ジャンヌ・ダルクは処女か―私的唐沢俊一観(2)

唐沢俊一「世界ヘンタイ人列伝」第4回「聖女かヒステリー性変態か ジャンヌ・ダルク」について(続き)

 高山一彦「ジャンヌ・ダルク――歴史を生き続ける「聖女」――」(岩波新書)の中に、こんな文章がある。

 筆者は一九七九年に「解放五五〇年記念ジャンヌ・ダルク・シンポジウム」に招かれてオルレアンに赴く途次、たまたま乗った若いタクシーの運転手から「貴下はジャンヌを研究しているなら、ジャンヌは処女でなかったことを知っているか」と問いかけられて面食らったことがありますが、ギイュマン【筆者注:ジャンヌ・ダルクをただの人間として扱い、神のお告げや奇蹟や軍事的成功はすべて後代の捏造にすぎない、と主張した】の著書が、ある種の大衆――トマ女史らのいう「自称左派的」というのかもしれません――にうけて、この種の話が横行したことは推測できます。

 となると唐沢俊一も「自称左派」に属するのだろうか。
 「自称左派」というのはわかりにくい名称だが、要するにジャンヌ・ダルクがカトリックの権威、法王庁で認められた聖女になったことが気にくわない人たち、もっと昔なら「反教権主義」と呼ばれた人々のことだろう。面白いことに唐沢俊一をはじめ「自称左派」のジャンヌ像がポルノグラフィックになりがちなのと同様に、かつて「反教権主義の書物」といえばポルノグラフィと同義語だった。法王や枢機卿、彼らに任命された司教や司祭が、どんなに堕落しているか、おもに女性関係の醜聞について、微に入り細を穿って表現していたからである。
 「もう一つのヴィクトリア時代」(スティーブン・マーカス:中公文庫)では19世紀のポルノグラフィー収集家、ピサヌス・フラクシことヘンリー・スペンサー・アシュビーが紹介されているが、彼の作成したポルノグラフィー目録、621ページのうち300ページ以上が反教権主義文献で占められており、その内容は、

 すべての僧侶は好色漢であり売春宿の主人であるし、すべての尼僧は密通しているかレズビアンか、あるいはその両方である。懺悔聴聞は敬虔さと淫らさが出会う場所である。ここでは侮辱と嫉妬が互いに相譲らずにせめぎあっているが、これと同様の二律背反は思想の面でも現われる。ローマ教会はすべての親と同等に、一方で我々に禁欲を説き、衝動を満足させることを認めようとしないにもかかわらず、他方では売春宿で思うままの快楽に浸っているのである。

 といったたぐいである。
 さて反教権主義文献、違った「熱写ボーイ」連載の「世界ヘンタイ人列伝 第4回 聖女かヒステリー性変態か ジャンヌ・ダルク」で唐沢は、イギリス軍の手に落ちた後のジャンヌを、このように書いている。

 さて、捕らわれたジャンヌは異端者として火あぶりの刑に処されたわけだが、ここにひとつの問題があった。それは他でもない、ジャンヌがこの時、まだ処女だったということだった。当時の法律では、処女は死刑にすることが出来なかったのである。
 キリスト教の世界では聖母マリアが処女のままイエス・キリストを生んだということになっているため、処女にはきわめて特殊な聖性があると考えられていた。処女のままでは彼女を抹殺するわけにはいかない。そこでイギリス軍は、数名の看守に、とらわれのジャンヌをレイプすることを命じた。処刑までの数日間、ジャンヌは看守たちに犯されまくった。ジャンヌはあまりのことに早く処刑してくれと懇願したとも、しまいには自分の方から看守たちを誘うようになったとも言われている。

 さすがのことにkensyouhanさんも呆れて、「どこのエロ小説だよ」とツッコんでいる。
 「ジャンヌレイプ説」には私も非常に疑問を抱いたので、上記ブログのコメント欄に疑問を書いたら、佐藤賢一「傭兵ピエール」(集英社)にレイプの描写がある、との指摘があった。
 「傭兵ピエール」を読んでみると、こういう書き方だった。

「ピエール様、ご、ごめんなさい」
「…………?」
 無言で問い返したピエールには、彼女の目に湧き出るような涙を認めた。
「ひっ、わたし、ひっく、ぐ、ぐひっ……汚されてしまいました。ぐ、ひっ、多くの男たちに殴られて……ひぐっ、無理矢理、ひっ、何度も、ひっ、……犯されてしまいました。わたし、約束したのに。ひっ、ごめんなさい」
 心もとない唇を凍えるように震わせながら、ジャンヌは確かにピエールに告げた。嗚咽に言葉を寸断されながら、まるでそれが義務であるかのように、最後まで言い切ったのである。言い切ろうとした彼女の気持ちが、ピエールにはわかった。
――俺を……。

 私もそっちの方は嫌いじゃないから、てっきり官能描写たっぷりのポルノだと思いこんでいたんだが、直接描写はないし、「ああ、もっと、もっと」と自ら腰を振り誘うシーンはもちろんないし、純愛じゃないか。絶望した。もとい、安堵した。
 いや、佐藤賢一さん、実際に読むまで、「聖処女が無頼の傭兵に肉体開発されて肉欲の虜に堕ちるポルノグラフィ」だと思いこんでいました。本当にすんませんでした。

 とりあえず最初から検討しよう。「当時の法律では、処女は死刑にすることが出来なかった」という文章だが、「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」を読んでも「ジャンヌ・ダルク復権裁判」を読んでも、そんな事実はどこにもない。あたりまえだ。少なくとも公式には、ジャンヌは処女のまま死刑にされたのだから。
 思いあまって中世の生活や法律について書いた本や、阿部謹也の本などを読みあさってみたが、そんな法律はまったくどこにも書いていなかった。
 思うに、唐沢はローマ帝国のセイヤヌスの娘の処刑と混同したのではないか。
 タキトゥス「年代記」(岩波文庫)では、皇帝ティベリウスによる、かつての腹心セイヤヌスの家族の処刑について、次のように書いている。

 同時代の歴史家は、次のような話を伝えている。「生娘を死刑にするとは、前代未聞のことだ」と思ったので、死刑執行人らは、彼女を絞首縄にかける前に、辱めたと。それから、ほんの幼い二人の子の喉を絞め、その屍を「阿鼻叫喚の石段」に投げ捨てた、と。

 スエトニウス「ローマ皇帝伝」(岩波文庫)によると、こうなっている。

 古来からのしきたりで、処女には絞首刑が課せられなかったので、成熟していなかった娘は、死刑執行人によってあらかじめ陵辱され、しかるのちに締め殺された。

 紀元2世紀ごろのスエトニウスが「古来からのしきたり」と書いているくらいだから、これはカエサルやアウグストゥスが定めた法令ではないだろう。おそらくは処女神ディアーナ信仰につながる、処女崇拝に基づく決まりだったのだろう。
 ディアーナ信仰といえば、種村季弘は「悪魔礼拝」(河出文庫)の中でこんなことを書いている。

 中世最初の悪魔礼拝集団であった新マ教徒を生んだオルレアンは、周知のごとく、それから四世紀後に「オルレアンの聖処女」によって英軍から解放された。髪を短く刈り込み、男の服を好んで身につけたこの少女は、男でも女でもある二つの顔の持主であり、アンドロギュノス的異装者であった。ジャンヌの服装倒錯の根拠がたんに軍事目的のためであったとは信じ難い。マリー教授によれば、ジャンヌこそは故郷のドンレミーの森に根づいていた戦闘的な女神ディアナ崇拝の首領、「古い信仰の化身」であり、一般の兵士たちはその魔術的呪力にしたがって、国王にたいするよりも彼女にたいして献身的に信服したのだった。後に密告されて火刑に処せられる破目に陥ったとき、「ジャンヌ・ダルクは懺悔聴聞室を使わせたのに、主の祈りを唱えることを拒絶した。――またキリストの名前を口にせず、終始やや曖昧な<わが主>という言葉を使った。」(P・ヒューズ)

 これはこれでツッコミどころのある文章だが、ここでは触れない。おそらく処女神ディアーナ信仰は、中世になると、処女にして母である聖母マリア信仰に置きかえられ、かくして聖母マリアは、息子キリストよりも多くの絵画、多くの寺院、多くの信仰の対象となったのであろう。
 ただし正統教会は、聖母マリアをキリストに優先させることには、頑として反対した。そして中世の法律でも、処女に刑罰をくだすのに、なんの支障もなかったことは、ほぼ間違いない。
 さらに唐沢は、こう書いている。

 ”ジャヌ・ダルク(原文ママ)は聖女(処女)ではない”ことを天下に示す必要がある。そのため、ジャンヌは火あぶりの途中で一旦火をとめられ、衣服をはがれて、群衆にその下半身を改めさせられたという。

 はるか遠くから下半身を見ただけで非処女とわかるなんて、群衆はみんな「シグルイ」(山口貴由:チャンピオンREDコミックス)の11巻に登場する笹原権八郎かよ、とツッコみたくなるような話だが、さて、この一文にガセがいくつ含まれているでしょう。
 村松剛「ジャンヌ・ダルク 愛国心と信仰」によると、こういう光景となる。

 炎がジャンヌをつつんだとき、イギリスの指揮官たちは、「火をとおざけよ」と命じた。兵士たちまでが動揺しているのを見て、彼らは少女が、天使の助けによってこの場を脱走してはいないこと、彼女がまちがいなく死体になっていることを、示そうとしたのである。そのほか彼らのねらいとしては、衣服が焼けたあたりで彼女の姿を公衆に見せ、ジャンヌが要するにひとりのあたりまえの女にすぎなかったことを、知らせようという意図も、あったようである。
 『パリの一市民の日記』には、次のような叙述がある。
「カクシテ、全群衆ニヨッテ、ジャンヌノ全裸体ノ姿ハ見ラレルニイタリ、女性ノ身ニ具ワリ得ル或ハ具ワルベキ一切ノ秘密ガ悉ク明ルミニ出サレ、コノ為、人々ノ疑惑ハ除カレタリ」

 つまり「一旦火をとめられ」ではなく、火(薪)は遠ざけられたのである。これは焼き尽くすことを防止するというよりは、ジャンヌの姿を見せるための措置である。薪はうず高く積み上げられ、ジャンヌが顔を出して修道士の掲げる十字架を見ることがやっとの状態だった。「衣服をはがれて」いたのではない。衣服は焼け落ちたのである。そして「下半身を改め」させたのは、処女でないことを示すためでなく、ジャンヌの死体がその場に確かにあること、ただの女性だったことを示すためだった。

 ところで話はちょっと変わるが、ジャンヌはどのような姿をしていたのだろう。後世の文献や絵画によると、「神々しいほど美しい」から「やせこけた田舎娘」まで両極端の評価を受けている女性だが、「ジャンヌ・ダルク復権裁判」から、彼女を実際に見たことのある人間の証言を抜き出してみよう。

 時には部隊の中では、私はジャンヌや他の兵士たちと「藁束の中で」寝ました。時にはジャンヌが夜の支度をするのを見たことがありますし、美しい乳房を目にしたこともあります。しかし肉体的欲望を覚えたことはありません。(オルレアンでジャンヌと共に闘った。アランソン公ジャンの証言)

 彼女は美しくて成熟した若い娘であり、またあるときは彼女が武装するのを手伝ったりする折りに、私は彼女の乳房や、時には傷の手当てをしてやるために何もまとわない脚を目にすることもありましたし、度々彼女に近づくこともありました――一方私のほうも頑健で、若くて、力に満ちていたのですが――しかし乙女の体を眺めたり、乙女に触れたりする機会があったにもかかわらず、私は彼女に対する肉体的欲望は絶対に起きませんでした。(ジャンヌの従者ジャン・ドーロンの証言)

 医術によって知りうる限りでは、彼女は処女で生娘であると信じます。というのは、私は彼女が病気のときに診察をしてほとんど裸の彼女を見ているのです。私は彼女の腰部を触診しましたが、外観から確認しうる限り彼女は締まりのある肉づきをしていました。(医師ギヨーム・ド・ラ・シャンブルの証言)

 以上の証言から、ジャンヌ・ダルクは肉づきがよく、女性らしく美しく発達した乳房をもち、戦闘によってほどよく肉が締まった、女性的かつ健康的な体型をしていたことがよくわかる。残念ながら容貌については、だれもふれていない。ともに闘った兵士の全員が「肉体的欲望を抱いたことはありません、まったくありません」と強調しているのは、ちと気にかかることである。

 ジャンヌ非処女説は、ギイュマンの著作や「傭兵ピエール」、唐沢俊一だけが唱えているわけではない。
 それらの説によると、ジャンヌが処女を失ったとされる時期は、私の知る限りでは、おおまかに二つ、細かく分けると四つになる。
 第一の時期は、故郷を出発する前。
 ギイュマンの「ジャンヌいわゆるジャンヌ・ダルク」(未訳、「ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」―からの孫引き)では、ジャンヌの故郷ドンレミ村に親の定めた婚約者がいたことに注目し、

 いまこの青年は彼女を望み、結婚したいと考えている。もちろん、彼女のほうでもこれほど心を惹かれた相手はこれまでにいなかった。……彼女はわれを忘れた。青年を見つめ、承諾を与えた。よい結婚相手だった。二人は一緒に出歩き、彼女は唇も与えたに違いない。

 と書いている。
 論争相手のレジーヌ・ペルヌー女史が簡単に片付けたように、これはただの妄想にすぎない。なぜなら、「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」でジャンヌ本人がはっきりと、

 結婚に関する訴訟で、ある男をトゥールの教会裁判所に召喚するように同女にしむけたのは誰か、と訊ねると、「私がその男を呼び出したのではありません。その男の方が私を召喚させたのです。私はそこで判事の前に真実を述べることを誓いました」と答えた。最後に、同女はこの男と結婚の約束をしたことはなかった、と述べた。

 と断言している。婚約不履行で訴えたのは男の方で、ジャンヌ自身は結婚する気がまるでなかった。
 もうひとつ、この裁判に関連して、「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」に書いていることだが、

 さらに同女は、ブルゴーニュ派を恐れて父の家を離れ、ロレーヌのヌーフシャトーの町に赴いたこと、そこでラ・ルースという名の婦人の家におよそ十五日間滞在していたことを明らかにした。(二月二十二日の尋問)

 告訴状第八条。《同じく。被告ジャンヌは二十歳の頃、自らの意志で、父母の許しなしにロレーヌのヌーフシャトーに赴き、ある期間ラ・ルースという名の宿の女主人の家に奉公した。ここには絶えず数人の宿無し娘が泊まっており、また宿泊人の大半は兵隊達であった。(後略)》
 告訴状第九条。《同じく。被告ジャンヌはこの仕事についている間に、トゥールの教会裁判所に結婚問題について、ある若い男を出頭させた。この件の解決のため数回トゥールに赴き、この際に手持ちの金は殆ど使い果たした。この男は前記の娘達が被告と一緒に暮らしているのを知り、被告との結婚を拒否し、訴訟が終わらないままに死んだ。このために被告ジャンヌは怨みを抱いて、同女の言う奉公をやめたものである。》

 要するに告訴状は、ジャンヌがいかがわしい娘といかがわしい男が出会う宿、はっきり言うと売春宿で奉公しており、たぶんジャンヌも売春していた。そのために婚約者は怒って婚約破棄したので、ジャンヌは婚約不履行で男を訴えたのだということを言いたいのである。
 この告訴状はジャンヌの申し立てをまったく無視している点でも疑わしいが、「ジャンヌ・ダルク復権裁判」では住民の証言により、すべてが捏造であると否定している。

 ジェラール・ギュメット(グルー村居住。ほぼ四十歳)
 ……私こと証人は、そのときジャンヌおよび父親、母親と一緒にヌーフシャトーに行きましたので、彼女がいつも両親と一緒にいたことを見ています。ただし三日か四日の間ジャネット【筆者注:ジャンヌの愛称】は、両親の見ているところでですが、彼らが泊まっていた家の女主人公の手伝いをしました。ラ・ルースという名の、その町の真面目な婦人の家でした。ジャネットの家族は、ヌーフシャトーに四、五日しか滞在していなかったことをよく覚えています。侵入していた兵隊たちがドンレミ村から立ち去るまでの間です。そのあと彼女は父母と一緒にドンレミ村に戻っています。

 まあ、そもそもこの時期にジャンヌが処女を失っていたとすれば、その後のフランス側、イギリス側による2回の処女検査をくぐり抜けたのはどうやってだ、という話になるので、村を出るとき非処女だった説はそもそも無理といえよう。処女膜再生手術は、さすがにこの時代はなかった。中国製の人工処女膜キットも、まだ販売されていなかった。

 第二の時期は、真面目に検討する価値がある。
 ジャンヌがコンピエーヌで捕虜となり、イギリスに売りとばされ、異端審問の間に牢獄で犯されたという説である。
 ジャンヌが投じられた牢獄は、普通の環境ではなかった。「ジャンヌ・ダルク復権裁判」の証言によると、

 ……ジャンヌは囚人として監禁され、この場所に五人のイギリス兵士により監視されていました。そのうち夜は三名が室内に、二名は部屋の扉の外で過ごしました。夜の間は、彼女は二組の鉄鎖で両足を固定され、寝台の足に絡められた鎖でしっかりと結わかれて横たわり、この鎖はさらに五、六フィートの長さの材木に鍵でつながれていたので、動くことができなかったのは確かです。(法廷執行吏ジャン・マッシュウの証言)

 彼女は乱暴に扱われ、審理の終わりには拷問の道具も見せられました。当時彼女は男の服装をしておりましたが、彼女は夜になると番人たちから暴力を加えられるのが怖くて、この服を手放せないのだと嘆いていました。一度か二度ですが、彼女はボーヴェー司教や副裁判長ニコラ・ロワズルール師に、番人の一人が暴力を加えようとしたと訴えていました。(書記ギヨーム・マンションの証言)

 最初の説教のあとで彼女が城の牢獄に戻ってきたとき、彼女は非常な侮辱といじめを受けたため、これ以上こんなイギリス人どもと一緒にいるくらいなら死んだほうがましです、と言っていました。(修道院長トマ・マリーの証言)

 最後のジャンヌの言葉が、曲がりくねって唐沢俊一の「あまりのことに早く処刑してくれと懇願した」に変化したものと思われる。
 ここで出る「暴力」という言葉が、文字通り殴る蹴るの暴力をさすものか、それとも性的な暴行をさすものかは微妙だが、多くの人間は、性的な意味を含む、と考えている。なぜなら、男の服装によって、暴力をある程度防止できるものと、ジャンヌ自身が思っていたからである。
 中世のこの時代、パンツなどというものはまだ使用されていなかった。女性は長袖のシュミーズを肌につけ、その上から外衣をはおった。つまり、女性の服を着ていた場合、裾をまくってしまえば、下半身が丸出しになってしまうのである。男性の服ならズボンがあるから、それが防げる。自己の処女がそれで守れると、ジャンヌは考えていたのだろう。
 村松剛「ジャンヌ・ダルク 愛国心と信仰」によると、

 ジャンヌはイギリス軍の牢獄にいれられ、鎖で杭につながれていた。宗教裁判の被告は、本来なら司教館か教会の牢にいれられるはずなのである。彼女を城の牢におき、男の牢番に見はらせることの不都合さは、僧侶たち自身が気がついていたようである。しかしイギリス軍の意志に逆らうだけの、勇気をもつものはいなかった。
 予審のまえに、少女はふたたび処女であるか否かの検査をうける。二年まえの審査の、くりかえしなのである。こんどの場合は、ベッドフォード公妃の側近の女たちが、その役をうけもった。(ベッドフォード公自身も、ひそかにその場にしのんで、検査を見ていたということが伝えられている。)
 ジャンヌの処女性は証明され、ベッドフォード公妃は、少女の純潔を守ってやるようにと、兵士たちに厳命した。鎖につながれ、男の牢番に見張られている少女にとって、この命令は大きな救いだったにちがいない。もっとも命令は、いつも守られたとはかぎらないのである。

 そして最後の危機は、ジャンヌがいったん悔悛した後に訪れた。
 1431年5月24日、12箇条の異端についての断罪を受け入れ、悔悛の誓いに署名した。署名の後に十字マークを書いた。
 ただしこのサインされた悔悛の誓いは、ジャンヌが読み聞かせられた悔悛状とは違うものであることが、のちに明らかになっている。(ジャンヌは自分の名前を書くのがやっとで、文書を読み書きする能力はなかった)
 またジャンヌのサインの後に書かれている十字マークは、彼女が、「十字を記したこともあるが、それは、自分が手紙を書く味方が自分の命じたことをしないようにする目的であった」と言った通り、この悔悛は偽りである、とひそかに告白したもの、とみる歴史家もいる。

 我等は同女にむかって、本日、神は非常な恩寵を下し給わり、教会もまた偉大な慈悲を示して、特赦をもって同女を教会に受け容れることとなったこと、ならびに右の理由から、ジャンヌは判事諸閣下ならびに聖職者の判決と命令に謙虚に服して、同女のかつての過誤と虚偽を完全に捨て去り、再び過誤に陥らぬ必要のあることを説明した。且つ、同女が再びかつての過誤に陥ることがあれば、教会は再び寛大に同女を受け容れることはなく、同女は完全に見捨てられることになる旨を告げ、さらに同女が教会の命に従い、男の服を捨てて女性の衣服を着用することを命令した。
 これに対してジャンヌは、喜んで女性の服を着用し、万事聖職者の命令に服従する旨回答した。かくして女性の衣服が同女に提供され、同女はこれを着用し、即座に男の服を脱いだ。さらに同女は、これまで丸く刈り込んでいた頭髪を刈りとることを望み、且つこれを許した。
 (「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」より)

 この最後の文章が恐るべき罠であったことは、マーク・トウェインも「ジャンヌ・ダルク」(角川書店)で書いている通り。

 コーションは大喜びで、満足しながら立ち去っていった。ジャンヌはまた女の服装をしたが、そのとき何の抗議もしなかった。それに、男の服装に戻ることに対しては正式に警告を受けていた。こうした事実には目撃者もいた。これ以上の首尾が、どうしてありえようか?
 だが、もしジャンヌが男の服装に戻らなかったとしたら、どうしよう?
 いや、そのときは、否応なしに、そうさせるまでだ。

 そして彼らは否応なしにそうさせた。それは、「ジャンヌ・ダルク復権裁判」の証言によると、こういったやり口であった。

 ジャンヌが彼女の啓示を否認して改悛した上で、再び男の服装をした後のことですが、彼女が男の服を再び着たことを弁明しているとき、私と何人かがその場におりましたが、彼女は自分が女の服を着ていた時には、イギリス人たちは牢獄の中で彼女に数々の悪事や暴力を働いたと、皆の前で隠すことなく話し、認めました。事実、私は彼女が顔中を涙で濡らして泣いているのを目にしました。惨めで、辱められた彼女の様子を私は哀れみ、同情しました。
 彼女が頑強で、その罪をくり返す異端者(戻り異端)だと宣告されたとき、彼女は立ち会った人々全員の前で皆に聞こえるようにこう言いました。「教会の神父様方、もしあなたがたがあなたがたの牢獄に連れていって監視してくれたら、どうあってもこんなことにはならなかったでしょうに」と。(修道士マルタン・ラドヴニュの証言)

 だれかが夜の間に秘かに彼女に近づいたかどうかの件について、私はジャンヌの口から、あるイギリスの高官がジャンヌの牢獄に入ってきて、暴力で彼女をものにしようとしたのだと聞いています。彼女の言うことでは、これが彼女が男の服装に戻った理由です……(同修道士の証言)

 この高官こそ、かのベッドフォード公だという説もある。処女検査をこっそりと覗いていたという行状からしても、ありそうな話だ。しかし、妻が守らせようとした純潔を、その夫が散らそうとする、なんというか地獄絵図のように思える。

 果たしてジャンヌはその最期に至るまで処女を守りとおすことができたか、それは謎である。証言によると、牢獄で犯された可能性はきわめて高い。
 しかし私は、ジャンヌ・ダルクが死に至るまで純潔な処女であったと信じる。なぜならば、彼女が戻り異端として死刑を宣告されたときの言葉、

 ああ、何と言う恐ろしくむごい扱いでしょう! これまで汚されたことのないこの躯そのものが、今日という日に焼きつくされて灰になってしまうとは!

 が、嘘でないことを信じるからである。火刑の薪を目の前にした彼女は、けっして嘘をつかず、神のみもとへと運ばれた、と信じているからである。

あとがき

 私はこの一文を書きあげるために、6冊の本を買い(うち1冊は「熱写ボーイ」)、4冊の本を借り、3週間の時間をかけた。もっとも3週間のうち半分は、通販で注文した本を待つことで費やしたのだが。
 でも、博覧強記にして知識のインプット・アウトプットに関する講演を難なくこなす、雑学王であらせられる唐沢俊一先生なら、こんな文章、ほんの3日もあればホッピー片手に書きとばせますよね。


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