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6月23日(土)

 やはり喉の痛みはハノイの排気ガスの微粒子が原因らしく、だんだんとひどくなってくる。それほど繊細でもない私でもやられるのだから、やはりベトナムに行く場合はうがい薬は必需品だと思う。

 ダイウーホテルの近所のパン屋「ニューラン」でサンドイッチを買い、近所のジュース屋台でマンカウという果物の甘酸っぱいシェークとともに朝食。
 ニューランが有名なホーチミンの同名の店と関係あるのかどうかわからないが、少しあぶったフランスパンに茹でた豚肉、サラミ、ハム、トマト、モヤシ、キュウリ、香草などをはさんでヌクマムとチリペーストを振りかけた豪華版。五千ドン。
 パンの表面はぱりぱり、中はしっとりもちもち、しわいことなく、すんなり噛みきれる柔らかさで言うことはない。豚肉の脂身がパンに潤滑をあたえ、ますますよろしい。
 マンカウシェークは、果物を凍らせてそれをミキサーで粉砕して作るのだそうだが、濃厚でちょっと酸っぱくてうまい。

 そのあと、またもや例の茶屋へ行き、ホビロンを食う。ホーチミンでは卵の殻の上をちょっと毀して、そこから小匙ですくって食うのだそうだが、この店では殻を割って中身を小皿にあけ、それに香草やショウガ、唐辛子酢やチリをふりかけて食う。
 思ったほど発育はしておらず、骨や各組織は、ちょっと歯に触るなという程度。そんなに気味悪くはない。ああ、これは目になるのだなあ、などと確認しながら食う。黄身の部分はまさに黄身で、おもしろくない。スープがうまいと聞いていたが、量がなかったのでわからない。
 このオヤジは常連となると商売気がなくなるらしく、きょうも金を受け取ろうとはしなかった。「人生すべて金」というサイゴン気質に対抗する、「人生、金より大事なものもある」というハノイ気質のあらわれであろうか。

 タクシーに乗ってハノイタワーという最新鋭高級ビルディングの隣にある通称「地獄市場」へ行く。
 なんでも、敷地がもと墓場だったことからこの名前がついたのだそうだ。外国人御用達の超高級ビルの隣に地元住民ご愛顧の市場があるというのも、またベトナム的でよろしい。
 それはともかく、あの市場の敷地がもと墓地だというのなら、ハノイタワーもそうではないだろうか。そのせいかハノイタワーには、悪い噂がつきまとう。数軒の部屋で同時に食器棚がはずれて落ちたり(単に手抜き工事だったとも考えられる)、子供が窓に手をついたら、ハメコミの窓ガラスがなぜか外れてあやうく転落死するところだったり(単に手抜き工事だったとも考えられる)、住民が長く居つかず、すぐ引っ越してしまうとか(単に手抜き建築に嫌気がさしたとも考えられる)。
 秋葉原ジャンク街のような狭苦しい路地に、中国風の衣服、葬具、干麺、干物、野菜、魚貝、肉類、何でも売っている。魚貝は生きて動いているのだから新鮮このうえない。鶏、鳩、家鴨、ウサギなども生きたままを売っている。そこここで首をはねられた家鴨の足が最後の痙攣を行っている。牛や豚の切り身も色が綺麗で、新鮮なことを物語っている。

 ここの売り子とも相方は懇意なようで、挨拶すると乾物屋のおばちゃんがお歯黒の黒い歯を見せて笑う。魚屋のお姉ちゃんには「このぼさっとした男は、おまえの旦那か?」などと聞かれる。兄だとかごまかしていたようだ。しまいには八百屋のおばちゃんに、
「三十八にもなって独身とは、おまえの兄は正常ではない。どうだ、うちの娘を日本に連れて帰らないか?」
 などと勧告される始末だ。アジア特有の、プライバシー無視密着コミュニケーションである。しかしベトナムでは、私にも秘密兵器がある。
「なぜそんな歳になって独身なのだ?」
 と聞かれたら、堂々と胸を張って、
「ホー・チ・ミンを見習っているのだ」
 と答えればいい。
 もっともホー・チ・ミンは、生前、
「私には悪癖がふたつある。独身とタバコだ。これだけはけっして真似しないように」
 と言っていたそうだが。

私の妻候補

 市場の奥のほうでは犬のヒラキを売っている。身長一メートルくらいの中型犬の毛をむしり、腹を開いて内蔵を取り出し、それの口から肛門までを太い棒で突き通して焙り焼きにした、実によい色合い。でっかく開いた肛門が生々しい。

 昼食はボランティアの人々と日本語学校のベトナム人学生を誘い、ハノイの東、チュンズオン橋を渡った先にある蛇料理屋でコブラと大トカゲを食う。
 この地域は蛇料理屋が並んでいて、「ヘビ村」と呼ばれているのだそうだ。ベトナムはなぜか同種の店舗がずらりと並ぶことが多く、他にも「犬村」「豚村」「スイカ村」「フォー村」「サンダル村」「八つ墓村」「湯殿山麓呪い村」「五番ライト吉村」などがある。
 まず一階でデモンストレーション。われわれの注文した食材の前処理を見せてくれる。
 コブラにちょっかいを出して怒らせ、鎌首をもたげた例のポーズをとらせたあげく、捕まえて首をはね、ぴーっと器用に皮をむく。首を失い赤裸になったコブラは、それでも執念でのたくっている。さらに、大トカゲも同じ目に。私をうらむな、恨むならヘビと大トカゲを食いたいと言った、隣の相方にとりつくがいい、と心で成仏を願ってから、二階の食堂へ。

コブラ大トカゲ生皮剥ぎ

 蛇の血入り酒、蛇のペニス酒、スズメバチ酒、熊の爪酒などを飲みながら、さきほどのコブラから作ったあつもの、皮の空揚げ、皮のフレーク、フリッター、春巻き、炒めもの、スープ、トカゲから作った炒めもの、スープなどをいただく。どちらも鶏肉をもっと淡泊に柔らかくしたような、さっぱりした味わい。十二人で総計百七十万ドン。

 夕方にもうひとりの同行者、Kさんを迎えに行く。タクシーで空港まで急ぐ。
 空港についた時にはもう、ぼーっ、という感じでKさんがトランクを持って立っていた。そのまわりを取り巻くように、タクシー運転手、観光ガイド、ホテルの客引き、ポン引き、万引き、ならず者、などが十重二十重にとりまき、ホテルまで十ドルでどうだ、ついでに旧市街を観光しないか、安い店を知ってるんだ、いいホテルがあるよ、カラオケはどうかね、ハンサムな青年はどうかね、隙はないか、五ドルよこせ、などとさんざめいている。
 聞けば、着陸後やけにスムースにことが進み、十分くらいで出てこれたとか。それにしてもこれだけの勧誘者に囲まれて、不安ではなかったろうか。
「まあ、人がいっぱいいるけど、言葉がわからないふりしてたから、そんなに気にならなかったよ」
 と笑うKさん。やはり大人物だ。

 Kさんが参加のため、私はダイウーからトレドホテルに追い出される。ダイウーから歩いて十分くらいの、中国系のやや古びたホテルだ。それでも設備はちゃんとあり、エアコンに浴槽、テレビから書き物机まである。私にとっては過ぎた宿だ。
 今度のホテルはやたらに部屋が広い。3LDKくらいある。それはいいのだが、総じて古びており、しかも部屋が広いだけにエアコンの効きが遅い。まあ、一泊二十五ドルならしかたないか。

トレドホテル

 夜は相方の元お手伝いさんだった、ベトナム人のHさんの家に招待される。
 ダイウーホテルからタクシーで十五分くらいのところにある、大通りからすこし中へゆくと、けっこうな庭園があり、そこがHさんの家だった。
 家の中にはタイル敷きの部屋があり、その上にカーペットを敷き、さらにその上にテーブルクロスを敷いて食卓兼座布団となる。ベトナムの一般家庭はこういう方式らしい。それでも客人用だろうか、ソファもあった。

Hさん一家

 ベトナム人の中でも料理上手の部類に入るという、Hさんの手料理をいただく。パパイアサラダ、揚げ春巻き、タニシの肉詰め、海老ギョウザ、蛙のフライ、などなど。すべて美味。
 揚げ春巻きは普通の皮ではなく、ビーフンをレースのように編んだ皮で巻いたもので、これはフエ料理なのだそうだ。サクサクした食感がここちよい。
 タニシ肉詰めは、大きなタニシを茹でて中身を取り出してから、ひき肉、ショウガ、レモングラス、刻んだタニシ肉、などを入れなおして蒸すのだそうで、肉もうまいが出てくるスープがまたうまい。
 Hさんの娘が十四歳、七歳、息子が二歳、Hさんの姉の娘が二歳。子供がみんなかわいい。Hさん夫婦は、総領息子を溺愛しているようだが、相方のお気に入りはお茶目な次女らしい。私はといえば、長女がなかなか。インド系ではないかと錯覚するほど、彫りが深く睫毛が長い。

娘たち

6月24日(日)

 七時半に集合してタクシーに乗り、フォーを食いに行く。
 おとといの店よりも若干高級らしく、二階に上がると冷房席があった。スープがおとといよりも淡泊で鶏の味がした。これに揚げパンを入れると、ほどよく脂っこくなり、うまい。立ち食いソバにおけるカキアゲのような存在だ。
 うまかったが昨日が食いすぎである。私は半分、相方は七割くらい食ったところでやめ、ふとKさんの丼をみると、汁まで飲み尽くしていた。やはり大人物である。

 そこから近くの店へ買い物に出かける。まずはシルクの店をハシゴ。女性ふたり、ああでもないこうでもないと店内を引っかき回す。次は刺繍の店。以下同文。その次はバッグの店をまたハシゴ。右に同じ。
 Kさんは大人物だが、購買への欲望も大人物らしく、目に入ったものをことごとく買う。
 「ここで買いそびれると、後悔するし……」と、「だって、欲しいんだもん」という台詞が決まり文句で、買おうかどうしようか迷ったら、必ず買う。どちらを買おうかと迷ったら、両方買う。これもひとつの大人物である。
 しかしながら購買本能は友人への土産物には作動しないらしく、なかなか渋い。バッグの店で友人好みのキンキラキンな品を見つけたが、
「これSさんへちょうどよさそうだけど、高いから、どうしようかな……どうせお土産だから、この汚れた五ドルのでいいかな」
「このバッグ、私も欲しいけど、Sさんと同じ品持ってるとこ見られたら恥ずかしいし……」
 これで友人なのか。

 ちなみにこのバッグの店、イパネマというかなり有名な店なのだが、それにしてはセンスが妙に思える。そのセンスの一端が、店のポストカードにあらわれていると思うのだが、皆様いかがお考えでしょうか。

イパネマカード

 果てしのない買い物をようやく終え、インドシンというベトナム料理屋でKO氏一家と食事。KO氏は私の大学漫研の先輩で、今はタイ人の若い奥さんをめとり、ODA組織のコンピュータ専門家としてハノイで働いている。もう二歳になる娘さんがいる。やはり溺愛しているらしく、撫でたりキスしたりしている。ベトナムの人は子供を溺愛するのが常なのだろうか。
 生春巻き、バナナの花のサラダ、ココナツ飯の魚甘辛煮かけ、砂糖黍茎の海老すり身チクワ、海鮮焼きそばなど、いわゆる正統派ベトナム料理。ひとり十ドル。

 午後はKさんとともに、再度革命博物館へ出撃。
 今度こそ最後までじっくりと見たが、しかしやはり革命のゼッケンはなかった。
 しかし最後のブースは、「ホーチミンへ世界各地からの贈り物」という、革命とはなんの関係もないところであった。日本か贈られた刀とか法華の太鼓とか、アンゴラから贈られた象牙とか、ザンビアから贈られたシマウマの皮とか、そんなもん展示して何になんねん。

 トレドホテルのウェルカムフルーツに、ずんぐりしたバナナと混じって、みすぼらしい柿のようなものがある。意外とこういう柿が美味いのかと思い、皮を剥こうとしたがつるつるすべる。とりあえず切ってかぶりつこうと思い、四つに割ったら、種とまわりの白い被膜、そして赤い果肉。果肉をかじったが渋いだけでうまくもなんともない。さては渋柿かと思ったが、白いところを食べるのかと思い、触ってみたらつるりと取れた。その形状は、まさしくあれ。しまった、これはマンゴスチンであったか。

 夕食は相方の元運転手だった、ベトナム人のTさんの家におよばれ。二日連続でベトナム人家庭に招待にあずかるなど、滅多なことではできない経験である。
 やはりタイル張りの部屋に、竹で編んだゴザのような敷物を敷き、さらにその上にテーブルクロスを敷いて食卓とする。
 Tさんとその奥さん、十歳になる娘と生まれて間もない息子、Tさんの母親、Tさんの姉と二歳の娘が出迎えてくれる。
 今日も料理は極上。レースのように細かく編んだ春雨で巻いた揚げ春巻き、蛙の空揚げ、海老フライ、春雨サラダ、ぱらぱらになるまで炒めた卵チャーハンなどの料理に、シャンパンとウィスキーでおもてなし。シャンパンが冷えていなかったことだけが残念であったが。
 こうして家庭料理を連日ご馳走になっていると、料理の神髄とは畢竟、新鮮な素材と、それを選び調理する手間を厭わない精神であると痛感させられる。

 おいとましてから繁華街で少し飲み、ホアンキム湖を散歩。風景はムーディなのだが、しきりに鳴るクラクション、呼び売りの声、これらの騒音がせっかくの雰囲気をぶちこわしている。それでもハノイのカップルは慣れっこになっているのか、至極のんびりと娘の長い髪に指をすべらしたりなどしている。
 南国だから虫が豊富かと思っていたが、さほどでもない。博物館で蝶をみかけたが、さほど美しくもないタテハチョウの類であった。夜に看板にたかっている虫を見たが、それはただのカメムシだった。ホテルの廊下を走っている虫を見たが、ただのゴキブリだった。夕方の街路を羽ばたく、日本よりひとまわり大きなコウモリを見たとき、わずかに南国を感じた。

6月25日(月)

 相方はハノイに三年も住んでいて地理を知り尽くしており、ベトナム語も堪能である。高級から低級まで、すべてのハノイの味覚を熟知している(鳩料理など苦手部門があるようではあるが)。
 そんな相方がガイドとして不適格なのは、ただひとつ、ベトナムとベトナム人に対して過剰なまでに愛情を抱いてしまっていることだ。
 烈烈たる愛情に満ちた言質のほとばしりを受けると、私のようなひねくれ者は、これには何か裏があるのではないか、ここまで情熱的なのはなにか裏に隠された事情があるのではないか、などと勘ぐってしまうのだ。
 そのひとつに食い物の存在がある。相方はことあるごとに「こんなもの、日本じゃ食べられないから」などと言う。そのたびに、私に残されたわずかながらの愛国心が、ぴくりと刺激を受けるのだ。
 たしかにベトナムの食材と調理法は世界に冠たるものだ。とくに食材の豊富さと新鮮さでは、他の追随を許さない。しかし、日本でも探せばあるんだよ。
 相方は日本では東京しか在住経験がないので、要するに食材としては日本最悪の地とベトナムを比べているのだ。
 たとえば新鮮でピチピチ跳ねるエビなら、瀬戸内の市場へ行けば手に入るし、カニなら山陰だ。私は行ったことがないが、北陸や北海道でも、それぞれ新鮮な海産物が手に入るらしい。野菜も、東京をちょっと離れて、たとえば高崎や深谷へ行っただけで、いいものが手に入る。
 むろん、値段はベトナムより高い。それはあたりまえのことだ。ベトナムと同じ値段でエビや野菜を売らなければならないとしたら、漁師さんや農夫さんは全員のたれ死にをしなければならないだろう。

 えらく晴れた暑い日だった。
 朝はふたたび「ニューラン」へ行き、バイン・ミーとマンカウシェイクの一万ドンの朝食。オヤジの茶屋への道筋も前回と同じ。
 そこからタクシーで文廟へ。入場料は一万ドン。ここは昔の孔子廟のようなところらしく、回廊には科挙合格者が奉納した亀の石像と名簿、奥には孔子が祀ってある。孔子の右隣には子貢、顔回などの直接の弟子、左隣には孟子、曽子など学問上の後継者が祀っている。

文廟

 その奥では民族音楽の演奏を行っている。数人の女性が、はじめは中国風(一弦琴、十六弦琴など)、次はガムラン音楽風(竹の木琴のごとき楽器でハイテンポな演奏)で演奏してくれる。

民族音楽

 そこから歩いて、山岳民族の製品の店「クラフトリンク」へ。手すきの紙のノートを買う。五万ドン。
 さらにベトナムシルクの店で姪の服を買う。十六ドル。
 私の買い物はそのくらいだったが、ここでKさんの買い物本能がビッグバンを起こす。まず民族製品の店では、スカーフ数点、ショール数点、民族衣装の上着、ペーパーナイフとコースターとペンダントと腕輪を買ったあげく、八畳敷きくらいあるでかい布を買おうかどうしようかと煩悶。
「そんなもの、何に使うんですか」
「だって、柄が面白いし、欲しいんだもん」
 とお得意の台詞を炸裂させたが、珍しくもそれは買わなかった。
 しかしシルクの店では、既製品のブラウスとショールを買い、さらにオーダーメイドの注文。さらにウェディングドレスのような派手なドレスを買おうとしたので、あわてて止める。
「だって、欲しかったんだもん」
 クレジットカードを差し出すKさんの目に、異様なものがあった。

 買い物で時間が遅くなり過ぎ、フエ料理屋に行ったのだが、すでにランチタイムが終わって閉店していた。
 やむなくベトナム料理屋「ハノイガーデン」へ。写真では高級そうだったが、実際に見ると、かなりくたびれた印象。
 それで印象を悪くした相方は、ウェイトレスが日本語のメニューを持ってくると、突然、
「あたし、こんなとこで食べたくない。ふたりで食べて」
 と宣言して店を出る。失敬な人間である。日本人観光客が押しかけるような店が嫌だというのなら、自分は何なのであろうか。
 やむなくKさんとふたりで食するが、味はまずまず。暑い夏には、蛤の酸っぱいスープがよい。あと空芯菜のガーリック炒め、福建焼きそばとビールで二人前十四万ドン。高くはない。

 夜の八時から水上人形劇を見に行く。
 二列目のかぶりつきで見る。こういうのは日本人が大半なのではないかと、上海雑技団の経験から思っていたが、欧米人五割、日本人二割、ベトナム人二割、その他一割、くらいの割合だった。まだハノイは日本人が少ないのかもしれない。
 芝居がかった台詞(ベトナム語なので意味はわからないが)は狂言のよう。農村生活に多く題材を取ったのは田楽のよう。人形で劇をするのは浄瑠璃のよう。と、なんだか昔の日本の演劇を思わせ、親近感がある。
 水牛や蛙、魚などをよく観察して写実的にその動きを表現しているのには、さすがと感じさせられる。
 人形の中に一体、ジャイアント馬場そっくりの人がいて、余計に親近感を増す。ブレているがおわかりだろうか。

ジャイアント馬場1ジャイアント馬場2

 そのあと九時から、ソフィテルメトロポールのフレンチレストランで夕食。量が多く、エスカルゴと蛙の前菜、兎ローストのメインの二皿で満腹になってしまった。
 Kさんは最初に配られたパンをあっという間に食い尽くし、つぎに配られたパンも食べようとするので、これから料理が運ばれてくるのだから、慌てることはない、と説得したのだが、
「だって、おいしいんだもん」
 としっかりと握って離そうとしなかった。
 聞けば、K一族はみなこの性癖をもっており、目の前に現れた食物を食い尽くさないではおれないのだという。食物の保存とか、夕飯までとっておこうとか、そういう概念のない一家なのだそうである。江戸っ子なのかもしれない。
 ワインも食い物も、文句のつけようがない。ひとり五十ドルくらいしたが、それだけのことはある。

伊勢海老のクリームソース兎のロースト子牛のグリル

6月26日(火)

 今日からハロン湾へ一泊二日の旅。ハロン湾は「ベトナムの桂林」といわれる、石灰石の奇岩奇石が湾内にひしめく観光名所である。海産物の豊富さでも知られる。
 朝にホテルをチェックアウトして、Tさんの運転する車でハロン湾へ向かう。道路はずっと舗装されていて心地よい。
 ハノイを出てしばらくすると、なんだか懐かしいような農村風景が繰り広げられる。日本のと同じような田園風景だ。もっとも、水田のまわりにライチーの樹やバナナの樹が繁っているあたりが日本とは違う。耕作を水牛でやっているあたりも少し違う。田圃と田圃の間に、見慣れない形のお墓が数基あったりするところも違っている。こうして考えていると、ぜんぜん同じでないような気がしてきた。

ハノイ近郊の田園

 途中、Tさんが疲れたようなので、沿道の茶屋で休憩。Kさんはトイレへ行くが、怯えて戻ってくる。
「なんか、凄かった……」
 とだけで多くを語らないが、どうやら犬料理屋のトイレのごとく、コンクリートの壁で囲まれた中に、穴だけがあいたシロモノだったらしい。

ベトナムの標準的トイレ

 四時間ほどして、ハロン湾へ到着。あいにくの雨だったが、遊覧船をチャーターし、乗り込む。ざっと四時間の航路だという。
 昼を食べてないし、まずはちょっと、と握り飯を出し、ビールと共に食う。私と相方はひとつ食っただけだが、Kさんはまたたく間に二つを食い、三つ目に手を出そうとしたので、これからカニとかシャコとか茹でて食うんですから、と必死に止めたのだが、
「だって、食べたいんだもん」
 とお得意の台詞。まさに、目先の食い物に我慢がきかない血筋らしい。

ハロン湾

 やがて舟が我々のボートに横付けし、おばちゃんがしきりに誘う。覗いてみると、タライの中に活きたカニ、エビ、シャコ、貝などがいろいろ。魚を売りに来たようだ。なにしろ早いもの勝ちの買手市場。みんな獲物のクジラを襲うシャチのように襲いかかってくる。
 なにやらベトナム語のやりとりの末、相方とおばちゃんとで交渉成立。シャコ、カニ、ムール貝を購入し、舟で茹でて食べる。
 いずれも大きく、ムール貝の貝殻はさしわたし四十センチほどもあるし、シャコは体長三十センチに近い。私は岡山のシャコが最も大きく美味だと思っていたが、それよりもまるまる一回り大きい。
 いずれも美味。なにしろさっきまで生きて跳ねていたやつだから、安心して内臓までしゃぶる。

魚介舟調理後

 メシを食ってから、島の鍾乳洞に入る。かなり大きい。岡山の満奇洞より広いのではないか。奇怪な鍾乳石を、赤や紫や青の電灯でライトアップしている。
 Kさん、そこでもまたトイレに入り、またもおびえて帰ってくる。私はその間に、売店でビール。欧米観光客も来るせいだろうか、よく冷えていてうまい。百二十万ドンと、ちょっとお高いが。ちなみにこの鍾乳洞のゴミバコは、なぜかペンギンでした。

鍾乳洞ゴミバコ

 船はまたしばらく進み、やがて水上生活民の集落に。
 船の上にプレハブの建築物を建て、そこで生活している。獲った魚介を市場に持ち込んで生活しているらしい。夫婦と三男二女の一家。
 かなり住みごごちのよさそうな建物で、ちゃんとテレビまで揃っている。犬を二頭と、猿までペットに飼っている。おまけにカブトガニまで舟に繋いでいたが、これは食べるのだそうだ。

海上集落海の家

 船を上がり、ホテルへ戻る。女性陣はハロンプラザというこの地随一のリゾートホテルだが、私は運転手のTさんと中国系のホテルに。冷房もあり、清潔で広いホテル。それはいいのだが、しばしば停電する。こんなことは初めてなのだそうだが。なによりも、部屋は五階にあるのに、エレベーターがないのが、もっとも困る。
 近所の定食屋で夕食。さすがにシーフードが美味い。赤貝のグリル、イカとセロリと玉ねぎの炒めもの、海老のビール蒸し、いずれも美味。この店で食事中にも、三回くらい停電した。どうやらハロン湾一帯が停電しているようだ。
 Tさんの経歴をすこし聞いたが、なかなか複雑な人生のようだ。ODA団体の職員の運転手の前には、大型トラックの運転手をしていたらしい。その前には、モスクワで二年ほど暮らしていたという。1992年から94年にかけてだから、ソ連崩壊後のことだ。社会主義の交流ではない。モスクワで、Tさんは何をしていたのだろう。ひょっとしたら、秘密外交工作かもしれない。
 運転で疲れたTさんと一緒の部屋なので、いつものように夜更かしするわけにもいかず、そうそうに寝る。

6月27日(水)

 曇り空ながら、雨は上がっていた。
 朝はTさんとフォーを食う。
「ここのはハノイより味が落ちる」と謙遜していたが、どうしてなかなか。鶏だけを使ったあっさりスープが美味い。ハノイの有名店より、美味いのではないか。
 どうもベトナム人は、天然自然のダシよりも、化学調味料を加えたほうがおいしいと思っているふしがある。そのため化学調味料が多めの店が評判になることが多いようだ。行列店や名店、必ずしも最高ではない。

 ハロンビーチホテルで相方、Kさんと合流する。
 Kさんは昨夜腹を下していたそうだ。船で食べた巨大ムール貝が原因らしいというが、ひょっとすると真因は食い過ぎ、もしくは汚いトイレを気に病んでの心因性下痢だったのかもしれない。

 あいにくの豪雨だが、タクシーを呼んでフェリーに乗り、ハロン市場へ。
 折からの雨で、市場の女性はみんな、頭に菅笠、体にはカッパの旅烏スタイルである。もっともベトナム人どころではない。日本女性陣は、腹にリュックを背負い(背負ってないか)、その上からカッパを着て、とんだ妊婦スタイルである。
 ここでも相方の知り合いがいるらしく、たちまち歓迎され、お茶をふるまわれる。いったいどれだけ知り合いがいるのだろう。
 ここはカブトガニが名産らしく、まだ生きて脚を動かせたり甲羅を折り曲げている奴のしっぽをぶら下げて、歩いていく少女がいる。さらに勇壮なのは解体場で、十数匹のカブトガニの、甲羅をひっぺがし脚をへし折り臓物を抜き出し、天然記念物もなんのそのの大虐殺を行っていた。

妊婦セット(モザイク済み)カブトガニ

 あんまりの豪雨なので、これ以上の観光は中止し、Tさんの運転でハノイへ。雨は途中二度ほど激しくなったが、ハノイに近づくにつれ小降りになり、市街地に入るとやんでいた。
 ダイウーのスナックで軽く食事をし、ホテルに再度チェックイン。
 まだ時間があるので、ホテルの近くの店で酒を仕入れる。ルアモイ一万ドン、煙草七千ドン(エヴェレスト)、ハリダビール五本で三万ドン、合計四万七千ドン。
 前に行ったタイでもそうだが、ここベトナムでもルアモイのような地酒は日陰に追いやられている。二十年ほど前の日本におけるどぶろくか焼酎のような立場だ。
 たとえば、シティマートのようなおしゃれな高級スーパーには置いていない。どうやら、こういうものは飲んだくれのオヤジが飲むものだ、外国人はビールや輸入ワインを飲むもの、と思っているらしい。
 ハノイでもバンコクと同じように、そういう酒をくれ、と言った外国人(私のこと)を、一瞬不思議な目で見る。国籍が違うだけで、まさに私こそ飲んだくれのオヤジそのものなのだが。

 夕食はフエ料理レストランの「バンズァン」へ再チャレンジ。
 味はともかく、サービスの質が落ちたともっぱらの噂。現に店内を子供がはしゃぎ回ったり、店員にヌックチャム(ベトナムの代表的なつけダレ。ヌクマムに塩、砂糖、唐辛子、ライムを加えて作る)を頼んでもわからなかったり、トイレのタオルが使い古しのまま放置されていたり。
 ベトナム風お好み焼きのバインセオ、ベトナム風もんじゃ焼きのバインベオ、ベトナム風クレープのクォンフエ、ベトナム風ちらし寿司のコム・アン・フー、ベトナム風ソーメンチャンプルーのミエン・サオ・クア、などいただく。なんだかでんぷん質ばかり食べているようだ。


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