昼食を責める

 何事もない月曜の12時。我々はいつものように昼飯を食おうと、外に出た。
 ここまでの行動にはなんら責められる点はないはずだ。12時であり、昼休みである。勤務時間外である。昼飯を喫することは、あまねくすべての労働者に認められた権利である。

 出かけたのはN主任、私、後輩の男性社員。これも責められるべき顔ぶれではないはずだ。ちょっとむさ苦しいが。いつもなら参加する課長は、今日は出張で不参加。これも彼を責められない。広島から秋葉原まで昼飯を食いに来いと命ずる権限は、誰にもないはずだ。

 我々は会社のビルのすぐ隣の地下にもぐった。ここのスナックは、昼間は定食を食べさせる。この行動は、照りつける日射の暑さに負けた結果であり、その情けない根性には問題があるかもしれないが、この弱さを責めることはできまい。

 スナックは混んでいた。我々と同じく弱い人間が多いためでもあり、定食600円という値段のためでもある。混雑の幾分かは訪れた我々のせいであるとはいえ、それを責める権利は、店にはない。「今ちょっと混んでるんですけどねー」と笑顔で対応してくれれば、昼食というものに確固たるポリシーを持たない我々は、すぐ退散する。

 とりあえず席に着いた我々は、注文した。N主任と私はカニタマ定食、後輩はソーメン。
 今後の悲劇の萌芽は、このソーメンであった。しかし、ソーメンを注文した後輩を、誰が責められよう。彼はシイタケが苦手であり、隣の人の食べていたカニタマには、表面に巨大なシイタケの薄切りが張り付いていた。彼の偏食を責める役は、彼の母親または愛妻に任せよう。

 注文は何事もなく通った。そのあと、次の人がソーメンを注文した。そのとき、注文取りのおばちゃんは、
「ソーメンはゆでる時間がちょっとかかるんですが、いいですか?」
と聞いた。
 確かに、我々にはそんなこと聞かなかった。間違いない。
 そのため、(ああ、さっき後輩が頼んだソーメンがゆで上がりの最後のソーメンだったんだな)と思ってしまった、我々の甘い判断、これを誰が責められようか。
 次にソーメンを注文した人は、
「じゃ、いいや。定食にして」
と変更してしまった。
 彼の安易な態度を責める権利は、ない。確かに彼はソーメンに対する真摯な態度に欠けている。しかし、彼はシイタケが苦手ではなかった。明らかに定食でもよかったのだ。それに、急いでいたのかもしれない。責められるべきは彼にゆっくり昼食を待つ時間すら与えない、この国の経済事情ではないでしょうか。

 我々の定食はすぐ来た。
 ソーメンはまだ来ない。

 そのうち、厨房から、
「さっきのソーメン、時間かかるって言ったけど、どうなったの?」
という声がした。
 ここで我々が厨房に直接返事すれば、この後の悲劇は防げた。しかし、それは我々の分際ではない。厨房との連絡は注文取りのおばちゃんの職務だ。職域を犯されたおばちゃんは、怒って労働監視局に訴えるかもしれない。そう思って、直接返答を差し控えた謙虚な我々を、法律は責めることはできまい。

 ソーメンはまだまだ来ない。

 厨房からは、「ソーメンはどうなったの?」という質問が再度発せられた。もちろん、我々は分際を守って、直接返答は避けた。これも責められまい。

 ソーメンはまだまだ来ない。

 そのうち、厨房と注文取りの間で諍いが生じた。
 どうやら、厨房側は、2人目のソーメン注文者のキャンセルをもって、ソーメンがすべてキャンセルされたと、思いこんでいるらしい。これも、忙しい身を思うと、無下に責める気にはなれない。これと同じようなミスを、むかしプログラムでやったような気もする。責める気にはなれないが、ソーメンは来ない。

 注文取り側は、注文書にちゃんとソーメンと書いた、そのあともう一つソーメンと書いて、そちらは消した、しかし消したのはひとつだ、残りひとつのソーメンを作るのは、あなたの義務ではないか、と主張している。
 厨房側は、この忙しいのにいちいち帳面など見ていられない、さっきから私はソーメンの注文について口頭で何回も問いただしているではないか、それにろくろく答えもせず私を責めるのは、あなたの責任逃れではないか、と主張している。
 この2人の論拠には、どちらも正当性がある。どちらかを一方的に責めて済む問題ではない。
 我々はどちらについたらいいのか。我々は裁判官ではない。口論の仲裁のために店を訪れたのでもない。ただただ、ソーメンが食いたくて訪れただけなのだ。この日和見な態度を、誰が責められようか。いや、責められない。

 論争はいよいよ熾烈になった。N主任は、ここで突如として、
「俺、午後から会議なんだ。すまんが、さきに帰る」
といってひとりだけ勘定を済まして出ていった。
 この態度に対しては、我々は責める資格が多少あるのではないだろうか。どうだろうか。

 ソーメンは来ない、論争はますます熾烈。ついに、

「馬鹿っ!」の一声。

 店内は静まり返った。さっきまでロッテの16連敗に関して、落合とか山本監督とか懐かしい名前を織り交ぜながら談笑していた会社員も、いまは黙っている。クロアチアの強さについて情熱的に語っていた若手社員も、アイスコーヒーをそそくさと飲み込んで、もう帰ってしまった。

 自分のひとことの絶大な効果に驚いたのだろうか、それとも怒りの爆発がカタルシスとなったのか、厨房と注文取りとの和解は急速に進んだ。まずはソーメンを作り、それを私の後輩に供することだ、と目標が一致したらしく、おたがい黙って仕事の遂行に集中した。

 ソーメンは、それから10分後に来た。
 冷やし中華のような、なかなか盛大なソーメンだった。

 後輩がソーメンを食い終わり、我々はレジに立った。
「すいませんね、みっともないところ見せちゃって。今回はお代は結構ですから」
 ははあ、いや、それでは、などという会話の後、1円も払わず出た我々を、誰が責められようか。
 そしてまた、無料になったいきさつを、N主任には黙っている我々も、誰が責められようか。


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