最後のサイゴン

7月2日(月)

 ビクトリアエクスプレスは、五時過ぎにハノイ駅へ到着。
 Kさんの怒りはいまだおさまらない。きょう帰国予定だが、ホテルで休まずに駅前で飯を食って、そのまま空港へ行くという。とにかく飯だけは忘れないのね。
 彼女がぶじ日本に帰りますように。
 そしてどこかでおいしいものを食べて、今の怒りを忘れてくれますように。

 残された二人はタクシーを探すが、駅前は自転車やらバイクやらでえらい混雑。日本の駅前無断駐輪どころの騒ぎではない。四輪などとても近づけそうにない。
 やむなくシクロを雇い、ダイウーホテルへ。シクロはどうも好きになれない。初回のこともあるが、なんだか原住民を搾取している植民地人になったような気がして、気後れするのだ。正当な商行為にすぎない、と納得していても、なんかやなんだよなあ。このへんが「Noと言えない」「自虐的な」日本人の性質なのだろうか。ただしこんな自分を、弱気だとは思うが、はずかしいとは思わない。<ジャイアント馬場談

 ホテルの部屋に入ったとたん、引きずり込まれるような眠気に襲われ、十一時頃まで死んだように寝る。我ながらスタミナがない。
 昨日まで一緒だった、ガンガンと飯を食って、いつまでも陽気に元気に動き回っていた欧米人観光客と比べると、自分が情けない。欧米人には及ばないものの、まだ喉の調子が悪い、鼻水が出る、などとぼやきながらも、元気に知人と連絡をとりあい、最後にホアンキエムをバイクで一周してくる、といって出ていった相方に比べてもやはり情けない。やはりメシの量の差なのか。
 アジアを旅する毛唐どもを見ていて思うのだが、根拠もなしにアジア人より自分が上等だと思っている意味もない優越感には腹が立つものの、あの際限もない食欲と限りなきバイタリティには脱帽せざるを得ない。
 自虐史観の克服、などとお題目は唱えているものの、教科書問題の連中も、ああいう西欧人みたいになりたい、という願望が根底にあるのではないかしら。肉食ったらああなれるのかしら。ガツガツ食ったらああなれるのかしら。トンカツ毎日食ったらああなれるのかしら。自国の歴史を反省しなかったらああなれるのかしら。なりたくないけど。

 もっとも連中はアジアでは目立つから、どこに行っても注目され物売りや乞食が殺到しぼったくられる運命にある。これも優越人種の宿命で、やむを得ない。偉そうにもしていないのにぼったくられる私に比べれば、まだましか。
 司馬遼太郎が「人間の集団について」で書いていたような、純朴でスレてなくて優しいベトナム人、というのは、一介の観光客が会えるようなものではない。それはよほどの田舎で、その地域の信頼をかちえている人間の案内でいく場合のみ、会える人種だろう。そうでない場合、観光客が会えるのは、観光地のぼったくり客引きと、田舎の排他的なまなざしだけだ。
 もしも欧米人が国際空港からある程度近い範囲で、しかもある程度英語が通じ、しかも、「観光客ズレしていなくて、純朴で、優しい人々」に会いたいのなら、日本へ行くべきだと、私は最近思っている。
 「外人さん」を歓待し、もの珍しがり、優しくしてくれ、しかも金をむしり取ろうとはしない、そんな人間は、もはやアジアでも日本人しかいないのではないだろうか。

 ベトナムはいたるところに客引きがいる。ハノイの旧市街では菅笠やハノイ帽という軍帽みたいなのを売りつけに来るし、ホアンキエム湖やレーニン像の前では、絵はがきはいらんか、シクロで観光しないか、などとわれわれを追跡する。そこらの屋台で飲んでいると靴磨きをしないか、と年端もいかぬ少年が寄ってきて、俺はサンダルだと足を見せても、それでも磨かせて、とさらにすり寄ってくる。サパでは民族衣装の少女たちが布やらシャツやら腕飾りやらを売りに来る。こういうのがうっとおしく感じる人はいるだろうし、私が第一にそうだ。
 しかしこれは日本でも最近まであった。「駅前旅館」の時代までさかのぼらなくても、私の小学生時代ころには白浜や有馬で旅館の客引きがたむろしていたし、同じ頃まで土産物屋の客引きもいた。これが消滅したのは、民度の向上によるものではなく、経済的事情による。要するに人件費が高騰して、日に五人や十人の客を引いてきたくらいではモトが取れなくなったのだ。
 だから今の日本の客引きは、もっと高収益の見込まれる、ハイリターンの業種に限られている。歌舞伎町の暴力バー、英会話教材やレジャー会員、絵画や壺などの販売など。こういう客引きに捕まると、安くて十万、たいがいは百万単位でぼったくられる。これに比べると、ベトナムの客引きなどかわいいものだ。相場の十倍といっても、要するに絵はがきを十枚五ドル、菅笠を五ドルで売りつけられるくらいなのだから。ただしシクロはやめたほうがいい。やめなさい。やめろ。

 などと偉そうなことを考えているうちにも、相方は鼻水を垂らしながらもバイクで走り回り、数多い知人と別れを惜しんでいたらしい。見送りに来てくれた元運転手のTさん、元家政婦のHさんと最後の別れを惜しみ、一時過ぎにドンコイ空港へ。気流の関係で遅れているとかで、三時ごろやっと飛行機が出発。
 この空港はつい最近リニューアルされたそうだが、それでもまだ空港ビルと飛行機入り口が繋がれておらず、タラップから乗り込む方式。考えてみれば、タラップなんて久しぶりだな。厚木から降り立ったマッカーサー元帥か、ワールド・リーグ戦に来日した外国人プロレスラーにでもなったような気分。
 なぜか今回のホーチミン行きの便は、フランス人団体観光客が多く乗っていた。団体客のマナーの悪さは、洋の東西を問わない。陽気なのはいいんだけど、おしぼり投げなんかするなよ。ガキじゃないんだから。

 五時過ぎにホーチミン空港に到着。「メーターか?」「メーターだよな?」「ドンだよな、ベトナムの?」としつこく聞きただし、市内まで五ドルでどうだ、などという誘いにもめげずタクシーに乗り込む。ホーチミンの空港ではこのくらいしなければ何をされるかわかったものではないという。
 乗り込んでからも相方は油断なく目を外に向け、変なところに拉致されようとしていないか、順路を確認している。私はなにしろ方向音痴のうえ最初の土地(一晩だけ滞在はしたものの)なので、カンボジアに連れていかれようがラオスに連れていかれようが分かるものではない。運転手の良心に全てをゆだねるのみ。
 さいわい善良な運転手だったらしく、ちょっと遠回りされただけで、無事にソフィテルプラザサイゴンに到着。

 いつもながらこのホテルは高級だ。特にトイレの得点が高い。
 ふつう西洋式ホテルのトイレは、かなりな高級ホテルでもトイレットペーパーが妙な位置に設置してあって、身体を斜め後方にねじるような運動をしなければペーパーが取れないことが多い。ときに脇腹がつることもある。しかしここは、しゃがんで手を伸ばす自然な位置にペーパーホルダーが設置してあって、安心して用が足せる。
 部屋には、このホテルの支配人であるMさんからの花束と、心尽くしのプレゼントが置いてあって恐縮する。

ソフィテルプラザのトイレ

 さっそく連絡を取り、七時半からそのMさんと食事。
 Mさんはフランスからベトナム、モロッコからカンボジアと世界を渡り歩くホテルウーマンで、その実力とバイタリティは折り紙付きだ。しかも行く先々で恋人を作っているという船乗りのような豪の者である。
 仕事には情熱的かつ冷徹であることでも有名らしい。彼女に冷ややかな口調で、
「そういうことなら、私のホテルで勤めてもらうわけにはいきませんね」
 と言われると、パリ仕込みのベテランシェフでも震えあがるという。ホテルで指を鳴らしてウェイトレスやポーターを呼び注意を与えていたのを見たが、呼ばれた方はあきらかにおびえていた。まるで古参の軍曹に対する新兵さんのような。
 しかしその外見は、小柄でキュートな日本女性。南国生活が長いので色は黒いが。ちなみにベトナムでは色が白いことが美の基準らしく、相方はいたるところで日本人、ベトナム人を問わず、「白いねー」「白い」「やっぱり日本だと白くなるねー」と賞賛をあつめていた。もっとも、それ以外に誉める箇所がなかったからという可能性もあるが。

 そのMさんの案内で、ハイバーチュン通りの近くにあるレストランへ行く。中庭にテーブルを出して、ちょっとパリのカフェのような雰囲気。小綺麗で安くて、なにより料理が美味しい。ガイドブックにも出ておらず、地元の人が秘密にしているレストランだそうだ。
 今回はその禁を破って全世界へ公開してやろうと思ったのだが、あいにくと方向音痴と記憶障害のため、場所も店名もろくに覚えていないのは返す返すもざんねんなことだ。ただハイバーチュン通りをホテルから北に行ったあたりということと、店の名前がリエンとかリエイとか、そういう名前だったような気がする、ということだけだ。さあ、これで行けますか。
 蛤の潮汁と肉詰めタニシ、海老のフリッター、牛肉と空芯菜の炒めもの、炒め海老のコーラソース、いずれも美味なのでおためしあれ。特に最後の料理は、ご飯にかけて食べると甘辛くて海老がぱりぱりして、ちょうど天丼のような味わいになる。ぜひおためしあれ。

 食後に「マヤ」という中南米風のバーへ。カクテルは高いわりにたいしたことはない。高い、といっても一杯五万ドンだから、五百円以下だが。
 マティーニを頼むと、ぎんなんの串揚げのように楊枝にオリーブをいくつも串刺しにしてグラスにほうりこんできた。たしか007の映画だと思うが、赤ん坊の拳のようなでかいオリーブを入れたマティーニを出されたボンドが、「こんなでかいオリーブで酒の量をケチるつもりか」と苦情を言うシーンを思い出してしまった。

7月3日(火)

 飲み過ぎたので、やはり寝過ごす。
 起きたら相方の書き置きがあった。鼻水が止まらないので病院に行くということ。不謹慎な言い方ではあるが、けっこうみんな、海外旅行保険のモト取っているなあ。

 ということで単独行動。ホテルからバイクタクシーで戦争証跡博物館へ。
 ホテル前に止めているバイクならやや安全だろう、と呼び止め、「ナムギン(五千ドン)」と馬鹿のひとつ覚えで言うが、首を振ってなにか言う。とっさに出てくるベトナム語の数字といえば「ナムギン」しか憶えていなかったので、いきなり英語で値段交渉へ。これで勝ち目があるわけもなく、けっきょく八千ドンで妥結。
 乗り込むと、いきなりバイクが思っているのと逆の方向に走り出す。やばい、また拉致られたか、と慌てて運転手の肩を叩き、逆だ、逆だと叫ぶのだが、いやこっちの方向だよ、と運転手は涼しい顔。
 これは運転手が正しいので、やはり私が方角を逆に覚えていたのだった。方向音痴の私とプロドライバーでは、どちらが正しいかいうまでもない。

 戦争証跡博物館は、なにやらものものしい建物。ベトナム語の看板しか出していないので、しばらくまごつく。入場料は一万ドン。日本語のパンフレットを渡される。パンフレットは数カ国分あるらしい。看板も数カ国書けばいいのに。
 庭にはベトナム戦争で使われた戦闘機、戦車、高射砲、ロケット砲などが安置してあり、建物の中には戦争の写真、書類、などなどが展示してある。各国の写真家による報道写真も多数展示しており、日本人では石川文洋、沢田教一などがあった。
 石川文洋の写真は、あの有名な川をわたる親子の隣に、本人の写真入り身分証明書が展示されている。まるでその事件の犯人のようだ。
 沢田教一はひとつの独立ブースで展示され、ここだけ日本語の説明文があった。こういう扱いを受けている写真家は他にはいない。世界一のベトナム写真家として認められたということか。

 展示の中でもっとも有名かつ悲惨なのは、枯葉剤による奇形胎児のホルマリン漬けであろう。二重体児でかつ兎口、独眼で内臓が露出している。横に枯葉剤の化学式と人体に及ぼす影響が冷静な口調で医学的に書かれている。なんとなくいい。
 展示の説明は、ベトナム語、英語、フランス語、中国語でされている。最初は英語の表示を解読していったのだが、だんだん疲れてきて、中国語の表記をざっと見るだけになってしまった。中国語というか、漢字で「米兵」「殺戮」「撤退」などという文字を拾っていくだけ。これでなんとなく分かる気がするのだから、漢字は偉大だ。
 M1やバズーカを構えるアメリカ兵の模型も展示されていたが、米兵がくわえ煙草で顔つきがいかにも憎々しい。いかにもベトナムらしい。「美軍是魔鬼還是人類?」などという表記があるし。

美国鬼畜兵

 虎の檻といわれた監獄を模した建築物もあり、牢獄の中にはやせ細った囚人のフィギュアが置いてある。壁に書かれた「肉体在獄中 精神在獄外」という落書きがいい。他にも拷問器具などが展示され、逆さづり、算盤抱き、乳首に電気ショック、女性の陰部に蛇を挿入などなど、拷問の方法がこと細かに説明されている。陰惨な拷問は、どこの国でも大差ない。残酷への想像力は、民族を超えて普遍的なのだろうか。

虎の檻

 「国際連帯の部屋」みたいなものがあり、各国でベトナム戦争に反対したデモの写真や新聞の表紙などが飾ってある。日本の新聞雑誌ポスターもおおい。中に「米軍のベトナム侵略を許すな!」と書いたゼッケンがあったのだが、ひょっとしてこれが金子父の有名なゼッケンなのだろうか。

連帯のゼッケン?

 隣の文化公園というところに行ってやろうと徘徊するのだが、どこまで行っても塀ばかりでまるで入り口がない。そのうち道が細く汚くなってきた。これはヤバい。ということでホテルに帰ることにした。
 向こうから声をかけてくるバイクは危険、できるだけこちらから呼び止めた方がいい、という忠告に従って声をかけてみたが、みんな一般人なのはどうしたことか。私には人を見る目はないのか。ついに諦め、向こうで手を振っているおっさんのバイクに乗り込む。
 この人がやたら親日家で、このバイクはホンダだとかあの車はトヨタだとか、アメフリ、カンコー、ヤスイ、タノシイなどと単語を並べたてる。あまりに馴れ馴れしいのでちょっと心配だったが、ぶじホテルに送り届けてくれた。このあと観光しないか、としつこく勧めてはいたが。

 午後は相方がやや回復したので、ドンズアン市場に行く。ちょうど市場に着いたころから、どえらいスコールがやってきた。入り口は飛沫で外が見えないくらい。市場の中も雨漏りがする始末。それでも元気なベトナム商人は、日本人と見るや、「Tシャツ! 二ドル!」「二枚で三ドル!」などと声を張りあげている。
 市場の中の店で、ミー・カオというカニそばを食う。カニのスープがうまい。これで麺が、せめてうどん並みにちゃんとしてたらなあ。しかしながら、ベトナムでのエビカニの安さと美味さにはほとほと感服する。八千ドン。
 母親に頼まれていた木のサンダルを買う。木や竹にエナメルで彩色した土台と、色つきビニールの鼻緒を選ぶと、その場で釘で鼻緒をつけてくれる。ドンスアンはいまひとつ品揃えが少ないようだ。ベトナム雑貨の本に書いてあるとおり、中華街のチョロンのほうがやはり多いのかもしれない。六万ドンで、高くはない。
 相方がコーヒーとお茶を買う。「イタチコーヒー」などというあやしげなものを売っているが、豆もお茶もなかなか香りがよろしい。コーヒーもお茶も、百グラム七千ドンから二万ドンまで、いろいろな種類がある。百グラム一万八千ドンの蓮茶を買ってみたが、なかなかいい香りだった。ベトナム国内では、なぜか相当のレストランでもお茶はティーバッグしか出さないので、日本に帰って一番いいお茶を飲んだ。

 ようやく雨も上がったので、近くのファングラーオ通りに行き、シンカフェという旅行代理店で翌日のクチ・カオダイツアーを予約。一日観光で英語のガイド付きで四ドル。もっともこれには、クチトンネル入場料や昼食代は含まれていない。
 そこからぼちぼち買い物。土産物屋で手すき紙を三枚三万ドンで買う。ベトシルクという店で、妹から頼まれていたブラウスとバッグを四十八万ドンで買う。これで関係者への義理は果たした。近くの本屋でCDをジャケ買い。ピースマークのトレーナーを着た女の子が天に向かって祈っている図。三万六千ドン。
 宝石を見に行くという相方と別れ、ぶらぶらと土産物屋などのぞきながら帰る。だんだんと通りが寂しくなってきたので、バイクタクシーを拾おうと思ったのだが、また一般人に声をかけてしまった。やむなくタクシーを拾って帰る。一万二千ドンで、バイクとそんなに変わらない。いや、値切ればバイクはもっと安いのだろうが。

 夕方の五時から、青年海外協力隊でバレーボールの指導をしておられるKさんの厚意により、指導風景を見学させてもらう。けっこう大きく立派な体育館の中で、練習試合をしていた。小さく華奢な女の子と、なかなかガタイのいい大柄な女の子が混じっていて、全体としては中学校か高校の部活という感じ。ベストメンバーで挑めば、県大会くらいには出られるかな。ただイージーミスが多いので、三回戦くらいで消えそうだ。これでもこの地区の高校から選抜されたメンバーなのだそうだ。
 選抜メンバーではあるが、日本人のKさんの目から見ると、やる気があるんだかないんだか、勝ちたいのか勝ちたくないのかよくわからん選手が多いらしい。かといってベトナム人は誇り高く、選手を殴ったりするとえらい大問題になるので指導はたいへんだと、Kさんは笑っていた。
 それにしても、背中の「SALONPAS」は、本当にそのメーカーがスポンサーになっているのだろうか、それともパチモンなのだろうか、などと、ベトナム呆けした頭でくだらぬことを考える。

ベトナム代表

 夕食はそのKさん、映画会社に勤務するOさん、水泳の指導をやっておられるMさんを招き、仕事の話など聞きながらメシを食う。なに招くといっても、定食屋みたいなところだ。
 ハイバーチュン通りのコム・ガー(鶏メシ)の店。鶏スープで炊いたベトナム米は、塩の味付けだけなのにやけに美味い。これにやや辛口の豚煮込み、甘辛く煮たライギョの切り身などぶっかけて食すとさらに美味い。体育会系の男性ががっつくようにして食べる有様は、横から見ていても微笑ましく、なんだかこちらまで元気が沸いてくる。
 それでもビールも飲んで、体育会系若者三人、大食漢系主婦ひとり、肉体疲労系初老ひとりの計五人で二十五万ドン。

 そのあと、ホテルの裏にある喫茶店でベトナム風コーヒー。
 ホットを初めて飲んだが、なるほど強烈なくらい濃くて、コンデンスミルクも濃くて、砂糖もたっぷり入っていて、なんだかココアを溶いている途中で飲んだようだ。じっさい、お湯を頼んで薄める人もいるらしい。
 アルミ製のベトナムコーヒー入れは有名だが熱い。熱湯をそそぐと、私のような猫手では持てないくらいだ。やはりアルミ製より陶器製のほうがよい。

 ここでベトナム製品の話などいろいろ聞く。
 ベトナムのTシャツは安い。市場では一枚二ドル、二枚で三ドルなどといって売っている。安物のTシャツはいちど洗うとぺらぺらになって首のところが伸びきったりするのだが、ベトナムのTシャツはそんなことはない。高級なのではなくて、そもそも布地に伸縮性がまるでないので、伸びようにも伸びないのだ。
 その代わりぺらぺらなので汗を吸わず、汚れにくいし、洗濯後の乾きが早い。保温性も皆無なので、夏でも長袖のシャツが着られる(ベトナムの夏の日差しはむき出しの肌には過酷すぎるので、ベトナム人は真夏でも長袖であることが多い)。考えてみたらこの布地は、ベトナムのような国にもっとも適合しているのかもしれない。

 カンペンケース、ノート、ヌクマム入れなど、他のベトナム雑貨も似たり寄ったりで、蓋がうまく入らなかったり、印刷がズレていたり、紙質が悪かったりする。むしろその出来の悪さがキッチュだといって日本でもてはやされている現状である。
 かような具合で、ベトナムの工業はまだ他国に比べ遅れている。タイや台湾、マレーシアなどの製品が入ってきたらひとたまりもない。ベトナム政府は自国産業保護のため関税障壁を設けている。たとえば日本車や日本のオートバイなどは、ベトナムに持ち込むとすれば日本での値段の倍を支払わねばならない。それでもホンダのオートバイやトヨタの車が増えているのは、金持ちが増えている証拠であろう。

 ところがその金持ちが、あまりまっとうでない金の儲けかたをしている。あくどい方法というのではないが、あまり社会の発展に貢献しないのだ。ベトナムの金持ちといえば、外人相手のレストランを経営したり、外人相手のインターネットカフェを経営したり、外国相手の貿易の利ざやをかすめたり、そういう人間ばかりなのだ。自国産業の発展に貢献するところがまるでない。鉄鋼王カーネギーや自動車王フォードには及びもつかぬが、せめてポリバケツ王やTシャツ王やカレーの王子様に登場してほしいところだが、なにせ上記のような工業水準ゆえ、なかなか難しい。
 むしろベトナムの優等生は、いまだに第一次産業だ。米の輸出はタイに次いで世界二位だし、コーヒー豆、鶏、牛、豚、野菜、フルーツも近隣諸国に輸出している。エビ、カニ、イカ等の海産物も日本はじめ各国に精力的に輸出している。

 そのようなベトナム製品だが、その遅れたところが魅力と言えば魅力で、たとえばパチモン製品が笑えるくらい多い。
 たとえばナイキやグッチのコピー商品が大量に売られているのだが、これが香港やバンコクのような精確なコピーでなく、一目でわかるものが多い。たとえばグッチのポロシャツなど売っている。最近はそれでも真面目にコピーしているので、笑えるコピー商品が少なくなったそうだ。それでも今でも、カバンの上部にグッチ、下部にサムソナイトのロゴが入ったヌエ製品などがあるそうだ。リバーシブルの帽子で、表はナイキ、裏はカルダン、というのもあるそうだ。

 私が聞いた中でもっとも感動したのは、ロレックスの偽物の話である。
 ある日本人がロレックスの時計を買った。ふつうの偽物の十倍くらいの値段で、見た目もロレックスそのものだったので、本物のアンティークだと判断して、その人は買った。
 そのうち具合が悪くなってきたので、その日本人は時計をロレックスの本社に送り、修理を依頼した。
 ところが修理はされず、時計はロレックス社からの手紙とともに返送されてきた。日本人はその手紙を解読したが、内容はかようなものだった。
「当社での調査の末、この時計は当社で作られたものではないとの結論に達しました。たしかに部品は全て我がロレックス社の製品であります。そのことに間違いはありません。ですが、私どもが組み立てたものではありません。ベトナムで購入されたとのことですが、私どもが考えるに、おそらく優秀な時計工が、ロレックスの時計の廃品の中から、使える部品をとりだし、丹念に組み合わせて作ったものではないでしょうか。労作ではありますが、当社製品とは言い難いので、修理はいたしかねます」
 これって、本物のロレックス以上の貴重品かもしれない。

7月4日(水)

 今日はシンカフェのカオダイ教総本山&クチトンネルツアー。
 シンカフェ近辺でだらだらしていたら、やたら親日的なバイクの運転手に捕まる。日本の四コマ雑誌を見せられた。そこに自分が登場している、自分は信頼できるガイドだ、ということらしい。見るとなるほど、女性漫画家がベトナムに行った話を描いていて、そこに三倍ばかり美化して運転手の顔が描かれている。美化というより、たぶんやおい出身なのでおっさんの顔が描けなかったのだろう。
 日本語の単語を羅列しながら、しきりにシンカフェツアーは楽しくない、自分の運転によるガイドは楽しい、と力説する。ようよう逃げ出し、バスに乗り込む。

 シンカフェ前には、幼児を抱いた女性の乞食が多い。それがなぜか、身綺麗なかっこうをしている。不思議だ。
 ベトナム全土にわたって乞食は分布するが、やはりホーチミンが一番多いような気がする。ハノイでは乞食、というより、ちょっと商品が品切れの商人が商行為しているというようなさりげなさがあるが、ホーチミンは乞食専業が多そう。もっともベトナムには、本物の傷痍軍人が多いからね。足がなかったり、腕がなかったり、片目がなかったりの人がごろごろしている。ベトミン以来、ベトナム戦争、カンボジア紛争、中越紛争と、戦争にだけは事欠かなかった国だもの。

 バス八時四十五分の定刻に出発。総勢二十人弱、中型バスでのツアーである。シンカフェのツアーはバスがひどいことがある、と聞いていたが、まずまず上等なバスだった。
 ガイドはファン・バン・ハイという、なんだかベトナム共産党の書記長のような名前のおじさん。ベトナム戦争に従軍の経験があるのだそうだ。小太りだがなんとなく油断がなく、ドスがきいていて、あ、この人とは戦っても勝てないな、という印象。いや、戦わないけど。

 十一時四十分にカオダイ総本山のタイニンに到着。途中、葬列を見る。参列者は黒服だったが、かついでいるのがブラックドラゴンの派手なフィギュアだったので、なんだか葬式とは思えない。

 カオダイ教は今世紀のはじめに創立された新興宗教。カオダイという、アメリカのドル札の裏にある片目のマークのような神様が中心で、釈迦も孔子もキリストもマホメットも、カオダイの教えをその土地にアレンジして布教したにすぎないという。
 かつて数十万人の私兵をかかえ、ベトナムの独立戦争ではおおいに威を振るった。アメリカやフランスの影響でキリスト教を押しつける南ベトナム政府に反抗して、解放戦線に肩入れしていたらしい。その後軍事力は失ったが、信者は健在である。ラブホテルかディズニーランドのような色彩のばかでっかい伽藍をおっ立てるくらいに。
 前記四大預言者のほかに、ビクトル・ユゴーや李白もカオダイの布教を文学面で行ったのだそうだ。だから構内でも、孔子と李白が並んで立っている。それにしても幟の「上品」というのはなんなのだろうか。「下品」って人もいるのか。

李白と孔子

 十二時から礼拝がはじまる。
 白衣で頭巾をかぶった大導師みたいなのを先頭に、赤や青の衣服で背中に目のマークがついた導師みたいなのが数人、青や赤の衣服でイカのような白い帽子をかぶった指導者風のが二十人ほど、それに白衣無帽の平信者が五百人ほど。いっせいに頓首の礼みたいなのをして合掌したかと思うと、神を讃える歌のようなものを低声で合唱しだした。礼拝の途中だったが、バスの出発時間だったので退散。

カオダイ教礼拝

 近くの食堂で昼食。フォーガー一万ドン、サイゴンビール一万ドン。
 このフォーガーがなんというのか、まずい、と言い切ってしまえば簡単なのだが、いわく言い難い味。
 フォーといえばガラの出汁だけのあっさりしたスープと相場が決まっている。これに唐辛子酢漬けやライム、ヌクマムなどで味を整えるのが常道だが、ここのは酢漬けもライムもなし。代わりに胡椒がいやというほど振りかけてある。何も加えなくても、スープが最初から濃厚にして甘辛い。
 意表をつかれたというかなんというのか、生ラーメンを食い慣れていたところにカップヌードルを出され、これもラーメンだ、と言われたような印象。こういうのもフォーだ、と強硬に主張している。まずい、と言い切れないものがそこにはある。

 一時十分に出発し、ホーチミン側にすこし戻る。
 三時にクチ到着。入場料を五ドル徴収されるが、ベトナムドンだと六万五千ドン。レートで考えると、ドンのほうが安い。さすがシンカフェツアー参加者、欧米人でも勘定高く、みなドンで支払っていた。
 まず入り口近くの講堂で、映画の上映と説明。そのあとガイドの案内で林道を歩く。雑木林の公園の中に、手榴弾で破壊された米軍戦車の残骸やらロケット砲の砲弾やら各種のトラップやらが展示されている。このころから雨が降りだした。雨足が強くなると建物に避難し、小雨になると外に出て水たまりを避けながら歩く。とんだ雨中行軍である。

クチトンネル

 そしてトンネルに入る。
 土を踏み固めた狭い階段を降りると、そこから横穴がはじまる。人ひとり通るのがやっと。それもだんだんと狭くなってくる。最初は中腰で歩けたが、やがてしゃがんで歩くことになり、しまいには匍匐前進となる。
 大汗かいてトンネルを出たところで豪雨。本来の予定ではいまのトンネルは入門編で、もっと長くて過酷なトンネルに入るはずだったのだが、雨のため中止とのこと。残念なような嬉しいような。
 トンネルに入るので荷物を少なく、と言われていたので、傘はバスの中に置いてきたのだ。豪雨をついて、ガイドの号令一下、全員バスまで走ってゆく。雨中行軍、匍匐前進、総員駆け足、とんだ新兵物語だ。

雨中行軍

 早々とクチから撤退し、バスは豪雨の中を走る。なかば川と化した道路を、豪快に泥水をはねながらバスは走る。通行人がいようが人家の近くだろうが速度を落とさず、バスは走る。
 横をバイクや自転車で走る人間に豪快な水しぶきというか、高波が襲う。それでもだれも怒らない。沿道の商店にも泥水が容赦なくはねかかるが、店のオバさんは笑ってそれを見ている。些事にこだわらないその態度には感服するが、ああして泥水のぶっかかったジュースやココナツをあとで売りつけられるのかと思うと、そうそう感服ばかりもしていられない。
 豪快といえば、豪雨で周囲は水没し、床の低い民家などは完全に床上浸水だが、家の主は意にも介さず笑っている。ま、床はタイル張りだからいいのか。
 それにしても濡れそぼった衣服、雨で低くなる気温、効きまくりのエアコン、バスの中は厳寒だ。身体がふるえてたまらない。

 予定よりやや早く、六時半にシンカフェで解散。タクシーで一目散にホテルに戻り、熱いシャワーをあびてやっと人心地つく。
 夕食はMさんと日本料理屋へ。黒龍の大吟醸をプレゼントするが、半分くらい当方が飲んでしまう。刺身盛り合わせ、タコ天ぷら、焼き蛤、蛤酒蒸しなど、いずれも美味。値段はベトナムにしてはやや高めだが、でっかいエビの天ぷらが五百円足らずで食えると思えば、そう悔しくもない。かえってこういう店より、繁華街の札幌ラーメンの店などの方が割高だとか。ラーメン一杯で八万ドンとかするらしい。
 もっとも残念なことに、現地食材はエビとイカくらいで、ハマグリ、タコ、イワシ、マグロ、ネギ、豆腐、納豆など、食材のあらかたは輸入物だそうだ。ベトナムの食材を使用して、和風にアレンジしたらもっと楽しそうなのだが。もっとも、そこらの魚を刺身にしたりすると、寄生虫が心配だが。特にライギョは駄目よ。有棘顎口虫にとっつかれるから。

 夕食後ホテルに戻り、Mさんにドライマティーニ、カルヴァドスなどご馳走になってしまう。カルヴァドスはいたく美味だったが、マティーニはいまいち。ご馳走になって失礼だが、どうもベトナムはカクテルは美味くない。
 もともと禁酒法時代のアメリカで、くそまずい合成酒をなんとか飲めるようにしようとして作られたのがカクテルなので、そんなアングロサクソン的飲料はベトナムの風土に合わないのかもしれない。
 それにしても、ベトナムではマティーニのレシピが違う。ふつうマティーニは、ジンとベルモットを混ぜ、それにレモンピールかオリーブを添えるものだと思っていたのだが、ベトナムのマティーニはジンにマティーニシロップと称する液体を注ぐのだそうだ。相方はすっかりベトナム文化にかぶれているので、それが万国共通のマティーニの製法だと主張する始末である。
 ううむ、マティーニシロップ、いったいどんな液体なのだろう。見てみたいような見たくないような。

7月5日(木)

 ベトナム最終日。やはり二日酔いぎみ。
 相方はドンスアン市場や百貨店をまわるといっていたが、私は近所の本屋でベトナム語辞書、セーラームーンとキティちゃんのあやしげなノート、ホーチミンポスターなどを購入し、近所のスーパーで食材を買ってホテルに退散。スーパーではインスタント麺三種類、フォースープの素三種類、肉マン、ネムチュア、ヌクマム二種類、バインバオの素、などなど。もっと買いたかったが、それでは相方の二の舞になる。

 昼過ぎ、相方がホテルに戻ってくる。なんだか傷つき、ビッコまで引いている。
 聞くと、市場でおっさんが耳掃除や将棋をしているのをのぞき込んだり談笑したり写真撮影したりしてところ、バイクに乗ったひったくりに荷物を奪われそうになって転び、挫傷を負ったそうだ。
 派手な格好で高価そうなカメラを持ち歩き、そのくせベトナム人のおっさんとなにやら談笑している。そんな妙な人物だから、ひったくりも目をつけていたのだろう。
 ホーチミンではこういう、バイクによるひったくり事件が多いそうだ。なかにはネックレスを掴まれ、あやうく窒息せんとしたケースもあるとか。
 とりあえずホテルで応急処置をうける。

 あまり動かない方がよいのではないかと心配したが、相方は最終日だし、どうしても食いたい料理があると強硬に主張するので、タクシーで出かける。
 Mさんの案内で、ディン・ティエン・ホァン通り94番地のカニ料理屋へ。とくに名前はなく、94という番地がそのまま店名になっている。こういう店はベトナムには多い。近くに95という店や、94という同じ名前の店もあるのだが、この店がいちばん美味いとのこと。
 カニと、あと若干のエビしかないという徹底した店。カニ爪の茹でたもの、ソフトシェルクラブの空揚げ、カニ春雨、カニスープ。カニは身が大きく締まっていて、美味。スープの味付けとタレが若干甘かったのが唯一の欠点か。空揚げとカニ爪を塩とライムで食うと、非常に美味。カニ尽くしのカニ三昧で、三人で十万ドン程度だった。

 昼食後、相方は念のためにSOSクリニックで怪我の再診断を受ける。待合室でぼんやりと雑誌など読んでいたら、日本人向けのホーチミン案内雑誌を発見。しもうた。これを最初に読んでおけば。
 さいわい骨には異常がなく、肉離れだそうだ。テーピングと消毒、痛み止めの投薬を受けたらしい。

 夕食はMさんと一緒にホテルの二階でベトナム料理ブッフェ。
 まったくMさんには、最初から最後まで世話にばかりなった。カインチュアやバナナの花のサラダなど、上品で繊細な味。スペアリブのグリルが美味だった。

 夕方に先日のOさんが来訪し、おみやげにCDをくれる。
 なんでもベトナム国内で、日本人四人グループというふれこみでデビューしたらしいが、ひとりはベトナム人、ひとりは中国人、残りのふたりは日本人だが年齢を十五ほどごまかしているとか。
 どうやら「東京専科」みたいなタイトルのアルバムらしいが、どこかで聞いたような曲をベトナム訛りの日本語で歌いあげる珍品。日本人の曲でよく日本語と英語を混ぜているように、ベトナム語と日本語を混ぜて歌っているらしいのだが、聞いていくほどに日本語だかベトナム語だかわけがわからなくなってくる。

 相方が傷を負っているので、九時半ごろ、少し早めにチェックイン。
 相方は大量の荷物をもちこみ、航空会社の職員になにやら懇願している。どうやら、自分は足が痛いので、前方が広い席をお願いしたい、と頼んでいるらしい。
 私はこういう場合、相方にまかせきりで、横から口をはさんだりしない。冷然として見守っている。これにはちゃんと理由がある。ひとの議論に途中から口を出すのは失礼でもあるし、往々にして論点がずれる危険性がある。しかもこの場合、最初はベトナム語で話しており、途中から英語に変わる。相手にしてみたら、ベトナム語での議論にやや頭がついてきたところで、いきなり別人との英語の議論である。理解できようはずがない。これは断じて、私の英語力が悪いからではない。ないったら。
 しかし今回は非常時である。やむなく私も参加し、英語で係員に尋ねる。なかなか通じない。繰り返し強調するが、私の英語が悪いからではなくて、ゆっくりと話を進めていかないと、こういうものは通じないのだ。
 ところがこのへんのことがわからないせっかちな相方は、私の英語が通じにくいと見るや、またもベトナム語で口をはさむ。相手はますます混乱し、会話は紛糾に紛糾をかさねる。
 ようやく話を収拾させて聞いてみると、どうやら三連の席でひとつは空けてあるから、そこに脚を休めるといい、と言っているようだ。

 そちらは解決したとして、荷物のほうはもはや驚くべき事でもないが、三十キロオーバー。これは怪我とは無関係であるから、ちゃんと超過料金を支払わねばならぬ。相方がなにやら、粘りに粘って五キロオーバーに負けてもらう。超過料金を値切る人物を、私ははじめて見た。
 それはともかくとして、この超過料金五十ドル、職員に支払ったが、受け取りもなんにもない。どうやらこの職員が内輪で処理して金を懐に入れたらしいが、こちらとしては荷物が乗せられればそれでいいので、別に文句を言う筋合いはない。

 さて出国審査というところで、ぷちっと嫌な音がして、私のデイパックの留め具が壊れ、肩紐が外れてしまった。
 やむなく上下をタコ結びにして肩にかける。それにしても旅行の最後で紐が切れるのはどうしたことだろうか。これが旅行の最初なら、テリーマンのシューズの紐のように、不吉な出来事の予言と受け取ることもできようが、最後では。いや待て、ひょっとすると。日本に帰ってからの不吉な出来事を予言しているのか。そうなのか。

 ようやく待合室の椅子に座ってひと安心。とはいっても早めに飛行場に着いたので、まだ搭乗まで一時間以上ある。金はほぼ使い果たしたので、免税店でなにか買うこともできぬ。ぶらぶらと見て歩くだけ。わあ、高いなあ、これ市内じゃこの半額以下だよなあ、などと徘徊するうち、妙な注意書きをみつけた。「壊ャゼまぃ物」とはいったいなんの意味なのか。どうも壊れやすい物だから気をつけろ、という真意らしいが、未だにどうもよくわからない。土佐弁かもしれない。

ヘンな表示

 さて飛行機に乗りこんでみたところ、われわれの席はただの二連席だった。相方がH、私がJの席で、K席には見知らぬおっさんが新聞など読んでいる。Iが空いていると思い込んでいたのだが、もともとIという席番号はないのであった。
 さいわいJALの運行だったので、日本人のスチュワーデスに確認してみる。そのような話はまったく聞いていないとのこと。ううむ、ベトナム人の「ノープロブレム」ほど怖ろしいものはない、と聞いていたが、そういうことか。
 スチュワーデスの好意で、急病人用の四連席を使わせてもらう。相方は三席を使い、私は隣の席にちょこんと座る。

 離陸後、相方はしきりに脚の痛みを訴える。聞いてみると痛み止めを飲んでいない。高空でどうなるかわからないから飲まなかった、とのこと。不安なのはわかるが、痛み止めを飲まないで痛くなるのは自業自得だ。無視させてもらい、私は落語を聞きながら寝ることにする。桂ざこばは枝雀にかなり似ているということを、ベトナムで発見した。

 成田につくと相方はますます脚の痛みを訴え、痛々しくビッコを引きながら歩く。他人の痛みはわからないもので、本当に痛いのか、わざとやっているのかは判然としない。
 見かねた空港職員が車椅子を持ち出し、運んでくれる。おかげで税関も入国審査も別ゲートで楽に通れる。こんなことなら密輸すればよかった。
 空港出口まで運んでくれた職員が、相方に聞く。
「ここからどうされますか? お出迎えの方でも? それともタクシーで?」
「いえ、バスで帰ります」
 相方の返事を聞いた職員の表情が曖昧になった。無理からぬことである。機内と空港であれだけ騒いで、病人だと思ったから特別シートだの車椅子だのさんざん手間をかけてやったのだ。とうぜん空港に泡を食った迎えが来るか、せめて救急車、悪くともタクシーで家まで帰ると思うのが人情であろう。それがバスで帰るというのではなんだか、好意を無にされた思いだったのであろう。
 しかし相方は強硬にバスを主張。タクシー料金のことを考えると、これも無理からぬところだろう。ま、バスで帰るというのだから、健康体だと判断させていただく。バスに荷物を放り込んで、あとは放任することにする。私は家に帰るよ。

 家に戻って、とりあえずシャワーを浴び、ぐったりとベッドに倒れこむ。やはり疲れていたのだろうか、それから三日ほど、寝ているとも起きているともつかない曖昧な状態でぼんやりと過ごした。
 これでおしまい。


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