酒に呑まれ続ける人生
酒にはうるさい。
飲ませると多弁になって喧しい。
飲ませないと酒を欲しがって騒ぐ。
それだけの意味である。まるでアル中だな。
まるで、でなくて真正のアル中なんだが。
これまでに摂取したアルコールの総量はどのくらいになるか、計算したことはないが、今試算してみようか。
18歳から今までの16年間、年に300日、日本酒に換算して0.3リットルを飲むとする。
アルコール度数はやや高めだが10%とする。
すると 16*300*0.3*0.1=144リットルのアルコールとなる。
アルコールランプには大体50ミリリットルのアルコールが入ると思うが、約3000のアルコールランプをまかなえる。
つまり、私が酒を飲まなかったとしたら、その分浮いたアルコールで、6000人のカップルがチーズフォンデュを食える計算になる。
私の飲酒によって、6000人のカップルがフォンデュを食いはぐれ、不幸せになったことになる。
いわば6000人の幸せを飲み干したようなものだ。
チーズはどこから持ってくるのか知らないけれど。
また、医者が注射の前に患部を拭くアルコールが、1人あたり2ミリリットルとすると、約7万人に注射できるだけのアルコールを消費したことになる。
アフリカでは予防注射ができずに伝染病に罹って幼い命を落とす幼児が多いと聞くが、もし私が酒さえ飲まなければ、7万人の幼児が助かったということになる。
いわば7万人の命を飲み干したことになる。
薬品はどこから持ってくるのか知らないけれど。
こういう禁酒もどきの話をするつもりではなかった。
かように飲酒量を誇る私ではあるが、その内容については乏しい。
夢ワインがなんたら、ロマネコンティがかんたらという蘊蓄を語る材料が無い。
蘊蓄といえばワイン、と相場が決まっている。
裏口入団のあの江川ですら、ワインを語る御時世である。
交通事故を起こしておきながら、記者会見で白ばくれて、「また僕を陥れようとしている人がいますね」などとほざいていたあの江川にして、ワインを語る御時世である。
禁断のハリを打って、「もう肩が使えません」と言って引退しておきながら、直後のバラエティ番組でニコニコしながら140キロの速球を投げていた、あの江川さえ、ワインを語る御時世である。
いや、江川の糾弾をするのが目的ではなかった。
ワインの話である。
ワインについての私の知識は乏しい。
本を読んだりもしたのだが、ミュスカデだとかミュスカだとかコート・デュ・ローヌだとかコート・デュ・フォロンサックだとかアウスレーゼだとかトロッケンベッケンアウスレーゼだとか紛らわしい横文字の羅列に苛立ち、
「なぜアルザスワインがフランスワインに分類されているのだ!」
と政治的に危ない八つ当たりをしてしまう。
経験も乏しい。
飲む量は多いが、1本380円や2本1000円のものに限られる。
もっとも、友人とパリに珍道中に行ったときは感動した。
スーパーで転がしている1本200円くらいのワインでも、美味いのだ。
日本では4000円クラスの味がした。
このときの、「ワイン日本では値段20倍の法則」を信じこんでいるので、ますます日本では高いワインを買う気がしない。
ワインに次いで蘊蓄を語れるのはカクテルである。
私はこちらの知識も乏しい。
私にとってカクテルとは、「洋風居酒屋で出される、チューハイの焼酎の代わりにジンを投入した液体」である。
大概けばけばしい色をしており、店主の恣意によって、「ブランデンブルグの情熱」とか「マンハッタン・ブルース」とかの妖しげな命名がされている。
何故かチョコポッキーがマドラーの代わりに挿してある。
こういうのを頼むと、たいてい翌朝は二日酔いに悩まされる。
あんまりこんなところばかり行くので、たまにちゃんとしたバーに連れて行かれると、気後れがする。
気後れのあまり、バーテンダーに、
「ええと、ギムレットは作れますか?」
などと口走って同行者に殴られる。
バーテンダーは気を悪くする。
それはそうだろう。板前に向かって「鯵はさばけますか?」と聞いているようなものだ。
(今、この文句が洒落になっていることに気づいた。意識したわけではないが)
日本酒には、まだしも語るところがある。
久保田だとか菊姫だとか〆張鶴だとか上喜元だとか、美味い酒の銘柄も覚えている。
美味い酒を売っている店も教えてもらった。
しかし、日本酒は蘊蓄を語ることができない。
なぜなら、日本酒には再現性が無いのだ。
ワインなら貯蔵ができるから、「1972年のコート・デュ・ローヌは絶品だ」と言われたら、飲んで試してみることができる。金はかかるが。
カクテルなら「ゴードンのドライジン3にライムジュース1、ステアしてライム1切れを添える」というレシピで同じ酒を再現することができる。技量にもよるが。
しかし日本酒は貯蔵がきかない。いや、貯蔵はできるのだがそれは「古酒」という、別の味の酒になってしまうのだ。従って、「1986年が菊姫山廃の最上の年だ」と言われても、もうそれを確かめる術はないのだ。
つまり、日本酒論は科学たり得ないのだ。
日本酒について語る人が少ないのは、そのためかもしれない。
吉行淳之介といえば酒場と娼婦の権威、開高健といえばワインと釣りの権威である。
その両者が酒について語るといえば、さぞかし深い話が聞かれるかと期待する。
しかるに、日本酒については、
吉行「だけど日本酒の話題というのは非常に貧しいんだ。辛口と甘口で済んじゃうんだから。ワインみたいなあんな幅の広い話題はないわけで」
開高「それはやっぱりブドウと米の違いですね。基本的にね」
と、碌な日本酒を飲んでいなかったことを露呈してしまっている。
日本酒について、ちゃんと書いているのは、吉田健一くらいか。
日本酒は黙って飲め、ということか。
じゃ、今までの文章は、一体なんだったんだ。