山岳民族の村

6月28日(木)

 タクシーでは一度トラブルがあったが、あれは旧市街で客待ちしているタクシーだった。ああいう観光客の集まるところで待ち受けているタクシーには、まま不良運転手がいるらしい。事情のわからない外国人を騙して、ひとつまきあげてやろう、などと考えている連中が。
 もっとも安全なのは、高級ホテルや高級レストランで呼んでもらうタクシーだそうだ。そういうところでは、トラブルのあった運転手は出入り禁止になるから。
 次いで安全なのは、流しのタクシー。これはまあ、実直に商売している人が多いようだ。車はボロで英語は通じないが。
 バイクタクシーは庶民の足となっているせいか、総じて安全なようだ。ただし、観光地で声をかけてくるような運転手は、タクシーと同様に信用ならない。シクロは既に実用でなくなっているせいか、論外である。

 どうやら、ベトナムで安全順位をつけると、
 ホテル、高級レストランで呼ぶタクシー>流しのタクシー>=バイクタクシー>>>客待ちのタクシー、バイクタクシー>>>>>>>>>シクロ
 となるようだ。

 バイクタクシーはホテル近辺や店の回りにたむろしていて、事前に値段の交渉をして乗る。数キロ程度の近距離の移動手段だが、タクシーより安く、二、三千ドンから利用できるので便利だ。もっとも私のような不精者にとっては、値段交渉がわずらわしい。よって相場の倍くらいの金額を手に持ち、
「ダイウーまで五千ドン、オーケー?」
 などと宣告して回る。結構な金額なので、断る人間は少ない。これが私のおのぼりさん処世術である。

 Kさんはハロン湾からの下痢がひどく、昨晩医師の往診を受けたそうだ。それほどの重症ではなく、医師は数種類の薬と、
「しばらく食べ物に気をつけて。魚介類とフルーツは避けてください。油を使った料理も注意して。しばらくはパンとスープがいいでしょう」
 という忠告を残していったらしい。
 Kさんはその忠告を守り、朝食ではばくばくばくとパンを五個ほど食べたという。守っているのやら、いないのやら。
 おまけにパンの陰にマンゴーとパパイアを隠して持ち帰ろうとし、それが露見すると、
「だって、食べたかったんだもん……」
 と涙をこぼしたという。
 ううむ、その食い物に寄せる執念、K一族はおそろしい。

 買い物など行くとまたKさんが興奮して身体に障るといけないので、とりあえずホーチミン関係を見物することにする。
 ホーチミン廟には行列を作って入る。銃剣を捧げた兵士がものものしい。帽子をかぶったりしていると、兵士に脱帽するよう促される。
 建物の内部は冷蔵保存のためか、非常に寒い。立ち止まることは許されず、ゆっくりと歩きながら、ガラスケースに囲まれた、ライトアップされた遺体を見る。ここまでして故人は保存を望んでいたのか。これがホーおじさんの遺志だったのか。とりあえず、次はカストロだな。レーニンをミイラにしたロシアの医師が狙っているぞ。
 ホーチミンの家は、意外と豪華な調度。これは私が思い違いしていたので、キムリェンにある貧乏だった生家ではなく、ハノイで大統領になったときの家なのだ。豪華なのは当然。どうもなんだか、ホーチミンというと山中でゲリラ活動ばっかりしている印象があって困る。
 ホーチミン博物館は、妙に近代的なオブジェを配列しようとして失敗している。それでもホーチミン関係の資料は、さすがに多い。
 おみやげはホーチミン絵はがき、一万ドン。ホーチミンペンダント、一万ドン。
 このペンダントが絶品であった。表はホーチミンの肖像、裏にホーチミンの有名な言葉「自由と独立ほど尊いものはない(KHONG CO GI QUYHON DOC LAP TUDO)」を彫りつけているのだが、その「DOC LAP」という言葉が間違って「BOC LAP」となっているのだ。日本なら昭和天皇の御製の字を間違えて、しかもそれを靖国神社で販売するようなものだろうか。こんなものを偉人の記念館で発売している、ベトナム人のアバウトさほど尊いものはない。
 ホーチミン絵はがきの一枚もみょうに面白い。

ホーおじさんは毎朝鍛錬を欠かしません

 相方はハノイ婦人会と会食があるということなので、昼食はKさんと出かける。Kさんの体調もあるので軽くすませる。ナスの挽き肉辛煮込み、ソフトシェルクラブが美味い。豚肉のサテみたいなのはちょっとハズレ。Kさん、こっそりと禁じられているソフトシェルクラブをひとつ食べていた。

 そこからぼちぼちと買い物。
 まずハノイ随一という規模の、ドンスアン市場へ行く。あまり活気がなく面白くなかった。改装してから客足がいまいちらしい。食い物系はあまり見あたらず、一階は雑貨系、二階は服地・洋服系の品揃え。
 ワールドカップ帽子だとかシャネル帽子だとか、変な帽子があったのだが、サイズが小さくてかぶれなかったので断念。ベトナム人の頭は小さいらしい。Kさんの聞いた噂によると、リバーシブル帽子で、表にナイキ、裏にグッチのマークがついた帽子も売っているそうだが、それは見つからなかった。
 けっきょく買ったのは、香港映画風の妙な写真のカンペンケース(五千ドン)と、京劇風の妙な写真のノート(五千ドン)のみ。しかも店員が間違えたらしく、帰国して確認したらカンペンケースはガンダムの絵柄だった。それも聞いたこともない、アルトロンガンダムとかいう名前。これもパチモンアニメかもしれない。
 次にハンザ市場へ。バチャン陶器の店で、小さな茶器セット(四万五千ドン)とミニチュア紅茶セット(三万ドン)。
 コブラと朝鮮人参のあやしげな酒を七万ドン。もうひとつ大きいサイズの十万ドンの酒には、コブラに加えキノボリミドリヘビが入っているのだが、遠慮しておいた。
 あとルアモイに似た、ネプモイとかいう甘い酒を二万ドンで購入。
 さらに地獄市場へ。Kさんにバナナの花(タケノコみたい)を見せるのと、犬のヒラキを見せるのが目的だったのだが、Kさん、犬に気づかなかったそうだ。あんなに並んでいたのに。
 ここでネムチュア(発酵豚肉ハム)を購入。二千ドン。これは見た目はでかいが、バナナの葉で厳重にぐるぐるまきしているので、本体は小さい。ハムとサラミとスパムの中間の歯触りで、かじると酸っぱい。Kさんはマンゴスチン二個を一万ドンで買っていた。ボラれたかしらん。
 地獄市場の隣のハノイタワーの裏にあるワインショップで、明日から出かけるサパで飲むワインを購入。二本で四十ドル。
 最後に本屋へ。ベトナム会話入門三万六千ドン、ベトナム語辞書二万ドン、ドラえもんや王家の紋章などの日本漫画が六千ドン、料理カードが一セット十枚で六千ドン。
 実はこの辞書、使えなかった。単語がアルファベット順でなくジャンル別に並んでいてひきにくいし、なぜか「豚」という単語が、ベトナム語でも日本語でも見あたらないのだ。イスラム教徒向けの辞書だったのか、それとも林真理子が編纂したのか。

 店をうろつきすぎて疲れたので、ホアンキエム湖をうろつく。
 湖の中島には亀の祠がある。二メートルを越える巨大なスッポンの剥製が飾っているのだが、本物なのかしらん。
 お堂の脇にあるハヌマーンのような神像は、なんでやねんと言いたくなるくらいひょうきんな表情。

巨大神亀

 夕食はODA団体のベトナム人職員たちとビアホイヘ行く。
 とはいっても冷えたビールがジョッキで出てくる、けっこう高級店。空芯菜の炒めもの、タニシのピリ辛炒め(茹でタニシはなかったのが残念)、揚げ豆腐(日本のよりさっぱりしている)、カインチュア(ライギョの酸っぱいスープ。食欲が進む。淡泊)、牛肉と野菜炒め(牛肉が柔らかい)などなど。
 ベトナムの店ではおしぼりが出てくるが、これはすべて有料。ビニール袋を開けると料金に加算される。使わなければ料金に加算されない。そのせいか、袋をねじったり叩いたりして、パーンと景気のいい音を立てるのがマナーだという。日本でも昭和三十年代までそういう風習があって、それ以降は下品だというので下火になっていたが、ベトナムではまだ残っているのね。
 いい気持ちに酔っ払い、英語の堪能なベトナム人運転手と、怪しげな英語で盛り上がる。「ヘーイ、ブラザー」「なんだい?」「素晴らしいお前たちのために、もう一度乾杯しよう!」「よっしゃ。でもビールがないぞ」「そんなもの、また頼めばよろしい」「がってん承知のすけ」「よーし」「ええと、ベトナム語で乾杯は、どう言えばいいのだ?」「もう十回も教えたぞ。チプスクゥェ」「よーし、チペクゥェ!」「それはコンゴの未確認巨大生物だ。チプスクゥェ!」「ちび救え!」「ちび万歳!」「ずん胴も万歳!」「ズンドウって何だ?」「日本語でナイスバディのことだ」「そうか、ズンドウ、ブラボー!」「沙希ちゃん万歳!」てな具合。
 翌日は二日酔い。あたりまえだ。

6月29日(金)

 ハノイ最終日。
 電話で起こされる。時計を見ると、もう九時をとうに過ぎているではないか。あわてて荷物をかき集め、十時にチェックアウトし、ダイウーへ向かう。
 とうぜん朝食抜きだが、相方とKさんはきっちり朝食をとったらしい。えらいぞ。Kさんはまたトーストの下にパパイアを隠して食べようとしたらしい。えらくないぞ。
 相方は前のお手伝いさんと運転手に挨拶してくるということで、先に出かける。昼過ぎにハンザ市場で待ち合わせる約束をして、私とKさんはオペラというレストランへ。
 中国系の金持ちの邸宅を模したつくりで、庭園があり随所に鳥かごで小鳥がさえずっている。生春巻き、カニとハスの実の炊き込みごはんなど、上品で繊細な味。二人で二十三万ドンくらい。

 食事に手間取ったので、ハンザ市場の待ち合わせに遅れてしまった。慌ててタクシーに乗ったが、待ち合わせの場所に相方はいない。ぼんやりしていると、きのう陶器を買った店のおばさんが手招きする。どうやら、おばさんに伝言をしてどこかへ行ったらしい。電話機を渡してくれたので聞いてみると、留学生だったTさんの声だった。近くでメシを食っているので、これから迎えに行くとのこと。
 ほっとしてあたりを見回すと、今度はKさんがいない。しもうた、今度は迷子か。やってきたTさんと一緒にあちこち探すと、奥の陶器屋で茶碗を物色するKさんの姿が。しかも横にはおばちゃんが電卓をかまえて、もはや値段交渉などしている。こうなったら止められる者はいない。Kさんの物欲神がモノによって慰められるまでは。

 ようやく相方一行と合流し、ハンザ市場へ戻る。今度は食材の購入である。
 私はネムトムという臭い汁と、ライスペーパーを買う。
 私の買い物はそんなものだが、相方の買い物はむろんのこと、そんな生やさしい、素人っぽい、並の買い物ではない。業者の購入もかくやというか、いやいや業者だってこんなには買わないというか、あんたまたトランクを壊れんばかりにはちきらせたいのかというか。
 まず米を吟味したあげくキロ単位で購入。次にライスペーパー。サイズと材質が違う、四種類くらいのペーパーを、買い占めんばかりの勢いで買う。いや実際に、ひとつの店では足りず、五つほどの店をハシゴして買い付けて回ったのだ。
 これには日本留学時代、相方の性癖を熟知していたTさんもさすがに呆れ、
「春巻き屋さんを開店したら、ぜひ呼んでください」
 と笑っていた。

 戦闘のような買い物もようやく集結し、戦いに疲れた兵士たちはチェーを食いに行く。チェーはかき氷に小豆、ハスの実、ココナツ、干しあんず、ゼリー、牛皮のようなものを入れて、コンデンスミルクのようなものをぶちまけ、かき混ぜて食う。見た目より甘くはない。私はちょっと腹が冷えてきたので、半分くらい残す。

 そこからKさんと私はタクシーで帰る。相方は市場でさらに果物だとか乾物だとか買い込んだあげく、バイクタクシーで帰ってきた。バイクタクシー、好きだなあ。
 ハノイの排気ガスで喉をやられ、鼻水が止まらない状態だというのに、それでも相方はバイクに乗る。無謀としかいいようがない。腹をこわしているのに食うのをやめられないKさんと、いい勝負である。ま、人それぞれ、やむにやまれぬ業があるということか。
 剣士は戦わねばならぬ。詩人は歌わねばならぬ。相方はバイクに乗らねばならぬ。Kさんは食わねばならぬ。そして私は、飲まねばならぬ。

 夕方はサパ出発に向けての準備作業。私とKさんはすでに終わっているが、相方ひとり孤軍奮闘。けっきょく全部終わらず、夕食後まで持ち越し。
 夕食はダイウー二階の中華レストランで、運転手のTさんや日本人留学生のIさんと食事。スペアリブの蒸しものがおいしかった。体調のせいか、マーボ茄子は前より油っこかったような気が。
 夕食時間が押してしまい、チェックアウトが九時前。九時半には列車が出発するのだ。急がねば。というか、間に合うのか。

 じりじりしながらチェックアウトの計算を待っている私に対し、相方が爆弾発言。
「サパツアーのチケット、持っているわね?」
「へ?」
「昼ごろ渡したでしょ。持っててって」
「あ、あれ、レシートじゃないのか?」
「違うわよ! あれがないと列車にも乗れないんだからね」
「ううむ、どこかに入れたという記憶は確かにあるのだが、どこに入れたのやら……」
 相方の出足の遅さと私の保管能力の低さが合体すると天下無敵で、サパ行きツアーのチケットをどこにしまったかわからなくなってしまったのである。
 パニックに陥りながらも、すべてのカバンの全てのポケットを探すがわからぬ。パニックに陥っているのでますますわからぬ。こうしている間にも、ああ列車の発車時刻は刻々と迫る。
 やむなく、預けていくつもりの荷物も持ち込み、タクシーの中で汗を垂らしながらかき回す。とほほ、なんの因果でヘビ酒とかベトナム語版王家の紋章までサパに持ち込まなあかんねん。
 結局、チケットはワインを入れた紙袋の中から発見された。

 ハノイ駅にタクシーが止まったときには、時刻は九時半を過ぎていた。お釣りも受け取らず車からダッシュ。重い荷物をかかえ、駅構内を右に左に駆け回る。駅にいたベトナム人からしたら、えらく迷惑だったろう。殺気立った日本人が大荷物をあちこちにぶつけながら、駆け足でどたどた走っていたのだから。ま、日本の通勤ラッシュではありふれた光景ですから。
 駅の入り口からもっとも離れたホームから、いまにも発車せんとする列車に飛び込んだときには、安堵と疲労でしゃがみこんでしまった。四十近いジジイには過酷な経験である。おかげで神経性の下痢をおこしてしまった。いやまあ、列車の冷房が利きすぎていたせいもあるのだが。

 サパ行きのガイドの男性はスペイン人だそうだが、私にはイタリア人としか思えなかった。なんとなればやや小柄、細身、陽気で、やけに巻き舌の英語を操る彼は、私が思い描いている典型的イタリア人そのものだったからである。ピーター・フランクルという、数学者兼大道芸人がいるが、それに似ていなくもない。
 かつて作家だった阿川弘之の語るところによれば、故遠藤周作はフランス語は堪能だがイタリア語は知らず、フランス語の語尾にOをつけるとイタリア語になるものと信じていて、イタリア旅行で女性が出迎えると、
「オゥ、トレビアーノ、イタリアーノ、マドモアゼーロ!」
 と叫び、街角でアイスクリーム売りに
「アイソ・クリーモ!」
 と語りかけたそうだ。その真偽は知らぬ。
 しかし、それを思い出させるようなガイドの英語だった。我々が遅刻したことを謝ると、大仰な笑顔で、
「ノー、プロブレーモ!」
 などと声高らかに宣言するのである。なぜかそれが、ベトナム人の英語よりわかりやすい。

 ビクトリア・サパの特別車両は四人ずつのコンパートメントになっていて、ちょっと狭いが清潔で快適。二人のコンパートメントもあって、それは新婚さん専用。
 食堂車でくつろぐこともできるが、列車の横揺れがよくなかったのか、ビール半分で酔ってしまった。早々にベッドで横になる。横になれば列車の振動も睡眠を誘う快適なもの。朝の五時まで、ぐっすり寝た。

6月30日(土)

 五時半にラオカイの駅につく。ラオカイは中国国境付近のターミナル。そのまま電車に乗ってゆけば、四時間ほどで中国の昆明につく。ベトミンがフランス支配に抗して戦っていたころは、このルートで中国から援助物資が送られてきた。ホーチミンもかつてこのルートで中国からハノイにやってきた。そのためか、意外と大きくてきれいな駅。
 ラオカイからマイクロバスに乗り換え、山道を通ってサパまで一時間あまり。山道とはいえ、ちゃんと舗装してある。「サパまで何キロ」という標識が、一キロごとに立っている。ベトナム政府の威光か、観光政策上かはわからないが。

 バスの中では、相方がわれわれに対してこれから行くホテル、サパの風景、山岳民族などについて詳細なブリーフィングを与えてくれる。この先、どんな街があって、どんなホテルで、どんな人々がいて、どういうことがあるか、それはもう微に入り細をうがって。
 相方のガイドとしての欠点のひとつは、これから行くところについてあまりに多くの情報を与えてくれるところである。そのため、未知の土地を訪れたときに味わう感激のあらかたは失われてしまう。
 これに対抗するには、Kさんのように、「うんうん、そうだね」などと相槌を打ちながら、実はまったく聞いていない、という方法も有効かもしれない。

 山道を走り、だんだんと高度を上昇させてゆくと霧がでてきた。徐々に濃くなっていき、ついには山々の半分が隠される神秘的な情景となってきた。
 唐突だが、ディンビエンフーでフランス軍を悩ませた濃霧も、こんなものかもしれない。ちなみにディエンビエンフーはここサパの南西百五十キロのところにある、似たような山岳地帯。
 ベトナム全土にわたって、ベトミンからベトナム戦争の呪縛を逃れることはできない。ちなみに先日行った「海の桂林」ことハロン湾も、ベトナム戦争の重要な補給基地で、さんざん空爆を受けたハイフォンの隣にある。

山岳の霧

霧隠す峰に如何なる神宿る
         虎玉

 そんな高い山でも人が住み、段々畑をつくって耕作を行っている。段々畑ならともかく、山地に鱗のように水田を作っているのには驚いた。
 いちどコメの味を知った民族は、けっして他の主食には変更しない、と聞くが、やはりこれもコメの魔力か。

段々田

 ほかには斜面に、麻だとかトウモロコシだとかを育てている。家の前に棚を作って、そこから小さなカボチャを垂らしてもいる。
 バスが走っていると、ときおり民族衣装を着た山岳民族とゆきかう。みなきわめて愛想がよく、笑顔で手を振って「ハロー」などと叫ぶ。どうして観光客ずれしているのである。道端では水牛が草を食っていたり、ちっこい黒豚がちょこちょこ歩いていたり、チャボみたいなこれもちっこい鶏が歩いていたり。大型の黄褐色の羽根をした蝶が、そこここでふわふわと漂うように飛んでいたり。ヨシキリのような小さな鳥が、トウモロコシの茎をゆきかっていた。
 七時ごろビクトリア・サパに到着。このホテルのマスコットらしい黒豚の親子が、庭で散歩している。横腹にホテルのマークが烙印されている。

ビクトリアサパの豚

 とりあえず軽く、朝食をとる。いや、私は軽かったが、相方は私の倍、腹痛も癒えていまや元気いっぱいのKさんは、私のたっぷり四倍は食べていた。「これ、もう食べても大丈夫だもん」とこれみよがしに見せつけるパパイア、マンゴー、スイカ、ジャックフルーツ。そしてヨーグルトと各種とりどりのパン。ベーコンとハムとサラダ。それらを食べているKさんの笑顔は、じつに幸せそうであった。CMに使えそうだ。
 翌日は午後まで自由時間だということなので、近くの村を訪ねるミニツアーを予約。ジープの運転手を雇って二十五ドル、ガイドは二十ドルということなので、運転手だけ雇う。
 さすが高級ホテルだけのことはあって、コテージ風の清潔な部屋。冷房がないのだが、この地は標高千五百メートル、夏でも冷涼なので冷房は不要なのだそうだ。たしかに、直射日光を浴びさえしなければ涼しい。

サパの街ビクトリア・サパ

 相方とKさんは街に出るというが、私は失礼して部屋でゆっくりとする。午後からトレッキングなのだ。老残の身としては、身体をいたわらねばならぬ。
 シャワーを浴びてうとうとと寝ていると、街に出たふたりが勝手に部屋に入ってきた。ドアはロックしているはずなのに、と思ったが、連絡通路のようなドアが別にあったのだ。よく密室トリックで使われるやつだ。
 相方は刺繍をした長い帯のような布地を五万ドンで買ってきていた。これのスソをかがってクッションにしたり、パッチワークに使ったりするとか。

 二時からトレッキング。ホテルからマイクロバスに乗って十キロほど走り、モン族という山岳民族の住む村を訪れ、そこからザオ族という山岳民族の村まで七キロほど歩くというスケジュールらしい。
 しかし村までの山道が恐ろしい。バス一台通るのがやっとという広さである。道のむこうにはガードレールもなにもない。いきなり断崖絶壁である。ところどころ柵が申し訳程度にあるが、あんなものバスの重量からしたら屁でもない。運転手がハンドルを切り間違えば、即転落即死即成仏間違いなし。
「ベトナム北部の山道で観光ツアーバス転落。邦人三人を含む乗客乗務員十四人、全員死亡」などという新聞の見出しが頭をよぎる。
 しかしもっと恐ろしいことは、そのバスの横、断崖絶壁とのわずかな隙間を駆け抜けてゆく少年が何人もいたことである。おまえらそんなに金が欲しいか。金のためなら命は惜しくないのか。
 さらに怖ろしいことには、その断崖絶壁にトウモロコシを植えていたのである。あれはどうやって植え付けたのか、どうやって収穫するのか、今となっても定かではない。山岳民族は高所とか断崖とかいうものに対する感覚がわれわれと違うとしか思えない。

 恐怖のドライブを終え、生きて大地に降り立ったわれわれは、田んぼと田んぼの間のあぜ道を歩き出す。あいにくと天気が悪く、小雨混じりだったが、涼しかったのでかえってよかった。しかし足元がぬかるむ。
 民族衣装を着た少女が布、シャツ、腕輪などを売りつけにくるが、それほどしつこくはない。二回ほど断ると、別なカモを求めて走ってゆく。やはり観光客慣れしていて、あまりしつこくすると嫌われるなどと計算しているのかもしれない。
 どうやら民族衣装を着た人間だけが観光客に接客できる、という内規があるらしく、貧しくて民族衣装が買えないのか、汚れたシャツを着た少女は、もの欲しげに一行を見送るのみである。

山岳の村

 稲作民族というのは水田を見ると心なごんでしまうところがあるのか、この村もなんだか居心地がよさそうに思えてしまう。
 田んぼの上をとびかうトンボ。庭先を歩くニワトリと子豚。竹で作った水路を、ちょろちょろと流れる水。田んぼをのぞき込むと、逃げていく蛙とアメンボ。水路で回る水車。見たこともないくせに、なぜだか懐かしく思えてしまう風景に満ちあふれている。
 あんまり居心地がよさそうなので、ついついこの村に住んでみたくもなるのだが、万が一それが実現したら、なんだかんだと布やら腕輪やら服やらを山のように相場の五倍で買い込まされたあげく、三日で金が尽きて放り出されるのがオチだろう。現実は厳しい。

 ところどころ雨に降られたりもしたが、つつがなくトレッキングは終わり、ホテルに帰ってきた。帰途は私の側が山側なので、断崖絶壁におびえることもなかった。
 とりあえずマッサージを予約した時間が近いというので、Kさんに私の部屋の浴室を使ってもらった。
 そこで、凄いことが起こったらしい。ほどなく浴室から「ひゃあ」とか「きゃあ」とか奇声がきこえてきたかと思うと、しばらく物凄い水音が続いた。食習慣のこともあるし、K一族は風呂場で陽気に騒ぐ家風なのかもしれない、とその場は納得したのだが、あとで浴室に入って仰天した。なぜか浴室の床がじっとり濡れそぼり、二つあったバスタオルはすべて使用不能なまでにびしょ濡れになっていた。Kさんはカッパの化身かもしれない。さすが大人物である。

 夕食はホテルのコース。まあ、なんということもない洋風料理である。
 テレビ局が来ていたからか、ホテルのアトラクションか、民族衣装の少年少女が六人ほど来て歌や演奏を披露する。
 まず少年が、竹製の簫のような楽器を吹く。それも踊ったりジャンプしたりしながら。しまいにはでんぐり返ししたりコサックダンスしたり一本足でぐるぐる旋回したりしながら吹く。苦しそうだ。そんなに苦しいなら、吹く方に専念した方がいいのにと他人事ながら気を揉む。
 つぎに少女が進み出て、歌をうたう。これもでんぐり返しするのかと期待して見ていたが、こちらは直立して歌っていた。発声法が独特で、普通のコーラスのように歌っていたかと思うと、必ず最後に喉を鳴らして、サザエさんがお菓子を呑み込むような音を発して落とす。
 最後に全員で、ラブ・マーケットで歌うとかいう男女の掛け合い歌を歌った。やはり女性は喉を鳴らす。これに幻滅する男性とかいないのだろうか。

 夕食後、サパの中心街を散歩。九時を過ぎていたためか、やや人通りも少なくなった。店も半分くらい閉まっていた。
 名高いラブ・マーケットは、もう実際には存在していない。若者風俗はどの国でもうつろいやすい。しかたのないことだ。いま原宿で竹の子族を見せてくれと言われたら、私だって困る。
 うつろいやすい愛のほうは早々に諦めて、ホテルでうつろわない酒を飲む。ハノイで十五ドルで買ったブルゴーニュの赤「Bouchard Aine&Fils 98」は、かすかに馬の鞍の香りがする。味ははじめ頼りなかったが、注いでしばらくすると甘みと渋みが開いて濃くなってくる。二十五ドルの「Chateau Duluc Saint Julien 97」は、ややスパイシーな香り。甘みと渋みのバランスがほどよいが、注いでしばらくすると味が抜け、さらにしばらく置くとまた味が戻るという奇妙な酒。

7月1日(日)

 ワインを飲み過ぎ、すっかり寝坊。八時半に目覚め、あわてて身支度をして九時に出発。チャーターしたジープはすでに来ていた。
 このジープがとんでもない時代物で、あきれるほど揺れる。胃が口から飛び出してしまいそうだ。慌てていたので朝食を抜いたことを、私は神に感謝した。

田んぼ

 今回の黒モン族の村は、昨日の村よりも平地にある。それだけに日本の田舎風景に、ますますよく似ている。雑草が生い茂った田舎道を、赤とんぼ、イトトンボ、ハンミョウ、紫の羽根の蝶などがとびかう。駐車場からずっと、女の子がひとり、道をついてくる。どうやら物を売りつけたいらしいが。
 しばらく田んぼが続く道を歩くと、竹で作った門がある。そこが村の入り口らしい。女の子が門をあけてくれる。

黒モン族の村

 中は清里か蒜山の牧場のように、なだらかな丘に丈の短い牧草がいちめんに生えている。そこで黒豚や子犬がちょこちょこ走り、馬が草をはんでいる。ところどころに背の低い屋根の家が建っている。
 そこからしばらく歩くと、村はずれに洞窟がある。まあ、穴ぼこ、というのに近い、ちゃちなものだが。中はまったく暗く、懐中電灯が役に立った。なぜか洞窟の中に、えたいの知れない獣骨がころがっていたのが不気味。
 帰途もずっと女の子がついてくる。最後に腕飾りを買い、ガイド料こみでいくばくかの金を相方が渡していた。

子犬と子豚 豚の親子

 昼食はチーズフォンデュ。二人前で三十ドルということだが、三人でも食べきれない。チーズ、パン、ジャガイモ、ハム等いずれも美味。アスパラガスをハムで巻き、チーズに浸して食べるのがもっとも美味だった。
 午後四時にチェックアウトすると聞いていたのだが、突如として出発が六時に変更になる。
 もはや外に出る気にもならぬ。少数民族の村で買ったラオカイビールと昆明ビールを飲んでくつろぐ。昆明ビールはひねた酸っぱい味。ラオカイビールは青島ビールに似た甘口。
 帰りまぎわにロビーにたむろする民族衣装の女性から、小さな飾り帽子を買う。四万ドンというので、値切りの最初のつもりで二万ドンというと、あっさりその値段で承知したので拍子抜け。私は商売人の永遠のカモだ。

 マイクロバスでラオカイに戻る。だんだんと下界に降りるにしたがって蒸し暑い南国の気候が甦り、さらに埃も甦り、ひどく咳込んでしまう。もしかしたらアレルギーになったかもしれない。
 ラオカイ駅でビクトリアエクスプレスに乗り込むが、出発までまだ間がある。あまり腹も減っていないが、ちょっと水とビールとパンでも買ってくるつもりで、Kさんを留守番に残し駅前へ出る。
 ここで屋台の雰囲気についつられ、ブンボーを食う。春雨のような丸い麺に牛肉の細切れが浮いている。スープは美味。駅前のラーメン屋にしてはなかなか。でもこのスープを作る努力を、麺のほうにも生かしてくれないかなあ、と、ハノイでもずっと思っていた。フォーにしろ、スープは各店味を競っているのに、麺はどこも同じメーカー製品だと聞いた。なぜ麺を自分で作ろうとしないのだ。
 しかし、ここで晩飯を食ってしまったことはまずかった。
 列車に戻り、Kさんにビールを渡す。
「あれ、食べ物買ってこなかったの?」
「うん、ちょっと駅でソバを……」
「ぇっ!」
 まずい。Kさんの顔色がさっと変わった。慌てて口をつぐんだが、すでに出てしまった言葉はどうにもならぬ。
 Kさん、自分だけすっぽかされてしまったことで、本気で腹を立ててしまった。ひたすら平謝りするが、されど食い物の恨みは恐ろしく、特にKさんの食い物の恨みは、八つ墓の祟りよりも恐ろしい。勘気はどうしても解けぬ。口もきいてくれない。
 気まずい雰囲気を漂わせつつビクトリアエクスプレスは進む。


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