※友人だった小原正也君(京都市出身 1995.6.28急逝 享年29歳)の追悼文集への原稿
 
    

小原君の思い出

                     
 
 92年の6月、労働者協同組合に関する研究会で知り合った友人に誘われ、市民フォーラム21の例会にはじめて出席した。その後の懇親会の席上で、今日の講師の話を聞いた感想文を会報に書いてほしい、と私に言ってきたのが小原君だった。
 それから何度となく、市民フォーラム21の集まりや、労働組合運動の活動家達の交流勉強会などで、顔を合わせてきた。そして小原君達若い人々が継続させていた「企業社会を考える」読書会にも誘ってもらい、ずいぶん勉強させてもらった。こういう本を次のテキストにします、と教えてもらえるだけでも不勉強な私には有り難かった。私より一巡りも若い友人達がそうしたことを行っていたことに驚き自分の視野の狭さも感じさせられた。
 いま、この突然の彼との別れのこちら側に、悔恨のような釈然としない思いが残されてしまった。それがいったい何なのか明らかにし、その思いを解かなくては、彼の面影を安らかに抱きとめることはできないだろう。
 その釈然としないものの形式だけははっきりしている。彼の思いと私の思いと、十分にかみ合わせるそういう充実感がないまま突然、絆が断ち切られてしまったということである。
 いくつもの断片的な思い出がある。彼は勉強家だった。いろいろなことを勉強したいと言っていた。フェミニズム、英語(これはアジアで働きたいという目的を聞かされた。ラジオ講座を録音するために、私も不要になったラジカセを送った)、西欧の現代思想(これは実際、市民フォーラム21の小山氏を講師に3人で西洋哲学史の勉強会を杉並で何回か行った程だ)。日本ではなくアジアで働きたいのだと聞かされたのは、プログラム開発の契約社員としての期限切れを数カ月後に控えてのことだったと思う。
  いつも彼はTシャツにジーンズのようなスタイルが多かったが、何度か会社帰りの背広姿の彼と会ったことがある。それは全く似合わない印象を受けた。背広の示す馴致の方向性と、彼のまなざしや体が向かおうとしている方向とが全くちぐはぐな不協和音を立てているようだった。彼の体勢はいつも、自分に欠けているものが外にある、それを自分は吸収しなくてはならない、あるいは全く逆に、外にあるあれは決して自分は着用してはならない、そういう規範的な志向性で身を引き締め続けていたのではないだろうか。
 あの時は彼の一番近くにまで近付いていたのではないかと思うエピソードがある。それは彼のお姉さんが結婚するころの話だ。たぶん例によってお酒が入った懇親会でのこと、彼は日程が迫ってきたその結婚式に、結婚式なんて意味ないよ、でたくないよー、と何度も愚痴るような照れるような声の調子でくり返していた。家族からの結婚式への参加要請は彼の思想のアキレス腱を刺激していたのではなかったか。反「体制」の思考というものは遠くへどこまでも遠くへ進もうとしてしまう。そしてその足は時には地上を離れ、鳥の目になって世界を判断しその判断に判断を重ねていってしまうこともある。しかし、そうなったとき、家族とか職場の仲間とかそういう人々の存在は、浮遊し始め空中に自らの城を作りはじめてしまった思考の動作を、再び強制的に接地させに来るものではないだろうか。
 自分は、人は、こうしなければならない、こうあるべきだ、という考え方を彼は自分の堅い殻のように持ってしまってはいなかっただろうか。結婚式なんてそんなの顔さえ並べておけば収まるんだから出てやればいいじゃないか、そんないい加減な私の言い方に彼は反論するでもなく、うーん、でもいやだよ、と、明日苦手な鉄棒の試験を控えた子供みたいにくり返していた。
 君は、もっともっといいかげんでも良かったのではないか?、そんなことを言っても受け付けないに決まっている。ならば、君は他のすべての人と同じ地平にしかいないということを認めよ、自身を「彼ら・大衆?」を理解しなければならない者として自己規定するのは止めよ、と言ったらどうだったろうか。そこから初めて始まる(どうしてもそういう言葉を使いたければ「革命」や反「体制」の)運動も可能なのだと言ったらば。
 結局、小原君とはそういったことについて話すことはなかった。しかし、彼の死後、彼がこうした問題群に係わる思考を最近の具体的な闘争の中で進めつつあったことを、駒場寮の廃寮反対運動に係わっている人から知らされた。
 それは私の理解では次のようなものだ。
 大学当局は廃寮と引き替えにもっと豪華な寮を三鷹に作り学生の利用施設も駒場寮の一部跡地には作ると言う。すると、「学生全体の利益」が差し引きして多くなるなら廃寮もやむを得ないのではないかと言う意見が出てくる。それに対して彼は「学生全体の利益」というのは幻であり、現実には様々に異なる利害関係を持った個々の学生しかいないことを喝破し、「寮生の犠牲なき施設建設」などの主張を提起したということである。
 この主張は次のようなことを意味しないだろうか。
@「全体の利益」(公共性と言ってもいい)などというものがあらかじめあると考えたり、あるいは、ある一部の人々が(指導部と自認していようと何だろうと)これが「全体の利益」だ、と規定することは許されないこと。
A各人は現在の制度を前提にする限り個別的な利害を持っており、それを主張する権利を持っていること。
Bそれらの利害関係の主張は次のように十分分析されなければならない。
 a)それぞれの要求の当初の表現形態にとどまらずその核や具体性は何なのかが明確にされること。(「廃寮反対」という要求はどんな具体性の軸上で「反対」と主張されているのか、寮の位置か、寮の自治が奪われることか、当局の不誠実さか、等々)
 b)二者択一であるかのようにリンクされ学生間の利害対立であるかのように設定された事柄を解きほぐしそれぞれの要求が敵対するものではなく両方実現可能な条件を示すこと。(寮の廃止と学生たちがかねてから望んでいた施設の建設は独立して遂行可能な事柄でありそれがリンクしたものとされるのは支配のためでしかない。しかしこれを「分断工作」だなどと非難して終わりにしてはいけない。分断されるような「一体性」などまだ実現されていないのだから)
Cこうして様々な意見を出し、また強力な分析作業によって初めて、当初の、利害対立を持つ個々の存在の集積としての学生集団(要するに市民社会)という規定から、利害対立する輪郭自体が変容し、新たに集団的な決定を成していく主体(公共性といってもかまわないが)を構成していくことができる。
D要するに、すでに存在し持続するもの、自己同一性(アイデンティティ)としてでなく、これから構成し作りあげていくものその過程として、「我々」とか「主体」とか「自己」とかを考えていくこと。(したがって、「他者」「大衆」などといった項目と相互規定されたものである限りの「自己」などは機能しなくなる)
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 私が勝手に敷衍したこれらの事柄について小原君自体はどう考えていたか、もはや知る術はない。しかし大学当局=文部省が施策の貫徹のために繰り出してきた様々な言説や戦略は、結局、現在の支配の様式の中で、職場で、地域で、誰もが出会い日々それと格闘している支配と同じタイプなのだ。だから、小原君が果たし得なかった闘争の続きは、誰もが、今、ここで、続けられることになる。そしてその限りにおいてたとえ死者であれ、彼と我々は今も同じ「現在」を生きていることになる。
 最後に私が想い浮かべたかった彼の面影は、実は私が見たことのない彼の面影なのだ。それは去年の7月23日、市民フォーラム21の運営委員会の始まる前に彼が話してくれた光景である。・・・・その前夜、今までこんな日があったろうかと思えるほど澄み切った満月の光が、彼の4畳半のアパートの部屋の中に深く射し込んでいた、彼は窓を開け放ち、電灯を消し、ずっとその青白い月の光に身を浸していたという。私はそれを見ることはなかったのだが、その彼の無言を、真剣なまなざしの行く先やかすかにゆらめく青い月の影を、様々な可能性を、静かに、静かに胸に抱きとめていたいと思う。


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