猿の手

 古今東西、人間の欲望というものは、果てしのないものだそうでして……。

「こんばんわ」
「ああ、お前さんか。まあこっち入り」
「ちょっと聞いて来たんやけど、お住持はん、なんや遠いとこへ行って来られたそうで」
「ああ、本山にちょっと行ってきたな」
「そこでお住持はん、なんやえらいもん貰ろてきたそうで」
「ああ、お前も聞いとったか。うん。本山の檀家筋でな」
「ちょこっとだけでよろしおまっさかい、見せては貰えまへんやろか」
「うむ、見るだけならよかろう。……これじゃ」
「うわ。宝石かなんかかと思てたのに、何でっかこのババッちい毛むくじゃらのもんは」
「これか。猿の手じゃ」
「サル?……お猿さん? エテ公? モンキー? マカク?」
「いろいろ知っとるな。その通りじゃ」 
「そんなもん、なんで偉そうに袱紗に包んで、こないに大事に」
「いやいや。この猿の手、ただの猿の手ではない」
「二十銭も取られましたか」
「そういう意味ではない。普通でない働きをするのじゃ」
「ははあ。これで背中掻いたら気色ええとか」
「いやいや。これに真心込めて祈ると、三度まで願いが叶うという、験のある手なのじゃ」
「へ?……願いって、それ、なんでも叶いまんのんか」
「うむ。心から願えば、どんな願いでも叶うということじゃ」
「そやかておかしいやないですか。そんな験のあるもんやったら、手放すわけがあらへん」
「いや、だから檀家の人は、もう三回願いを叶えてしもうたのじゃ」
「ほな、それ使用済み? 使いカス? クズ?」
「いやいや、その人の願いはもう叶えないというだけで、また別の人のものになれば、また三回願いを叶えるのじゃ」
「はああ。ほな、リサイクルするわけでっか。ペットボトルみたく」
「これこれ、ゴミと一緒にする奴があるか。そやがまあそういうことやな」
「ほしたら、例えばわいが念じたら、また願いが叶いまんのか」
「そうじゃ」
「それやったら、ちょっとだけ貸してもらう訳にはいきまへんやろか」
「いやあかん。これはどんな願いでも叶うという、恐ろしいもんじゃ。特にお前のようなおっちょこちょいに渡したら、どんなことになるやも知れん」
「そないな意地悪いわんと、すぐ返しまっさかい、ほなさいならー」
「あ、待て、いかんと言うに!」

 悪い奴もあったもんで、住職から猿の手をもぎとると、たたーっと自分の長屋まで、走って逃げてしまいました。
「ははあ、これが験のある猿の手か。そう見たら何や、霊験あらたかそうやな。毛並みもつやつやして、生前はよっぽどええ猿のボンボンやったんやろな。おい、こら、なんか言うてみい! こらエテ公!」
「やかましいわい! 早う寝さらせ!」
「うわ、隣や。大家のやつ、まだ起きとったんか。地獄耳とはあの爺いのことやろな。そやけど三回、願いが叶う、言うとったな。何を願おうかしらん。べっぴんな女子はんでも呼ぼかいな。いやいや、せっかく呼んでも、こんな汚い長屋、ウチいややわ、なんて逃げよるやろ。こんな汚い家やもんなあ」
「汚くて悪かったな! そういうことは、溜まっとる家賃払ろてから抜かせ!」
「うわ、また聞こえてもうた。この壁の薄さ、たまらんな。こんな家イヤや。でっかい家を願うか。でもなあ、わいの給金ではなあ。維持だけでもどもならんやろ。呉服問屋ゆうても、下っ端の奉公人やもんなあ。そや、わいが問屋の主人になれるよう、願いをかけるっちゅうのはどうや。ほしたらあそこの金も屋敷も呉服も、みんなわいのもんや。よっしゃ、それにしよ。放っといても女子はんが寄って来よるで。あらあ、新しい旦はん、いやあ若いし男前やし、ウチたまらんわあ、なんつって」
「やかましい! 色ボケで気でも狂ったか!」

 てな訳で大騒ぎしながら願をかけた男、次の日もいつものようにお店に出かけていきます。
「番頭はん、おはようさんで」
「ああ、喜ぃやん……いや喜八郎さんか。おはようございます」
「どないしましたんや、えらい堅苦しく。いつもみたいに、下っ端の分際で番頭より遅いとはどないな了見じゃとか、さっさと店の前に水でも蒔きくされとか、怒鳴りまへんのか」
「あんた……いや喜八郎さん、知りまへんのか」
「へ?」
「うちの旦那、昨晩遅くに、心臓麻痺でぽっくり」
「は?」
「その死ぬ間際に、何を思たのか、『わしの跡は喜八郎に継がせろ』と」
「ひええぇぇぇぇ!」

 ひょんなことで本当に呉服問屋の若旦那になってしまいましたこの男。ところが主人というのも楽じゃない。生地の買い付けやらお得意さまのお相手やらで一日中飛び回っていなければなりません。仕事が終わったら帰れるかというと、夜遅くまで帳面と首っ引きで銭勘定。一銭でも足りないとまた最初から見直したりして、なかなか終わりません。そんなこんなで数日が過ぎます。慣れない仕事でへとへとになって、やっと寝られると奥に引っ込んだのですが。
「うわー、こんなしんどいとは夢にも思わなんだ。えらいこっちゃ。旦はんちゅうのも、楽な商売やあらへんな。こんなん、願わんかったらよかった。あかん、気が遠くなりそうや。早よ寝よ」
「旦那様、旦那様」
「誰か呼んどるな。旦はん、旦はん! ……あ、わいのことか。何でっか。ああ、ご寮人はんやおまへんか」
「何を水くさいことを……今日からあなた様はこの家の旦那様やおまへんか」
「そうでしたな。しかしどないしましたんや、そんな厚化粧で」
「つまりお前とわたしは、夫婦も同然」
「へ?」
「死んだ亭主が申しておりました。喜八郎は有望な男、おまえはあの男と夫婦になって、この家をもり立てていっておくれと。さあ、今宵は初夜」
「ち、ちょっと、そんなアホな! ……なんぼなんでも、そんな婆さんと、わい、嫌や!」
「ああら、わが君」
 必死の思いで逃げ出した男、隠しておりました猿の手を引っぱり出して、
「頼んます。こんな生活、もう嫌や! 旦那を生き返らしとくんなはれ!」

 念じた途端、猿の手がぴくぴくっと動きますと、外の方から、なま暖かい風がすぅーっと吹いてまいりました。それと同時に玄関の戸を、とんとん、とんとんと、叩く音が。
「ひゃー。婆さんに追いかけられて、わい死にそうや。旦はんでっしゃろ、助けとくんなはれ」
 と戸を開けると、土と腐ったものが混じった、黴臭い、何とも嫌な匂いがぷぅーん、と。
「喜八郎か」
「ひゃ、旦はん、ち、ち、ちょっと、その格好」
「なに、墓場から舞い戻ったばかりゆえ、ちと汚れておるが子細ない」
「あ、あ、あの、め、め、目ん玉が……」
「眼窩より腐れ落ちての。年老いると腐敗が早いゆえ仕方ない」
「て、て、て……」
「うむ右腕か。墓場からこちらへ来る途中、犬に襲われての。無礼な犬じゃ。打ち殺してやった。けけ」
「だ、だ、だ、だ……」
「それより喜八郎。おぬしの代になって、売り上げが落ちておると申すではないか。けしからぬ。わしがこれからみっちりと、商法というものを教え込んでやる。マンツーマンでの。密着教育でな。けけけ」
「ひ、ひ、ひ、……」
「ああら、わが君。こんなところに。ささ、今宵は、しっぽりと……」
「いかんいかん。喜八郎にはこれから、わしがしっかりと教え込むのじゃ」
 右に厚化粧の皺くちゃ婆さん、左にどろずべぬるりの死人、右と左から不気味なものにくっつかれ、進退窮まった男、
「わ、わ、わいが悪かった。助けとくんなはれ!」

「オン アボキャベー ロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
「あ、あ、お住持はん!」
「うろたえるな。あの猿の手を、早う出さぬか!」
「は、は、はい!」
「南無本尊界会 南無大師遍照金剛 南無興教大師 かーっ!」
 とご住職が男の握りしめた猿の手に念を込めますと、ぱーっと霧が晴れたように気色の悪い空気が去っていきます。
「あ、旦はんもご寮人はんも、どこぞへ」
「うむ。気の毒じゃが亡者は亡者のおるところへ帰らねばならぬ。奥方もせっかくだから御一緒して頂いた」
「あ、あ、ありがとうございます!」
「わしの申したことが分かったか。人間には分というものがある。分際を超えて高望みすると、ときに恐ろしいものを産み出すのじゃ」
「へえ、肝に銘じさせて頂きました」
「店のことは、みなで話し合って、適当な主人を立てるがよろしかろう。お前は人の上に立つには向かん。人間には得手不得手というものがある」
「いや、わいは猿の手だけに、エテでおます」


戻る            次へ