Miscellania(ミセレニア)

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“ピース大阪”見学記
 1月19日まで大阪市中央区のピース大阪で開かれていた特別展『戦争はフィリピンとインドネシアでどのように伝えられているか』(世界平和ミュージアム交流展)を見てきた。特別展の一環として、フィリピンの高校生達が、戦争体験者などから聞きとった太平洋戦争当時の様子を描いた絵(水彩画や色鉛筆画)が展示されていた。
 ...日の丸の兵隊がフィリピン民間人を銃殺している光景。辱めを受けたのか泣き崩れている女の人。...今度は、赤ん坊の突き差さった銃剣を得意げに振りかざしている兵隊、そのすぐそばで、赤ん坊の母親が泣き崩れている...
 児童画以外にも、戦地で調達されて無数の兵隊達の世話を何から何までさせられた女性の談話など、相当量の資料がパネル等で展示されていた。

 旧日本軍によって過酷な労働を強制された或るインドネシアの男性の手記には、『日本人を恨んでいない』、『全てあれは戦争の狂気が行った行為だから』と書かれていた...
 だが作者は、当時の日本軍の残虐な行為をたとえ被害者のだれかが許しても、我々、今生きている日本人は許してはならないような気がする。それを許すことは、「戦時にはその種の行為も仕方がない」という考え方を自ら認めるのと同じになると思うからだ。我々が将来どこかで同じ行為を繰り返すことを自ら許すことになる。
 実際の話、もしどこかの国と戦争状態になったら現代の日本人はどんな行動をするのだろうか?そして私個人はどうだろうか?今回ピース大阪を訪問しての作者の関心事はこれらの点につきる。

 戦争では何でもやって良し、という発想はどこから生まれるのだろう?「戦争は非常時だから、平常時とは違う常識があってしかるべき」という考え方が支配的になったとしても、平常時だけのヒューマニズムはヒューマニズムではないだろう。 質問1:戦闘行為をお国のためでやっていたのなら、民間人の殺りくや暴行もお国のためでしたか? 質問2:したい筈もないこわい戦闘を、鬼のように恐ろしい上官に、国家に強いられて仕方なくやったから、暴行はそのお駄賃として許される必要があったのですか? 質問3:日本民族は他よりも優れているという感化を真に受けて何でもやって良いと感じていましたか?そういう感化政策は実在したにせよ、その政策に便乗するあさましい気持ちがなかっただろうか?(政策の一人歩き) 質問4:ヒットラーがユダヤ人を虐殺したから、日本人も同程度のことをしても罰は当たらないという論理ですか? 疑問は尽きない。

 もちろん、太平洋戦争の最中、一貫して他国の兵隊を敬う気持ちを持ち続けた部隊もあったかも知れない。する方もされる方も侮辱される陰惨な行為に加わらなかった勇敢で憐れみを知る兵隊もいたかも知れない。また、兵隊による戦争相手国の兵隊や民間人に対する残虐な行為は、太平洋戦争での日本軍の例が初出ではなく、古今東西枚挙にいとまがないかも知れない。ベトナム戦争でも民間人を(スパイ容疑としてだけではない)殺りくした例はあった。でも、それならば、人間がそんなにまでおぞましい面を普遍的に抱えた怪物ならば、そこから目をそらす訳にはいかない。何故フィリピンの高校生の絵に標されているような常軌を逸した行為に走らねばならなかったのか?その時の兵隊の集団心理を憶測してみる必要がある。逆に、過酷な気象条件に苛まれ、ろくに食べ物もない生地獄のような遠隔の地にいながら、人の道を踏み外さなかった部隊が、兵隊が一人でもいたなら、彼等を支えたのは何の力だったか?作者はそれを知りたい。

 私が訪問した1月18日は女子高校生が多く訪れていたようだが(現代社会科の自由研究だろうか?)、もし戦争体験者から有志を募ることができれば、彼等が自分の体験談を交えながら、昨日までは互いに見知らず年齢層も大きく違う若者達と館内を歩き、お互いの考えを述べあうという企画はどうだろうか。

 ピース大阪へは、地下鉄中央線「森ノ宮」駅下車、1番出口より地上に出て、大阪城公園への入り口を右にやり過ごすと、『このまま西に2分歩けばピース大阪』という看板と出会う。施設の入り口は建物の2階にある。

 ところで、今回の特別展見学以来、日本人の得意な集団行動とお祭り好きが作者には何だかおそろしいものに思われてきました。


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“産まれる”ごっこ
 これはおとうさんと息子達の間のゲーム。とりあえずかれらの母親には秘密。かれらは近くにおとうさんだけいる時、『産まれるをしたい』と寄ってくる。まず、四つん這いになったおとうさんの下に、小さく身を縮めた子供が入り込んで、しばらくじっとする。「もう産まれて良いよ」というと、子供が手足の隙間から「おぎゃあ、おぎゃあ」とわめきながら這い出てくる。子供は辺りを少し這い回ったあと、チュパチュパおっぱいを飲む振りをするとやおら立ち上がり、胸を張って「もうりっぱな桃太郎になった」とか、「おらはオーレッドになった」等といっておしまい。
 親もこどもも他にない不思議な感覚を体験できる貴重な遊びだが、作者の発案だったのか、子供達の発明だったか今では判らなくなってしまった。
 今後こちらから誘ってもこの遊びに参加しなくなれば、それは子供にまたは子供と作者の関係に新しい展開が生じる兆しなのだろうとかすかに覚悟を決めている。



パンの功徳
 先日、握り飯とサンドイッチが一度に載ったお昼の皿を目の前にして思ったことです。おにぎりは水分が多い分、サンドイッチよりも飲み込み易く、食べやすい。しかし、これは言い換えれば、余り咀嚼せずに食べてしまう、良くない習慣が身に付く元にもなる。パンの方が咀嚼を、だから唾液の分泌を強いるだけ有利な点がないだろうか。
 そして、これは日本人の体格や体力、および、それらの変遷と関わっていないだろうか。ただし、外国人の体力との比較は安易にスポーツ等を対象に行うべきではない。明治期の日本を訪ねた欧米人(ハーンだったか?)が、パンなど食している筈がなく非常に小さな体格の人力車夫が何時間も連続で車を引く体力に驚嘆したという話を何かで読んだことがある。


何時から私達は...
 百貨店に入るのに、いちいち挨拶する人はあまり居ないでしょう。でも、同じ町内にある個人商店にさえだまって入り、だまって買っていく習慣?が定着しつつあるのは、気になる現象です。
 私達は何を基準に挨拶して入る店と挨拶の不要な店を判別しているのでしょうか。みんなコンビニエンス・ストアにはだまって入ることからみて、店の規模の問題ではない。店員と知り合いかどうかでもないようです。
 都会におけるご近所や、通勤電車での無関心と関連があるのでしょうか。
 いつか「ディサイファ」のコーナーで取り扱ってみたいと思います。ご意見のある方はご一報下さい。(bu7k-ootw@asahi-net.or.jp)

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