顔は知ってる.../96.10.25(金)、朝食の光景:
父:母に向かって、『Aさんが写ってる写真の焼き増しは一枚で良いのかな?』
長男:『お父さんはAさんちのおばちゃんのこと知ってるの?』
父:『うん、顔は知ってるよ』
長男:『ふーん、じゃあ、どこは知らないの?』
父:一瞬どきりとした後で、『違うよ、顔は知ってるというのは、顔を見れば、この人がAさんのお母さんだとは判るけど、あまり話をしたことは無いということ。誰かを知ってると言うのには、顔だけは知ってる場合もあるけど、よくおしゃべりもする相手の場合もあるいうことだよ』
(長男は『顔は知っているなら、手は知らないのかな?』などと考えたのでしょう。確かに「顔は知ってる」というのは改めて考えればおかしな表現で、今後の"decipha"の課題?を長男から頂戴した形になりました。)

父:子供達に向かって、『今日はおもちゃは見るだけで買わないんだよ。ねえガッ君達聞いてるの?』
次男(ガッ君ではない方):『ガッ君達って言えば、二人ともガッ君やで。じゃあ、僕もガッ君やで。』(『やで』は次男の最近の口癖の一つ)
父:『それは面白い話や。その考えで「お父さん達」と言えば、お父さんとお母さんのことやなくて、ここにお父さんが二人いることになるなあ。』
(3歳の子供に不思議なコメントを出され、不覚にも感心した父だった。私達が「看護婦さん達」という時、看護婦さんだけの集合を指すことが多いと思うが、その論法で行けば、「わたし達」では、複数の「わたし」が居るという妙な状況を表わすことになる。「わたし達」の中には「わたし」は本当は一人しかいないのだ。だから「看護婦さん達」と「わたし達」とでは、『達』の使い方に違いがあるわけだ。そこまで気付くと、「わたし達」はおかしな言葉だと思われてくる。英語などでは一人称複数として、単数の“I”とは全く別の形を持った“We”が用意されていることを考えると疑問は深くなる。)