牛乳(うしぢち)物語

 1853年、ペリーがアメリカ艦隊を率いて日本に来航し、恫喝同然の手段で徳川幕府を開国させたことは有名である。
 この翌年に結ばれた日米和親条約の条文にしたがって、1856年には駐日領事のハリスが下田に在住した。
 当時の下田は漁村が点在する寂しい村落で、とても街と呼べるようなものではなかった。そんな中でたったひとり(通訳兼秘書のヒュースケンはいたけれど)住みついた西欧人であるハリスは、さぞかし心細かったことだろう。南太平洋の孤島やニューギニアの食人部落に滞在する人類学者の比ではない。

 ハリスがもっとも困ったものは、食糧事情だった。
 真っ先に困るのは肉だろう、明治以前の日本人は獣肉を食わないから、というのは誤りのようだ。ハリスのもとには定期的に、猪、鹿、雉、山鳥など猟の獲物が届けられ、肉に関しては恵まれていた。また葡萄や柿などの果物にも恵まれ、日本酒もハリスは喜んで賞味していた。
 ハリスがもっとも困ったのは、牛乳だった。
 当時の幕府に提出された報告に、役人とハリスの問答が記録されている。

ハリス:西洋人は牛乳を飲まなければ生きていけない。ぜひとも牛乳を都合してほしい。
役人:牛は日本では耕作や運搬に使う大事な家畜で、その乳を飲むなどという奇体な行いをするものなどいない。そもそも牛の乳は子牛が飲むものだ。断る。
ハリス:ならば雌牛を連れてきていただけないだろうか。自分で乳を絞るから。
役人:先ほど申した通り、牛は大事な家畜である。その乳を飲むなどというおぞましい所業のために母牛を売るような日本人は存在しない。
ハリス:やむをえない。山羊で我慢する。山羊はいないだろうか。
役人:山羊など、この近辺にはいない。
ハリス:仕方がない。私が山羊を香港から輸入するから、それをこのへんの山に放し飼いしたい。
役人:とんでもない。そんなことをしたら、山羊が苗木や畑の作物を食い荒らすではないか。断じて許されない。
ハリス:放し飼いが駄目なら、領事館に繋いで飼うから。
役人:領事館内で繋ぎ置くのは、あなたの勝手だ。しかし友人として忠告する。山羊のごとき下等なる禽獣を邸内に飼うというような行為は、大亜米利加国の領事としていかがなものか。体面を著しく汚すものと思われる。ご一考願いたい。

 というような具合で、ハリスは結局、日本に滞在していた四年間、牛乳を飲めずじまいだったという。

 そもそも日本には牛乳を飲む文化が存在しなかった。隣りの韓国や中国もそうだ。中華料理の杏仁豆腐や野菜のクリーム煮は、清の時代まで存在しなかった。西洋人が伝えた料理らしい。
 その隣りのモンゴルとなると、牛乳や馬乳をさかんに飲む。馬乳を発酵させた酒もある。モンゴルから奥に入ったウズベキスタンやカザフスタンの遊牧民も、牛乳をそのまま飲んだり、蕎麦粉を入れて粥を作ったり、発酵してヨーグルトにしたりする。ずっと南に下がったアラビアの遊牧民も、ラクダや羊の乳を飲んだりチーズを作ったりする。どうやら動物の乳を飲む風習は、遊牧民族に特有の風習のようだ。西欧人も、おそらくアルプス近辺の半遊牧民から、獣乳の使用法を学んだのではないか。
 日本でも奈良時代から平安時代にかけて、牛乳を煮詰めて造ったヨーグルトのようなものを「醍醐」と名付けて賞味した、というような記録はあるが、これは上流貴族の贅沢にとどまり、一般にはまったく浸透しなかった。どうやら、おそらく西域かモンゴルの食文化が、唐を経由して伝わったものらしい。
 ともあれ文化的に、日本が獣乳の利用にほとんど馴染みがなかったことは間違いない。今でも懐石には牛乳を使用した料理は出ないし、ミルクを飲む作法、というものも確立されていない。

 牛乳の使用には、栄養学的な理由もあるらしい。牛乳はカルシウムに富んでいる。穀物や獣肉では、充分なカルシウムを摂取することが難しい。砂漠やステップ地方では、獣の乳を飲むか、あるいは血液を飲むかが唯一に近いカルシウム摂取の手段だった。
 それに反してアジアのモンスーン地帯では、野菜が豊富だ。緑黄食野菜には、充分なカルシウムが含まれている。大豆もまた、豊富なカルシウム源である。だから、日本からインドに至る東南アジアの民族は、獣乳を飲む必要を感じたことがなかった。味噌汁を飲む人間は、ミルクを飲む必要がないのである。

「……というようなことを言ってやればいいんだ」
「うん」
「ちゃんと覚えたか」
「うん」
 と勢い込んで学校に出かけていった甥っ子だったが、やはり学校から泣いて帰ってきた。また牛乳が飲めなかったらしい。
「えぐえぐ、ひっく、ひっく……」
「また泣きやがったか。きのう教えたこと、先生に言ってやったのか」
「忘れちゃったよう。めそめそ」
「しょうがないな」
 まだ理論武装が不充分だったか、それとも学校の担任が頑迷にして聞く耳を持たないのか。もしかすると、甥が牛乳を飲めない原因が、体質的に受け付けないせいではなく、牛乳瓶を口につけたとたん笑かしに来る、前の席の悪ガキにあるせいなのかもしれない。


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