出発まで

 妙なきっかけからバンコクを再訪することになった。え、もうこの書き出しは飽きた?

 年内の仕事の見きわめがついたのが十二月初旬。もう年内の仕事はないという、かなり暗い見きわめである。せめてなんとか年明けからの仕事を確保すべく奮闘していた。こちらのほうも難航する。見とおしが暗い。
 暗い話が続くと、ひとは自暴自棄になる。
「ええい、こうなったら海外にでも行ってこましたろか。どうせ暇だし」
 と酒場でわめいていたところ、隣で呑んでいたしゃあさん
「そゆことなら、一緒につきあってもいいよー、バンコクなら」
 と言ってくれたのである。いいのか自暴自棄の道連れで。太宰治といっしょに旅行するようなもんだぞ。いや、坂口安吾かも。酒乱だし。暴れはしないが。壇一雄かな。女は作らないが。織田作之助はどうだろうか。まだ喀血しないが。よく考えたら何もしないな。これもまた情けないぞ。それにしてもしゃあさん、人生捨ててないか。まだやり直せるぞしゃあさん。

 仕事計画に難航したと同じく、旅行計画も難航した。
 すべては私が悪いのだ。仕事の計画が定まらぬからいかんのだ。いつから出かけられるというスケジュールがなかなか決められない。電話連絡や面接などであっという間に時は過ぎ、ようやく来週から出かけても大丈夫となったころには、すでに世間では旅行シーズンに突入していた。
 三万円台だった格安航空券はとうに四万台を突き抜け、ホテルも確保困難。しゃあさんに奮闘してもらい、ようやく航空券を確保する。
 中華航空タイペイ経由バンコク行き。往復で六万円強。
 中華航空というとアレである。事故率が他の航空会社の百倍であるとかいう噂の会社である。危険をスチュワーデスの制服のスリットでごまかしているという噂の会社である。こないだ名古屋で助手に操縦させて機体がひっくり返って乗客全員焼け死んだ事故は記憶に新しい。しかも会社からの弔問金が航空券と同じく格安だとか。まあ私の場合、死んでも困る人はおろか悲しむ人すらいないので、その点は安心だが。しゃあさんはいいのか。まだ考え直せるぞ。

 ホテルはしゃあさんお薦めのパトゥムワン・プリンセス。
 私が前に泊まって「王侯貴族のようだ」と感激していたナライホテルの三倍ほどの宿泊料金を誇る、文句なしの高級ホテル。きっと皇帝豪族のようなホテルなのだろう。ビル街のなかでもそびえたち、まわりを見おろすホテル。バンコクのショッピング街のど真ん中にあり、スカイトレインの駅から歩いて一分。おまけにコンビニも近くにあり、ビールやスナック菓子をすぐ調達できる。簡単にメシが食いたければ隣のマーブクロンセンターのクーポン食堂で、タイ料理からベトナム料理、中華料理、インド料理、日本料理、西欧料理、なんでも食える。夜になるとホテルの前に屋台が並び、ラーメンからサラダから焼き肉からイモムシまでなんでも食える。
 新聞の三行広告ふうに言えば、「環秀」「邸宅街」「買交至極便」「駅目前傘不要」「日当良」「上下水屋台完備」「冷暖房完備」「堅固築十年」「人黒山何必盛」「経験不問」「急募二名」「即日可」「委細面談」「安心即金」といったところであろうか。

 これほどの物件であるから、やはり混んでいるらしい。日本のホテル予約センターに問い合わせるが、初日と最終日は部屋を確保できないという。やむなく、ホテルに直接問い合わせる。こちらでは通して部屋を取れるらしいが、正規の料金(予約センターを通した場合の三割増しくらい)になってしまう。でもホテルの人は、「全日大丈夫ですから、その旨を予約センターに言って、そこを通すようにすればいいですよ」と言ってくれる。予約センターにまた連絡し、取れる取れないといってもめたりする。そしてまたホテルにに長距離電話をかけてホテルウーマンとかれこれ三十分口喧嘩する。
 などと偉そうに書いたが、これらの交渉はすべてしゃあさん。私は途中経過を聞くだけ。ううむ、三十分の長距離電話って、割引料とどっちが高いんだろう。
 しかしこういうときって、女性は粘るね。前回ベトナムに行った相方もそうだが、ダメと言われてもとりあえず食い下がってみるのね。私など、あっさり諦めてしまい、「すいません、無茶な注文出した私が悪うございました。ごめんなさい」とこそこそへこへこ引き下がってしまうのですが。いやこれは、私が諦めが良すぎるのであろうか。なにしろ人生を諦めている人間だからな。人生あきらめてるんだから、ホテルくらいどうってことはない。でもそんなあきらめきった人間とあきらめ道中することはないぞ、しゃあさん。このトラブルはひょっとすると、考え直せという神のお告げかもしれないぞ。まだ間に合う。あなたは諦めるな。

 バンコクに行って何をするかというと、さしあたって目標はない。強いてあげるとすれば、ショッピングだろうか。
 前回タイに行ったとき買った財布がこわれてきた。ナイキのロゴマーク付きの立派な財布だったのだ。いや、ナイキの財布というものが本当にあるかどうかは知らない。ウィークエンドマーケットで三十バーツ(約百円)で買ったものだもん。とにかくそれがあちこち破れてきて、使用に耐えなくなってきたのだ。そろそろ新しいのを買わないと。こんどは贅沢して五十バーツくらいのを買おうか。
 それからTシャツも少なくなってきた。前にタイで買ったTシャツは、首まわりがびよんびよんに伸びたり脇の下が破れたりして、何枚か捨ててしまった。新しいのを補給しなければ。
 しかしこうして海外旅行のときいつも思うのだが、私って日本でなにか買おうという発想がないなあ。日本で買うものは、本と酒と食い物だけ。

 そして旅行用の荷物をまとめる。
 今回は高級ホテルだから、パンツも奮発して四枚持っていこう。シャツはポロシャツ二枚と、Tシャツ一枚。あとは現地でTシャツを買えばいいや。替えの綿パン一本。靴下数足。寝間着代わりのボクサーパンツ。ホテルにプールがあるから、海パンもいるな。ビーサンはいらないか。征露丸とバファリンと風邪薬。しゃあさんが北朝鮮関係の本をリクエストしたから、文庫を四冊ほど持っていこう。それから方向音痴には必需品の、地図と磁石。あとはモバギとデジカメ。現地うろつき用のデイパック。これもあちこち破れてきたから、バンコクで買い換えたいな。
 それから料理セット。前回、市場やスーパーで、食品を購入したくてたまらなかったのだな。本当にするかどうかはわからんけれど、まあ準備だけ。というわけで十徳ナイフ、まな板シート、一人用コンロと固形燃料、小型の鍋。タイスキもどきやインスタントラーメンの試食くらいには使えるだろ。ナイフを除けばみんな百円ショップで仕入れたので、帰りは捨てて帰ればいいや。
 そして、現地で調達した食材をひそかにホテルで調理するおのれの勇姿を想像し、しばらく沈思黙考したあげく、私は胃薬を買いにでかけた。
 ということでかき集めた荷物。母親が置いていった旅行用キャリアバッグに入れたら、スカスカだった。ううむ、いつものように布バッグ(これも前回タイで購入)で行こうかしらん。それにしても世の旅行者は、どうしてあんなに荷物をいっぱい詰められるのだろうか。やっぱり広辞苑とか持っていくのだろうか。

荷物
注:上の方に見えているインディの割引券は持っていきません

 よく考えてみたら、十二月二十二日に出発して二十八日に帰ってくるこの日程、もろにクリスマス絡みなのだね。クリスマスの聖夜を南国の高級ホテルで過ごす男女。男が私でなかったら、さぞかしロマンチックなことでしょう。ごめんねしゃあさん。今なら考え直せるぞ。悔い改めてみるか。


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