女海賊の夏

 雲ひとつない青空。
 遮るものとてない空から、夏の陽光が容赦なく海に照りつける。
 鮮やかなコバルトブルーの空と、群青と藍碧が混じり合った海。
 その中でたゆたうちっぽけな黒、それがニーナの船だ。

「親方、北東の方角に船が!」
「船長と呼べい!」
 ニーナの指令のもと、黒い船は商船を追いかける。

 ニーナは女海賊。
 その顔立ちは勇ましく、凛々しい。
 右目は失ったが、左目の輝きは失っていない。
 男物のシャツをまとい、腰で裾を縛っている。
 シャツがはち切れそうなくらい胸のところが膨らんでいる、というのは嘘だ。
 男物のシャツでも、その女性らしい身体の曲線は隠せない、というのも嘘だ。
 そのなだらかすぎる曲線は、祖父から受け継いだサムライの血なのだろうか。

 あっさり追いつかれた商船は、大砲と銃剣の前に屈服した。
 ニーナは商船の船長に向かい、すらりと祖父の形見のカタナを抜く。
「有り金と積み荷を全部頂こうか。素直にすれば命は助けてやろう」
 細身の湾曲した刃がぎらりと凶悪に光り、小太りの船長は小刻みにうなずいた。

 ニーナは日陰でものうげにラム酒を呷り、部下の報告を聞く。
「ええと、金の部。金貨が三袋、ざっと二千クルサド。銀貨が七袋、ざっと千二百クルサド。銅貨が……」
「おまえ、鞭打ち百回」

 ニーナの前でずん胴とか胸がないとか幼児体型とか、それを連想させる文句や同音異義語ですら発言してはいけない。厳粛な海の掟なのだ。
「つぎ、積み荷の報告」
「へい……ええと、丁字が三バール、ニクズクが一バール、あとは調理道具ですね」
「調理道具の明細を」
「は……銀のナイフとフォーク、スプーンのセットが二百。調理用ナイフが五百。フライパン百。鍋が全部で三百」
「鍋はどういう種類だ?」
「ええと、中華鍋が百、ずん胴鍋が百……」
「おまえ、死刑」
「ひどいや、ひどいや、わざと言わせたな」

 泣き叫ぶ男が船板から真っ逆様に突き落とされたあと、見張りが上ずった声で叫ぶ。
「南から赤い船が高速接近中!」
「くそ、またあいつか」
 ニーナの船は必死に逃げるが、なにしろ赤い船は三倍のスピードで進む。勝負にならない。

「ははははは。私から逃げられると思っていたのか。ニーナ・サキイカ」 
 勝ち誇る赤い船の船長は、まだ若い。
 長い前髪をだらりと垂らした、にやけた男だ。
「おとなしく、わがイジューロ・ド・レイ一門の傘下につけ。そしてニーナ、君は私の嫁になるのだ!」
「ふざけるな! 誰がてめえの嫁なんかになるか!」

「ちょっとちょっと、親方」
「船長と呼べい!」
「あんまりレイを刺激しちゃいけませんよ」
「何しろあっちは大海賊。こっちは零細海賊。武器も人数も桁違いです」
「戦ったら負けるのは必至です。ここはひとつ……」
「レイさんもああ仰っていることだし」
「親方がレイさんの花嫁になれば、すべて丸く収まるということで」
「て、てめえら……」
「それに親方だって、満更じゃないでしょ。レイさんはお金持ちだし、男前だし……」
「あのな、レイの傘下になったら、お前らどうなるのかわかってんのか」
「われわれはレイさんの配下になって、海賊稼業を続けるだけですよ」
「あほ。向こうは海賊のエリートが揃ってんだぞ。あっちに行ったら、お前らみんな水夫に格下げだ。甲板磨きやマスト張りをさせられるのが関の山だ」
「船長! 戦いましょう!」
「われわれにも海賊の意地がある!」
「サキイカ一家の誇りにかけて!」
「当たって砕けろです!」
「…………」

 勇猛果敢な部下たちの大活躍により、さしもの大海賊レイの配下も浮き足立つ。
「ふん、今回は見逃してやろう。だが次は、きっと」
 レイの赤い船は、捨てぜりふを残して逃げてゆく。
「それまでに、せいぜい金魚運動でもしておくことだな。ニーナ・サキイカ」
「てめえ…………」

 闘い、船を走らせ、疲れ切った戦士たちを、ニーナはねぎらう。
「野郎ども、よく頑張ったな。ご褒美に私の弁当を食わせてやろう」
「べ、弁当?!」
 銃撃にも砲弾にも怯まなかった命知らずの顔に、おびえの色が走る。
 ニーナの弁当はやたらに量が多く、その上、どれもこれも椰子油で揚げている。ひたすら脂っこいのだ。
 激しい運動で疲れ切った人間にとっては、あまりにハードな試練だった。
 あまりに疲れた男たちの中には、舳先から嘔吐している者もいる。

 ニーナは甲板で仰向けに寝ころび、ただただ青い空を見上げていた。
 イルカが飛び跳ねる波の音が聞こえる。
 ニーナの夏は始まったばかりだ。


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