
“wife”を表す言葉について:其の1
日本語の「妻」という言葉の周辺を少し掘り下げるだけで、いろんな面白い事実が見えてくる。まず、ひとに対して自分の「妻」を表現する語彙は、「家内」、「女房」、「かみさん」、「ワイフ」、「かかあ」、「愚妻?」、「連れ合い」...幾らでも挙げられる。日本人の夫は、自分の妻のことを話すのに迷ったりしないのだろうか。
夫は、結婚して間もないお互いの呼び方が定まらない?時期は(日本のお見合い結婚ではこんな状況が実際に起こる!)、妻を思い浮かべてはどの表現が最も相応しいか思案したりするのだろうか。でも、あらゆる状況で使える一枚のオールマイティの札はないらしい。自分や妻の年齢に適した表現があったにしても、会話の場の雰囲気や、相手との関係で適切と感じられる言葉が変わる。どの言葉を使っても本質的な意味は同じなのに随分と馬鹿げたことに悩まねばならないものだとあきれるが、どの言葉を選ぶかによって、ニュアンスに違いが生じる。
例えば、私の職場(大阪市)で最も頻繁に聞かれる表現は、「家内」、「女房」、「かみさん」の順だが、私の印象では「家内」は、字の構成から考えて「家」の「内」であり、いかにも外に出て活動しないものの代名詞のような表現で、時代錯誤の印象をもってしまう。元来は家の内に大事にしまっておく位の発想で使われていたのかも知れないが。
「女房」も時代がかった音の響きをもつ。それに、長年連れ添って、もうお互いに手の内は知り尽くしてるよというニュアンスがあって、味わいも感じられる一方、奥様方には気の毒な表現という気もする。
日本でヒットしたテレビ番組の『コロンボ警部』の声の吹き替えの主人公が少しおっかなびっくりに、『うちのかみさんがね』を繰り返していたのは、なんとなく適切な吹き替えだと感じた日本人男性は多かったと思うが、この「かみさん」は、広辞苑では「上様」という字が当ててあり、神様と同様に奉っている様子を想像させることからも、元来自分の妻ではなく、他人の妻を指していう言葉だった筈だ。
神といえば、「山の神」も、今は滅多に使われなくなったが妻を表す言葉で、これも広辞苑によれば、山の神のシンボルが「杓子」という、主婦が日常的に使う道具だったからということになるのだが、この「山の神」を実際の会話で使うとなると、どうも奥さんを煙たがってるか、恐がってるか、いずれにしろ何とか距離をおこうとする表現のように思われる。
こうして見てくると、「家内」、「女房」、「かみさん」のどれをとっても、蔑視かその裏返しの遠慮の率直でないニュアンスが伴う、決して使い易くない言葉であることがわかる。
では、いっそのこと「妻」はどうだろうか。確かに「妻」は、不明なニュアンスを帯びない中立的な表現だ。女性側の意見としても、「家内」、「女房」、「かみさん」はどれも訳の分からない言葉で、呼ばれるなら「妻」の方が歓迎というのが主流のようだ。
だが、夫達が会社の同僚との雑談で『私の妻の場合、...』なんて発言しようものなら、座が白けるというか、『こいつ何考えとんねん』ということになりかねない。つまり、「妻」は、そのフォーマルでつんとしたムードのため、少なくとも関西では、相当頑張らないと使えない。気の毒に!日本の夫達にはやはり、「家内」、「女房」、「かみさん」しかないのが現状なのだ。
これでは、元々“wife”しかない欧米の夫達の方が、言葉を選ぶ手間が不要なだけでなく、中立な響きを持った言葉を持っている訳で、余程恵まれていると思えてくる。
これからは「妻」をみんなで使って行こう、そうすれば次第に無理なく使える言葉に変わっていくだろう、と言いたいところだが、これは未だ時期尚早と判断しておこう。日本語には何故「妻」の他に「家内」、「女房」、「かみさん」等多数の“wife”が使われているのか、その理由に少し考察を加えてみてからでも遅くないからだ。
ということで、このコーナーでは引き続き「妻」、「家内」、「女房」、「かみさん」に、「ワイフ」、「かかあ」、「連れ合い」、「うちの奥さん」や、関西中心に使われている「嫁はん」、「おかあちゃん」なども含めて、日本語では“wife”を意味する言葉が何故こうまで多様なのかを考えていきたい。そこから何か重大な事実が見えてくるかも知れない。
日本語の“I”:其の1
日本語の人称代名詞の豊富さの圧巻は、一人称かも知れない。一人称単数には、直ぐに思いつくだけでも、「わたし」、「わたくし」、「あたし」、「ぼく」、そして「おれ」があり、今は廃れかけているものや、方言を加えれば、リストは山のようになりそうだ。
一様に“I”を意味するこれらの言葉は、一種の規則によって使い分けられる。基本的には、「ぼく」と「おれ」とはいずれも男性用で、ただし両者では丁寧さや品格上のニュアンスが少し異なる。「あたし」は原則として女性用。「わたし」と「わたくし」は、男性と女性のどちらも使う丁寧な言葉だが、「わたくし」は丁寧さが一段と増すように聞こえる。そして、何故か特に男性の立場での選択肢が多い(この理由は今のところ判らない)。
だが、大抵の日本人が知らず知らず身に付けている逃げ道(?)があって、これを使えば選択を強いられることもない。すなわち、代名詞を一切使わずに、しかし一見自分のことを話していると相手に思わせる。そんな話し方ができる。
夕刻、会社員AがBという同僚と一杯やりながら、『先月大きなヘマをやらかしましてねえ』と話題を提供している場面を想像して頂きたい。この発言は、会話の一つの断片として完結した形をとっているが、同僚Bとしては、『ヘマをやらかした』主格は話し手A自身かな、それとも彼の部下の誰かかなと思案しつつ話の展開を待っていると、Aは自分の失敗を白状しているのではなく、部下の失敗をぼやいていることが次第に判ってくる。そんな曖昧な状況が日常会話の中で起こり得るのが日本語だと思う。
これは、日本語の持つ曖昧な、言い換えれば、フレキシブルな構造を示しており、おわかりのように英語などの欧米語の場合(※)、一人称単数は実質的に“I”しかないし、また、人称代名詞抜きで自分のことを語ることなどは文法構造からも、精神構造からも不可能に違いない。
上に示したのは一例に過ぎないが、このように、日本語には独特の曖昧さがあるようで、それらの曖昧さは必要があって編み出されたのかも知れず、また、耳に心地よく響く日本語を話すための重要な要素になっているのだろうが、話手の側、文を書く側が注意をしないと誤解を生む原因になる。
科学技術分野の文献に関するデータで、被引用率というのがある。世界の文献や特許明細書などに引用された頻度を示す数値だが、日本人が書いた文献はこの値がすこぶる低いという。英語で書かねばならないというハンディも大きく効いているだろうが、欧米人が書いたものに比べると、実験結果などから結論を導くまでの論理の詰めが甘いと思われる節がある。
政治や経済の折衝における日本人の発言力やディベート力の低さに対する危惧されている今日、他国との重要な折衝で有利な成果を得るには、英語力もさることながら、説得力のある論理を展開できることが必要となるだろう。そのためには、日本語の持つ曖昧性に甘んじることに見切りをつけねばならない。日本語の麗しさは、論理的な曖昧さの中に宿っているわけではない。
(※)日本以外の東洋圏、例えば朝鮮半島や台湾、中国大陸の言語では人称代名詞についてどのような事情があるか、情報をお持ちの方、教えて下さい。今後の議論の展開に役立つかも知れません。