれていたようです。

響灘に面する下関も捕鯨の基地、町として昭和の時代まで栄えてまいりました。" 大洋漁業 " 発祥の

地でもあります。" ひぢきの灘 " が長い年月を経て ひびき(響)灘 にかわったものと推測されます。

 

鯨法会(くじらほうえ)

鯨法会は春のくれ、海にとびうおとれるころ。

はまのお寺で鳴るかねが、ゆれて水面をわたるとき、

村のりょうしがはおり着て、はまのお寺へいそぐとき、

おきでくじらの子がひとり、その鳴るかねをききながら、

死んだ父さま、母さまを、こいし、こいしとないてます。

海のおもてを、かねの音は、海のどこまで、ひびくやら。

金子みすゞ 童謡集 「 明るいほうへ 」 より ー