※某労働組合ニュース2005年11月号掲載原稿

   

私の現代美術の楽しみ                

 
 美術作品というとゴッホとかセザンヌ、ピカソなどという名前が浮かぶと思いますが、私が現在はまっているのは、もっと新しい、現在生み出され続けている作品です。その中でも私が最も惹かれるのは、インスタレーションと呼ばれる、空間全体に展開した作品群です。

 最初にそのような現代美術の表現方法にショックを受けたのは、イリヤ・カバコフという旧ソ連出身の作家による「自分の部屋から宇宙へと飛び去った男」というインスタレーションでした。ソ連の共同アパートに住む風変わりな十人の部屋という設定で作られた作品の一つで、パリのポンピドーセンターから木場の都現代美術館に巡回してきた九七年のことです。三畳ほどの板の間に木板一枚のベッド、天井の四隅に固定されたゴム製のカタパルトがその上にぶら下がり、男が突き破っていった天井の破片が脱ぎ捨てた靴の置かれた床に散乱し、壁には旧ソ連の政治ポスターが張りつめられています。観客は男の孤独な生活や事件の前後について語る何人かの目撃者の陳述を読んだ後、封鎖された入り口の隙間からその光景をのぞき込むことになります。言うならば、立体化された「短編小説」です。この作家はソ連時代にはこうした作品を発表できず、絵本で稼ぎながら密かにこれらのものを仲間内で作っていたそうです。そのことも考え合わせたとき、文章の内部ではなく、文章も含むその空間全体で一つの思想を表現する、という姿勢が衝撃だったのです。

 それ以来、意識的に現代美術作品を見てきました。印象的なものをいくつか紹介します。

 当った宝くじのお金で子宮移植手術を受け子供を産む男のビデオ作品(岡田裕子「俺の産んだ子」)、もっともらしい解説と男女逆転した身振りが爆笑ですが、映像のリアリティによる異化作用はビデオならではです。五〇年後どんなお婆さんになりたいか想像してもらい特殊メイクでその姿を写真にして、お婆さんとしての一言を添えた作品(やなぎみわ「MyGrandmothers」)、たった今人体を透過している宇宙線をセンサーがキャッチする度に発光・発音して見えない物質と空間を意識させる諸作品(ヤノベケンジや逢坂卓郎)、優雅な格好をした若い女性が音楽を背景にスローモーションで町中を歩きながら、手に持った棒状の熱帯植物の花で時折、路上の自動車のガラスをぶちわっていくビデオ(ピピロッティ・リスト「Ever is Over All」)、横浜中華街の公園内の東屋を囲い、その中にダブルベッドを置いて「ホテル」にしてしまった作品(西野達郎「ヴィラ會芳亭」実際に宿泊できる!現在公開中)では、空間が公共的なものになったり私的なものになったりする奇妙さを味わえます、……等々、挙げ出すときりがありません。

 もちろんこうした作品を作るためにはお金も時間も必要で、美術界内部で成功するにはいろいろな出会いや運も必要だと考えられますが、その過程をモノポリー風のゲームにして観客が参加者となり誰が美術作家として一番成功するかを競う、というやけくそ気味の?「作品」(キュレーターマン「SUPER(M)ART」 横浜トリエンナーレ:2005年9月28日〜12月18日で現在金土日に実行中)さえあります。ちなみに私はこのゲームに参加、破産寸前のビリで、実生活の身につまされました。なぜか妻は銀メダルでしたが。 結局現代美術の楽しみとは、その作品を見たり経験することによって、普段見慣れた見方と全く別の見方を世の中に対して行なう切り口にできるかもしれない、というところにあるように感じます。皆さんも気軽に美術館や画廊に出かけて、自由にいろいろなことを感じ取ってみてはいかがでしょうか。


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