暑い国の冷たい眼

6月7日(土)
 夕方四時に成田空港集合。
 SARSの影響があるのかないのか、成田空港はやや人が少ない。甲子園球場なら二万七千人というくらいの入りか。土曜日ということを考えれば少ないような、観光シーズン外であることを考えれば正常なような。
 マスクをしている客は全体の一割といったところか。中にはマスクと白手袋という、念のいったいでたちの女性もいる。もっともこの女性、タンクトップとホットパンツで肌は露出しまくり、警戒心があるんだかないんだかわからない。
 そんな中、空港売店では「SARS対策セット」と称してマスクとイソジンうがい薬と除菌ウェットティッシュを1280円で販売。やはり商魂はなにものよりも強い。

予防効果はあるかどうか

 六時に定刻通り成田を離陸。今回の航空会社は、なんと全日空である。格安ツアーだから、てっきりビーマンバングラディシュかエアインディアかパキスタン航空か、よくて中華航空か大韓航空かと思っていたのだが、なんと天下の全日空である。これもきっとSARSのおかげだろう。SARS効果。SARSさまさま、SARS大明神である。もうSARSに足を向けて寝られない。
 さすがは天下の全日空、シートもちゃんと倒れるしスクリーンもちゃんと映るしヘッドフォンもちゃんと聞こえる。ただ残念なのは、プログラムのトラブルが起きて、映画が途中で止まったりリアルタイムニュースやミュージックが放映不能になっていたことだ。この原因は、悪天候のためとか全日空の不手際というよりも、むしろ全日空がタイ化しつつある証拠と好意的にとらえたい。

 おかげで「ディア・デビル」という映画を三回くらい繰り返して見た。どうやらアメコミのスーパーヒーロー物が原作らしい。
 アメコミのヒーローというのは、化学実験のときへんな薬品を飲んで身体が緑色になったり、宇宙線を浴びて細胞が五千百度の熱を発するようになったりというような、とんでもないムチャクチャな設定のものが多い。これもそのひとつ。幼いときに放射性物質を浴びて盲目となったが、代わりに常人の数百倍の聴覚や身体能力を手に入れた男が主人公。それだけでもとんでもないが、そいつ、昼は盲目の人権弁護士として貧しい人や報われない人を助けながら、夜になると覆面をかぶって徘徊し、法の網をくぐり抜けた悪党どもを殺してまわる。なんだかなあ。
 などといいながら結構楽しめた。あれ、日本人が作ったら、ぜったい主人公はテレパシーやサイコキネシスが使えることにするだろうな、昼間の弁護士のときはわざとドジを踏んで、階段で転んだりマスタード入りのお茶を飲んで吹いたりするだろうな、などと思いながら見ていた。

 機内食はたいしたことなかった。フィリピン風というのかなんというのか、辛さもコクもなんにもない、ただ黄色いだけのチキンカレー。粘土をこねあげたような味だった。あと、茶そばとケーキ。
 それより特筆すべきは、機内食のトレーだ。いままで見た格安航空会社の機内食トレーといえば、お盆の上に丸や楕円や長方形の器を並べただけだが、全日空の器は、微妙に形がゆがんでいる。角をちょっと削っていたり、肝臓形や勾玉形だったり。その微妙な形を絶妙に組み合わせて、かっちりとトレーの中に収まるようにしているのだ。その絶妙なこと、いちどひとつの器を取り出したら、二度と元通りに戻せないほどだ。さすがは全日空、世界に冠たる繊細かつ名人気質の日本職人魂がうかがえる。
 しかし、こういう器の形にこるなら、料理にももっと精魂を傾けてほしい、と思う。
 フォークやスプーンは金属製なのに、ナイフだけプラスチック製なのは、テロの警戒なのだろうか。肉切りナイフで乗務員を脅迫するハイジャック犯がいたら、いちどお目にかかりたいものだが。

 夜の十時過ぎにバンコク到着。前回の残りが六百バーツあるが、念のため五千円を両替する。1721バーツ。
 これからいつもなら、タクシーだバスだと市内への移動に苦しむところだが、今回はツアーでホテルまでの送り迎えがあるのだ。しかし、その出迎えらしい人が見つからない。JTBとか近畿日本とか、別の会社のプラカードを持っている人はいっぱいいるのだが。
 うろうろと捜していたら、向こうから声をかけてきた。よく見たら、その人、画用紙に細いボールペンで「STW」と書いていた。それ、見えないよ。
 今回のツアー参加者は6人。私以外は、すべてうら若き女性である。女性二人組が2組、ひとり旅の女性がひとり。
 女性陣は、私をうさんくさげに、時折ちらちらと見る。ぺらぺらのズボンに安物のシャツ、無精髭にしか見えないムーア髭をはやしてデイパックを背負った中年男、うさんくさげに見られることには慣れている。しかし、それにしても、視線が冷たい。この摂氏35度のバンコクの中で、私に向けられた視線だけが氷点下である。
(どう見ても、まともな人間じゃないわね)
(こんな時期に休みがとれるなんて、無職かバカかどっちか、いや両方ね)
(こないだテレビで見たことがあるわ。カオサン沈没組っていうのよこーゆーの)
(こーゆーのが日本人旅行者を騙して睡眠薬を飲ませて金を強奪したり犯したり殺したりするのよ。気をつけましょうね)
(もう、旅行目的なんかミエミエね)
(日本じゃモテないもんだから、アジアで札ビラ切って女を買いあさるのよ)
(どうせソイカウボーイで女を買ってホテルに連れ込むんでしょ。やだわー、こんなのと同じホテルなんて)
(それかマッサージパーラーで幼女を買うのよ。女性の敵、いや人類の敵ね)
(さっきホテルに置いてたパンフレットを熱心に読んでたけど、あれ、すごいわ。「ヨーロッパ系アジア系ロシア系の美男美女、ロリータから美少年、熟男熟女まで、あらゆる厳選されたハイクラスな男性女性をご紹介いたします」「美少年稚児さんタイプ、ムキムキ筋肉マンタイプ、レディボーイタイプ、あなたのお好みに応えるハンサムメンが貴方のを電話お待ちしております」「毎週ヘルスチェックを受けている、英語のできる魅力的なタイ及び外国の男性女性が、あなたの望むところどこへでもお伺いいたします」「タイ古式マッサージ、スーパーオイルマッサージ、ボディトゥーボディマッサージなど、美しいマッサージ師によるタイ最高のマッサージエンターテイメント」なんて、あやしげな人材派遣やマッサージの広告ばっかりだったわ)
(きゃー、今晩さっそく電話するのかしらー。考えたくないわねー)
(えーマジ、男同士?)
(男同士が許されるのは小学生までよねー)
(キモーイ)
(キャハハハハハハハ)
 違う、誤解だってば。そうじゃないんだってば。私は原理研よりも純潔であり創価学会よりも貞操観念のある人間なんです。本当です。日本でもキャバクラにさえ行ったことがないくらいなんです。ほんと、潔白だってば。このパンフレットも、ふつうのガイドブックと思って取ったんだってば。読んでたのは、ネタにしようとしただけなんだってば。
 と無実を叫ぼうとしても冤罪を訴えるひとに世間の眼は冷たく、バンコクの空気はあくまでどんよりと熱い。お願い、助けてディアデビル。

 ホテルの部屋にもぐりこんだときには、もう十二時を過ぎていた。ホテルの前にたむろしている屋台も、ほとんど店じまい。さいわい三分ほど歩いたところにコンビニがあるので、ビール、メコン、煙草、ネーム(豚肉と唐辛子などを発酵させたソーセージ)などを仕入れる。
 そのとき妙な飲料を見つけたので、つい買ってしまう(写真下の左)。
 ビールのコーナーに並んでいるからたぶんビールだと思うのだが、雄牛のマークの妙な瓶。ラベルに書かれているのはすべてタイ語なので、飲んでみないとわからない。コップに注いでみたが、色はビールに似ているものの泡などまったく立たない。酢のような臭いがする。飲んでみると甘ったるい。化学合成のクエン酸と安い酢と気の抜けたファンタレモンを混ぜて三日くらい室温で放置したような面妖な味がする。いったいこれは何なんだ。どなたか、ご存じではござらぬか。
 とりあえずビールで口直し。ネーム(豚肉発酵ソーセージ)を肴に飲みながら寝る。

左から謎の酢飲料、メコン、レッドブルというタイのスタミナドリンク
注。スタミナドリンクはなんとなく試しに買ってみただけです。他意はありません。けっして目的あって買ったものではありません。信じてください。潔白だってば。助けてディアデビル。


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