●沖縄の音楽・魂の音楽(その2)

皆さん、お元気ですか。
10月も半ばになり、朝晩などは少し肌寒い日も多くなってきましたね。日光のほうでは早
くも紅葉を見ることができるようになったそうです。私の家のそばの高校も衣替えが始ま
り、もう殆どの学生がブレザーを着るようになりました。でも日中との温度差があります
ので、体調など崩さないようにしたいものですね。

さて、今回は前回に続いて沖縄の音楽に関連する話です。
前回を読んでない方は、まず前回を読んでから戻ってきてください。

さて深夜TVの沖縄音楽特集を見ているうちに、私が感じた疑問というのは次のようもの
です。

”私達は、自分達の音楽というものを持っていないのではないか”

ここでいう”私達”とは、沖縄の人の言葉でいえば”ヤマトゥーンチュ”のことです。”
ヤマトゥーンチュ”というのは、本土の人々を指しています。遠い昔から、中国や大和の
国との交易の中で、自分達の歌を現代に伝承してきた沖縄。それに対して”ヤマトゥーン
チュ”の私達は、それに相当する音楽を持っているのでしょうか?私達は”生活の中に根
付いている自分達の音楽”というものを持っていません。そして私が現在こだわっている
音楽とは、”誰の”ものなのでしょうか?そのことに私は、衝撃を受けたのです。

私達は一日の生活の中で、朝起きてから夜寝るまで無数の音に囲まれています。でもそれ
らの音の殆どは、”向こうから勝手に”私達のもとに飛び込んできます。私達が、その日
常の生活に必要なものとして、音楽を求めることがどのくらいあるのでしょうか。”音楽
がないと生きていけない”などと言っている人の多くは、音楽なんかなくてもおそらくは
りっぱに生きていけるのです。最近のヒットチャートが、それを物語っています。そのヒ
ットした歌が、今後どれだけその人に愛されていくのか。ミリオンセラーとなった曲の殆
どを、一般の人が口ずさむことのできない異常な状況なのが今の日本なのです。現代の歌
に素晴らしい歌が無いと言っているのではありません。現代の歌は、時代の中で限りなく
消費されつづけているだけなのではないでしょうか?

”日本人の心”といわれる、演歌や民謡はどうでしょうか。演歌、民謡、童謡、唱歌、い
づれも私達の生活の中にある音楽かと聞かれたら、やはり答えはNoだと思うのです。酔
っ払って好きな演歌や民謡を歌うお父さんはいても、家族の幸せを願って演歌や民謡を歌
うお父さんはいません。子供の幸せを願い自分の子供に童謡を歌って聞かせるお母さんは
いても、大人になった息子や娘にいつまでも童謡を歌って聞かせるお母さんなどいません。
演歌や民謡も、外国から入ってきたジャズやロックと同様に、ある一定の状況、地域、期
間などの閉じた世界の中での音楽だと思うのです。ちなみに私自身を振り返ってみても、
自分の中には”演歌的なもの”はいっさいありません。演歌をやろうと思ったら、勉強し
て修得しないとできないでしょう。
日本古来の音楽である雅楽はどうでしょう。まあ、一般的な日本人が聞く機会というのは
神前結婚式か、お正月のTVくらいではないでしょうか。これまた、生活の中の音楽など
とはとてもいえません。
そして戦後に生まれた私達のような世代は、アメリカ音楽の洗礼を知らないうちに浴びて
います。このサイトのhistoryにも書いてありますが、私が物心ついたときに鳴っていた
音楽というのも、母の聞いていたラジオから流れてくるポップスでした。それは洋楽であ
ったり、日本人の歌手が歌う外国曲だったわけです。音楽を意識してから好きになった拓
郎や陽水の音楽も、そのバックボーンはボブ・ディランやビートルズなのです。じゃあ、
ディランやビートルズのバックボーンは・・・?。そのように考えていくと、結局それは
”私達の音楽”ではなく、海の向こうの”彼らの音楽”なのです。

沖縄の音楽は、生活とともに歴史を歩んできた伝承歌です。遠く中国の宮廷音楽に起源を
持ち、沖縄の苦難の歴史の中で庶民のものとなり、遊郭をはじめとしていろいろなところ
で人々に伝えられながら生き延びてきた音楽なのです。アフロ・アメリカンのブルースな
どと同様に、魂の音楽なのです。沖縄特集のTVでも、沖縄歌謡を代表する女性歌手であ
る大城美佐子は、次のようにいっていました。

”身体の中に歌を入れないと歌えない”

ちなみに私も曲を身体に入れないと、どういうわけか演奏できません。大城美佐子も、魂
が入っていない歌は歌えないのです。それゆえに、沖縄の音楽は私達の魂も揺さぶるので
す。あの独特のリズムと音階を持つ音楽を聴くと、沖縄の人々がいてもたってもいられな
くなる気持ちというのはよくわかります。いえ、本当はわかっていないのかも知れません。
そのような人々の魂に響く音楽を持つ沖縄の人たちが、単純に羨ましいだけなのかも知れ
ません。沖縄の人々と違い私達が自分達の音楽を持っていないことに気がついたときに、
私はなぜ自分がこれまで聴いてきた音楽にこだわるのかが解った気がしました。おそらく
無意識には気がついていた”彼らの音楽”の魅力の秘密を知りたい、少しでもその素晴ら
しさを感じたい、という切なる願いが、それらの音楽へのこだわりの原点のような気がし
たのです。”永遠に解らないかも知れないけどいつかは自分の物にしたい、自分の音楽に
してみたい”という思いなのかも知れません。でもそれはまた、やはりとてつも無い苦難
の道だと思うのです。だからきっと、その秘密がわかるまでは音楽がやめられないのでし
ょう。

では、また。