出発まで

 ベトナムに行くことになった。
 もともとは一昨年行くはずだった。同行者の都合がつかず、やむなく変更してタイに行ったのだった。
 今回はリベンジ。とほうもなく強力な相方が、同行してくれるのだ。なにしろ夫君がベトナムはハノイに駐在し、自身も三年間ハノイに住んでいたという人物だ。ベトナム語も喋れるという。高級レストランから場末の屋台まで詳しいともいう。まったく、心強い限りである。

 私のベトナム知識のほとんどは、「人間の集団について」(司馬遼太郎:中公文庫)という本に依存している。ちょっと古い本(ベトナム戦争中)だが、「ベトナムではネズミを食う」「蛇も食う」「李白とユゴーを祀る新興宗教がある」「ベトナム人にとって金がすべて」「ベトナム人はいい人が多い」などの私の偏見は、すべてこの本から仕入れたものです。
 あとはベトナムといえば、ベトナム戦争関係の知識しかない。ホーチミン、ゴジンジェム、グエンバンチュー、グエンカオキ、ディエンビエンフー、カストリ将軍、枯葉剤、ベトちゃんドクちゃん、「地雷を踏んだらサヨウナラ」、すっぱだかで泣きながら走っていた女の子の写真、などなど。そういえばあの女の子、成人してから日本に来たことがあるらしい。そこであの写真を見せられたそうな。残酷なことをするものだ。
 その後といえばボートピープル。社会主義に反抗して逃げ出したベトナム人たちだ。あれが大量に日本に流れ着いたころ、アグネスチャンが「ぼくの海」という名曲をリリースしたことを知る人は少ない。80年頃だったかなあ。90年代になると、ベトナム人じゃなく蛇頭による中国密航船が主流となったんだよなあ。
 ベトナム戦争終結、ベトナム統一後も、ベトナムは揺れ続ける。カンボジア内戦への介入、ポルポト派を支援する中国との対立、そして中国との国境紛争など。戦火はやまず、国民は貧しかった。
 そのころの有名な小話がある。

 統一後のベトナムを見たくて、ホーチミンは天国からベトナムにやってきた。ホーおじさんを、ベトナム政府の首相は暖かく迎える。ホーチミンは、首相に尋ねる。
「私の教訓を、君たちはどのくらい達成したかね」
「すでに三分の一は達成しました」
「ほほう、それは優秀だ。どんな具合にかね?」
「偉大なるホーチミン、あなたは『自由と独立ほど尊いものはない』とおっしゃいました」
「うむ」
「だから我々は、とりあえず後ろの『ものはない』という部分から達成しました」

 しかしドイモイ政策がとられ、この小話もいつの間にか消えてしまったらしい。いまのベトナムは、金さえあればなんでも手に入るらしい。そして昨今の日本でのベトナム雑貨、ベトナム観光ブーム。日進月歩、ほんの数ヶ月で町の相貌が変わってしまう国、それが今のベトナムらしい。

 知ったかぶり文化論の大言壮語はそのくらいにして、まずは航空券を手配せねばならぬ。
 最初は相方にまかせていたのだが、行った航空会社ではどうにも満杯、もはやバンコクまで行ってカオサン通りでベトナム便を手配するしかない、などと泣き言を言ってきた。そんなわけで私もネットで検索し、片っ端から旅行代理店に連絡したのだが、……あかんわ。
 ハノイに入ってホーチミンから出るつもりだったので、ホーチミンしかアクセスのないベトナム航空は、当初除外していた。あとは値段がやや安めの、台北経由アシアナ航空とか、バンコク経由タイ航空とか、クアラルンプール経由マレーシア航空とかを狙っていたのだが。これなら、六万円前後で売っているし。しかし、みごとに売り切れ。
 みんな、台北までは行けるがそこからベトナムへの席がない、バンコクまでは行けるがそこからベトナムへ行けない、クアラルンプールまでは行けるがそこからのベトナム便が満杯。いったいいつから、こんなにベトナムは大人気になったのだ。
 やむなくバンコクまでの便を買って、そこから運を天に任せようと思ったのだが、下位御三家の航空会社はイヤと、相方は言う。
 下位御三家とは、格安航空券の中でも群を抜いて格安、安かろう悪かろう保証なかろうをモットーとする、ビーマンバングラディシュ、エアインディア、パキスタン航空の三社である。確かに、私だってこの飛行機には乗りたくないよ、金さえあれば。シートは倒れないし、イヤホンは壊れてるし、どこからか謎の液体が漏れてくるし、乗客はみんな小汚いし。でもね、この三社なら四万円でバンコクに行けるのだ。しかもバッグパッカー御用達だから、三十日FIXとか二ヶ月オープンとか、行きと帰りの期間が長いのだ。これが他の会社だと、たいがいが十日FIXだ。これでは、二週間を予定する今回の旅行には使えない。かといってオープンチケットとなると、六万円を軽く超すのだ。御三家とは二万円以上の差が出るのだ。
 と、理路整然と反論してみたのだが、
「イヤ」の一言。
「しかし、現実としてこれ以外に方法はないし……」
「汚いのイヤ。臭いのイヤ。ボロいのイヤ。インド人イヤ。アラブ人イヤ。バッグパッカーイヤ。臭い人イヤ」
「それは名誉毀損寸前というか、名誉毀損そのものといっても過言ではないぞ。それに他の航空会社では、明らかに三万円近く高くなる……」
「イヤ。ぜっっっったいにイヤッ」
 やむなく断念。

 最後の手段はベトナム航空。ホーチミン往復便が九万弱と割高だが、その代わり国内線割引の特典がある。普通に買えば二万五千円くらいするホーチミン・ハノイ間の航空券が、約半額になる。というわけでいろいろ探してみて、ベトナムの老舗、ピースインツアーで予約。成田・ホーチミン往復が八万九千八百円。ホーチミン・ハノイ往復便が一万三千円。どこの旅行代理店も、だいたいこのくらいの値段らしい。

 ホテルも相方にお任せ。
 とはいうものの、ホテルの所在地を知っておいたほうが、近所の定食屋とかコンビニとかの見当がつけやすい。それに方向音痴の私としては、だいたいの地理を頭に入れておきたいので、電話して聞いてみた。
「ホテルは、どんなとこにしようと思ってるの?」
「ええと、ホーチミンは、ソフィテルプラザサイゴン。ハノイは、ダイウーか、でなけりゃハノイホテル」
 げげっ。どれも超がつく高級ホテルだ。ソフィテルプラザは一昨年オープンしたばかりの、アメリカ大使館向かいにある高級ビジネスホテル。国際会議とか学会が行われるところだ。ダイウーはこないだクリントンが泊まったホテルだし、ハノイホテルは村山元首相が泊まった(誤解を避けるために特記しておくが、下痢して脱水症状になったホテルではない。あれはナポリ)。私の乏しい持ち金で大丈夫なのだろうか。はたして。せ、背広とか着ていった方がいいのかな。おろおろ。と煩悶してたら、
「そうそう、途中から友達のKさんが参加するから。そしたら部屋がいっぱいになるから、あんた、場末のホテルに泊まってね」
 と。嬉しいやら情けないやら。

 ついでに現地ツアーも相方にまかせる。
 サパという村から、少数民族の住む山岳の村を訪ねるツアーが出ているのだそうだ。ハノイから列車で出発し、だいたい二泊三日くらい。これに行きたいのだという。私も行きたいので、了承した。
 このツアーはいろんな旅行代理店から出ているが、どうしてもビクトリアというホテルで出すツアーに参加したいと、H氏は言う。ビクトリアはサパで唯一の超高級ホテルで、室内は清潔だし、ベッドがじめじめしてないし、浴室にカビが生えてないし、いいことづくめだという。おまけに送迎はホテル特注の専用高級車両。コンパートメントは綺麗でふかふかのソファでベッドも清潔と、まさにゴージャスなツアー。それだけに、他のツアーが五十ドル前後の値段なのに対し、このツアーだけは二百ドル近くする。
 ところがこのツアー、希望する日の分はすでに満杯だという。
「仕方ない。他のツアーにするか。ま、ホテルの質はちょっと落ちるが」
 と、私は慰め半分、他のツアーの方が安く上がる嬉しさ半分で言うのだが。
「やだやだやだやだやだ。ビクトリアのサパじゃなきゃヤダ」
 と駄々をこねる。てめーはガキか。
「他のホテルは汚いもん。汚いし虫が出るもん。ビクトリアじゃなきゃやだ」
「そりゃ、田舎に行くんだから、虫とか汚いのは覚悟の上だろ。旅は不便に耐えることが……」
「やだやだやーだ。田舎行きたいけど汚いのも不便なのもやーだっ」
「それにしたって、満杯なものはしかたない。それとも諦めるか?」
「やーだやだやだやだ。どーしてもビクトリアのサパ行きたい。あんた、直接ホテルにねじ込んで粘りなさいよ」
 と、とんでもないことを言う。ガキより始末に悪い。わ、私にホテルにねじ込むような、そんな高級な英語が使えるとお思い?
 やむなく我々は日程をずらし、翌週のビクトリア・サパツアーにめでたく申し込めたのであった。おかげで帰国が二日延びた。ま、その分ハノイでのんびりできるけど。

 持ち物にはたいして苦労しない。いつものように、くたびれた衣類を安物のカバンに詰め込むだけ。あとは日記帳代わりのモバイルギアとデジカメ。Tシャツなんかは現地で買えばいいし。
 と思っていたら、相方から電話がかかってきた。
「あのね、トレッキングに行くから運動靴と、あと市内を歩くサンダルを持っていった方がいいよ。できればホテルのフィットネスで使う運動靴も。長袖のシャツとウインドブレーカーもいるかな。ズボンの替えは二本あるといいよ。あと帽子もいるかな。洗濯洗剤と虫よけと日焼け止めも必要だと思うよ」
 どうやら相方は「すべて日本から持参する派」らしい。私のような「現地調達派」とはまっこうから相反する主義である。補給に関する思想が、アメリカ軍と日本陸軍くらいに違う。まあ、現地調達主義は、日本軍がインパールで苦しんだように、往々にして深夜パンツを求め徘徊する悲惨な状況になりがちなのだが。
 さらにこの相方、ベトナムに知り合いが多いので、やたら持ち込むらしい。
「ねえ、あんた持ち物、少ないよね。重量どれくらい?」
「いやまあ、モバギとデジカメ、あと本とちょっと衣類で、五キロそこそこかと」
「よかった。あたしの荷物、ばかでかいスーツケースに入らないんで、あと段ボール二箱くらいになるかな。半分あんたの荷物にしてね」
 おいおい、あんたジャパゆきのフィリピーナねえちゃんの帰省か、とツッコミたかったが幸い口には出さず、冷静になって話を聞いてみると、前回の渡航では超過料金二十万円払ったとか。
 それも無理はない。たとえば前に勤めていた車の運転手がいると、その運転手にシャツを贈る。それは当然だが、運転手の奥さんにスカート、長女にキティちゃんグッズ、長男にドラえもんのシャツ、次女にアンパンマンよだれかけ、叔父さんにネクタイ、叔母さんにエプロン、甥っ子にボールペン、出戻りの妹にスカーフ、妹の愛人にハンカチ、遠縁のお爺さんにタバコ、生き別れのお兄さんにベルト……てな具合に贈っていくらしい。その調子で対象者が、運転手、お手伝いさん二人、アパートの管理人、ビルの警備員、ホテルの従業員、オフィスの掃除婦、屋台のおばさん……とわらわらいるのだ。あんた、サンタクロースか。
 だんだん、この相方と一緒に旅をするのが怖くなってきた。そして荷物を持たされるのが、さらに怖くなってきた。ベトナムという国も、怖くなってきた。

 社会主義国だけに、ベトナムには持ち込んでならない物があるらしい。共産主義を批判するような内容の本、ビデオは持ち込み禁止らしい。では共産主義ならいいのかと思い、相方に問い合わせた。
「あの、上海で買った、毛沢東の肖像がついてて、開けると東天紅が流れるライター、あれをベトナムに持ち込みたいのだけ」
「駄目」
「じゃああの、毛沢東語録とか劉少奇語録と」
「駄目」
 瞬時に却下されてしまった。カンボジア内戦以来の中越紛争で、ベトナムと中国はずっと仲が悪いのだ。やむなく、これならいいだろうということで、トロツキー「わが生涯」を持ち込む。暇なとき読むつもり。

 そしてビザの手配。
 社会主義国だからなのかしらないが、ベトナムに行くには、中国と同じようにビザが必要となる。旅行代理店に依頼すると一万円くらいかかるらしいが、ここもベトナムにコネのある相方にお任せした。
 なんでも、相方が言うには、
「大使館にビザ申請に行くと、四千円とか請求されるけど払っちゃ駄目。申請料はベトナムで払っているはずだから。ベトナム人は給料安いから、日本人が行くと金を請求するのね」
 ううむ恐るべしベトナム人。日本国内でもショクナイするか。
 それはそれとしても、この相方、大使館以上に恐ろしいのであった。
 まず、雨が降った買い物に忙しいといって、なかなかビザを取りに行かない。出発の十日前に問いつめると、
「大丈夫。FAX送ればすぐに取得できるから」
 と、てんで楽観的。そのまま、ついに出発の前週になってしまったが、
「うん、もうFAX送った。今週中にはビザが出来上がるから、ちょっとパスポートと写真をよこせ」
「ど、ど、ど、どうするのですか。私も大使館に出頭するんじゃないんですか」
 恐怖のあまり、思わず丁寧語になってどもってしまうが、知人は容赦しない。
「わざわざ行くこともないよ。パスポートと写真さえ提出すれば」
 ついにパスポートを巻き上げられてしまった。なんか、日本国内にいながら現地のインチキガイドに騙された気分。それにしてもパスポートは、貴重な身分証明だぞ。あれがないと成田空港にも入れないし。
「そ、そ、そのパスポート、いつ返していただけるのですか?」
「大丈夫。今週中にはビザが下りるから、土曜日にはビザと一緒にして渡す」
 ところが土曜日になると、
「ちょっと遅れてね。ビザが月曜日になるので、パスポートは来週渡す」
 月曜日になると、
「今から取りに行くところなのよ。大丈夫。あした、成田空港でね。大丈夫。ぜったい大丈夫」
 おおおおおおおおおい。大丈夫か? あああああ明日だぞ出発は。万が一ビザが下りなかったら、航空券なんてカミクズだぞ。パスポートがなかったら成田に入れないぞ。いったいどこで待ち合わせするつもりだ? なんだか、物凄く不安になってきた。とりあえず、あした、成田空港のパスポートチェックを、オレはどうやって通ればいいのだ。


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