宗教、この甘美なる誤解031130

 先日、叔父がなくなった。叔父一家は、私の知らない宗教、日本教というのを信じていた。
 お通夜に出て思った。宗教とは、こんなにも甘美なものかと。
 日本教での葬儀は、お通夜とは言わずに、「精果復華前夜祭」となっていた。
 死後の世界を信じて、この世での精進に励むという、いたって前向きな宗教のように見えた。
 
 私は無宗教なので、死んだら素粒子とエネルギーになって、宇宙に飛び散る、それだけのこと、と覚悟している。
 ニーチェばかりではなく、「神は死に給うた」と唱える人は、私が感じるかぎり増えてきているような気がする。
 
 私たちが知っている宇宙を構成する物質は、たかだか4%で、残りはまだ人類が知らない、ダークマターと呼ばれる暗黒物質と、ダークエネルギーと呼ばれる何かで満たされているとの説が有力になってきている。
 まさか、残りの96%は神の領域というものでもあるまい。

 現代では、ミクロでおよそ10のマイナス30乗センチまで、マクロで10の30乗センチにせまるほど分かってきているという。
 けれど、宗教を信じるという人たちは、このような科学を知らないのでもなければ、馬鹿にしているわけでもない。ミクロ、マクロの科学を知っていても、なおかつ、自分の精神世界を甘美なお酒で浸しておきたいからなのだろう。

 ニュースでは宗教の対立が話題になるけれど、私の目には、信仰を持つ人に対して「教祖に心を預けた空っぽの人」と、冷笑する無宗教の人たちのあり方が、よほど大きな宗教対立のように映る。
 
 私が宗教を完全に否定するときは、愛する人の写真を土足で踏みつけにしても、なおかつ平気でいられると確信してから、と思っている。

 このところ、家にいるときは、終日音楽を流し、部屋の空気が音で満たされるようにしている。空白がこわいかのように。
 まるで、音というダークエネルギーのようだな、と自分で苦笑する。
 宗教、何という甘いお酒なのだろう。
 信じられたら、どんなにか柔らかな温もりなのだろうと思いつつ、晩秋の日は暮れた。

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