出発まで

 妙なきっかけからバンコクを再訪することになった……と、書くのはもうやめにしよう。と、日記には書いておこう。<というフレーズを覚えている人間がどのくらいいるというのだ

 きっかけはSARSである。謎の肺炎がアジアを席巻しているのは、みなさまご存じだろう。三月頃はパニックが凄かった。中国、台湾、香港、ベトナム、シンガポールはおろか、すべての外国への旅行客が肺炎感染を恐れて続々とキャンセルしていた。
 そのころ私は、とある参加メーリングリストに、大略次のような文章を投稿した。
「こうなったらきっと、旅行代理店は大幅なダンピングをしてくるでしょうね。ああ、どっかに格安のツアーが出ないかなあ」
 この天をも恐れざる言動はたちまち天罰をくらい、厳しいML参加者によって次のような批判がなされたのであった。
「どんなに安くても、私は行かない。自分が危険なだけでなく、周囲を危険に巻き込むような行動をとる人間は、公徳心がないと言われてもしかたがない」
 まことにごもっとも。

 ところが冗談から駒が出た。さる旅行代理店から、まことに格安のツアーの案内が送られてきたのである。
 なんとバンコク5日間フリータイムで29800円。六月はタイでは雨期で旅行シーズン外であることを考えても、この安さは尋常ではない。なにしろ往復の航空料金、三泊のホテル料金、それから空港とホテルの間の送迎サービスがついてこの値段である。
 公徳心のない私は、得たりや応というか、渡りに船というか、干天の慈雨というか、猫にマタタビというか、西崎さんに酒というか、徳田さんにエロゲーというか、kasumiさんに尋常でない服というか、しゃあさんにあんぱんというか、Jasminさんに包茎患者というか、瑠架さんにバーンというか、yadonさんにカレーというか、おがたさんにマジスパというか、louさんにインディというか、くろさんに兄者というか、くたさんに南の海というか、みやちょさんに駄洒落というか、MICKさんに子供というか、りねさんにチワワというか、つぼかわさんにキャバクラというか(ニュークラブ不可)、まあそういった蒙御免な感じでとびついたのであった。ごめんね、公徳心がなくて。公徳心なんてないのだよ私は。<けっこう恨みを引きずるタイプなのです私は

 残念ながら、今回は旅行の相方が見つからなかった。暇そうな人間に話をもちかけてみたのだが、どれほど暇そうな人間でも私ほどではないらしく、すべて断られてしまった。そのため一人部屋料金九千円が追加されてしまったが、それにしても安い。
 しかし実はそれよりも、一人旅となった今回には問題があるのであった。
 考えてみればこれまでの私の海外旅行には、上海における母、フィリピンにおけるE夫妻、ベトナムにおける相方、バンコクにおけるしゃあさんの如く、庇護してくれる存在が不可欠なのであった。とくにベトナムの相方とバンコクのしゃあさんは、私を地母神のごとく包み込んで守ってくれる存在であった。子宮の羊水のようなその居心地良い存在にくるまれているかぎり、そこには値切りもチップもボッタクリもひったくりもまずい飯も存在しない。さながら慈母の懐に抱かれた嬰児のごとく、私は安心しきって過ごすことができたのである。
 しかしひとたび地母神の庇護から離れた私はどうなるか。たちまちにしてタクシーの運転手には騙され違うところに連れていかれシクロの運転手には拉致され金品を強奪され裏道のチンピラには眼鏡を奪われトゥクトゥクの運転手には宝石を売りつけられ商品は相場の三倍で売りつけられ行きたくもない地下室で拳銃を撃たされて巨額の請求書を突きつけられスリには財布を奪われバーミーナムにはパクチーが少なくソムタムには沢ガニを入れてもらえずフィリピンの飯はまずいという、ありとあらゆる悲惨な目に逢うのだ。神に見捨てられたアダムとイブの悲惨な運命を描くミルトンの「失楽園」も真っ青というありさまなのだ。

 さて、私は生きて帰ってこられるのだろうか。

 きっかけがきっかけだから、今回は特に目的はない。どうせタイは雨期だから、あちこち歩き回ろうとしてもうまくいかないだろうし。
 ただ強いていえば、果物を食うのが楽しみだ。雨期は植物が生育する季節。特に今ごろのタイは、マンゴー、パパイア、スイカ、パイナップル、ライチ、ロンガン、ジャックフルーツ、フトモモ、マンゴスチン、ドリアンなど豊富な果物の旬である。
 特に期待しているのはドリアン。まだ食べたことがないのだ。あの数々の伝説を残した、その美味さと臭さ。はたして伝説は真実なのだろうか。
 と思っていたら、しゃあさんから連絡があった。しゃあさんはスパイになりきった口調で、きびきびと歩きながら私に命令するのだった。
「あなた、ひとりでバンコクへ行くそうね。まあその罪は帰国後に償ってもらうとして、まずはこれを買ってきて頂戴」
 私の手に渡されたものは、なにやら商品の抜け殻の袋だった。
「これ、私のお気に入りのフェイスケアなの。バンコクのどこかのスーパーで売っていたはずよ。12グロスほど買ってきてね」
「あの……せめてどの店で売っていたか……」
「うっさいわね! つべこべ言う暇があったら足を棒にして捜しなさい! いいこと、事件はここで起きているんじゃないの、バンコクなのよ!」
「はぁ……」
「もし見つからなかったら、……(にやり)わかっているでしょうね」

 さて、私は生きて帰ってこられるのだろうか。
 というか、帰ってきてからも生きていられるのであろうか。

 もうひとつ心配なことがある。
 プロ野球シーズン中に私が海外旅行をすると、出かけている間に阪神が墜落するというジンクスがあるのだ。
 おととしベトナムに行っている間には、それまでかろうじて四位争い戦線に踏みとどまっていた阪神が負け続け、ついに最下位の座を確保してしまった。
 さきおととしフィリピンに行っている間には、たしか首位だったはずの阪神が、なぜか五位にまで転落していた。
 今年はまあ、二位と10ゲーム差があるし、たかが5日の旅行中に首位から落ちることはないと思うが、それでもヤクルトに連敗、中日にもリベンジの連敗を喫し、首位陥落のお膳立てをするくらいのことはじゅうぶんあり得る。

 ああ、阪神はどうなってしまうのだろうか。


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