【毒気の個性に自信ができた:0000116】
長い間、自分の感情に自信がもてなかった。
「コンピュータには意志がない」と、いとも簡単に言われるけれど、もし脳医学が発達して、意志が解明されれば、コンピュータのプログラムに入れることができる。そうすれば、コンピュータは限りなく脳に近くなるはずである。プログラムが入力されていれば、誰がやっても同じ結果になり、同じプログラムならどの機種でやっても同じになる。と、まあこういうことは、可、不可は問わず結構楽しい話題だった。
でも、ここから先は、自分にはちょっと重かった。そもそも、これからの人間が人間たる所以は、このプログラムから逃げることか、と思う。つまり、解明されて入れられたプログラムとは違うプログラムを自分が持つこと。だけど、たかが自分のプログラム程度ではすぐに解明されてしまいそう。そうしたら、次ぎなるプログラムを自分が持つこと。でもこれはかなりしんどい。多くの学者に躁鬱病が見られるのも、自分自身が解明したこのプログラムの追いかけっこに疲れたのかも知れない。
他人のプログラム回路を自分の脳で再生させる。これは自分の脳を他人のソフトで動かしているだけということになる。これは意識しないだけで、案外多くの人に見られる。要するに、付和雷同するような人はこれに近いと思う。
私は若い頃は自分の感情が重たくて好きになれなかった。「個性のない人は癖のない人」とか「透明感のある人」と善意に捉えていた。しかし、だんだん歳を重ねる毎に、個性のない人はどうして魅力がないのだろう、とか、面白味がないのだろうと思えてきた。ところが、個性のない人は何となく「ずるい」という気持ちさえ抱くようになった。何故なんだろう。
個性がないとは一体どういうことなのだろうか。それは何時でも自分が代替え可能の状態である、ということ。それよりも、代替え可能の状態にしておく、と言った方がいいかも知れない。個性が感じられない人を好きになれないのは、画一的というよりも、この代替え可能、つまりいつでもソフトを返ればすぐ変身してしまう気味悪さだったかもしれない。
そういえば、職場の上司は、殆どが他者のソフトを使っている。意地の悪い人でも、よく観察するとその意地の悪いところも、似たり寄ったりなのできっと同じソフトを使っていることだろう。機械に弱い私には、このデジタルのような脳に拒否感があったのはむべ成るかな、かも。これに気がついた私は、人に嫌われることにあまり恐れを感じなくなった。実際、自分の頭で考えれば考えるほど、他者との摩擦が大きくなってゆくことも感じた。そして、「尊敬できない人に好かれてなんになる」という開き直りになってしまった。
善悪は時なり。毒気も時なり。
気楽に〜〜〜気楽に〜〜〜〜。
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