はいぱーがーる(前夜の章)

 ある大学病院の数多い病室のひとつ。
 あおいは、あどけない寝顔を見せて、ベッドに横たえられている。

「薬物による精神混濁状態がまだ続いています」
 駿河という名札をつけた医師が、あおいの伯父、和之に説明した。
「覚醒させようと思いましたが、目を覚ましたときの精神的ショックを考え、手術まで寝かせたままにしておくことにしました」
「手術……ですか」
 和之は温度調節のされた病室の中なのに、カルカッタと同じように、汗をかいていた。
 手にはビジネスバッグを抱えている。
 会社の帰りらしい。
「ええ。義手義足の手術です」
「そうか……そうですね。それしかありませんよね」
 うつむく和之に、駿河医師は優しく声をかけた。
「大丈夫です。いまの義肢は精巧になっていますから、神経の刺激や筋肉の動きに反応して、関節で曲げたり伸ばしたりできます。日常生活ならそんなに不自由しませんよ。外見もちょっと見たくらいでは本物の手足と見分けがつきませんし」
「命にかかわることはないですか」
「ほぼ間違いありませんね。悪党ども、手術の腕だけはちゃんとしてますな。切断面から感染症も起きていないし、たぶん事前から麻薬をたっぷり吸わせていたのでしょう、ショックも起きていない……」
「お願いします」和之は頭を下げた。
「ただし万が一ということがあります。手術について、ご両親にご承諾をいただきたいのですが」
「いや」和之はいった。
「兄はまだ寝込んだままです。姉にもまだちゃんとしたことは知らせていないのです。心臓が弱っているので。私が兄から委任状を預かってきています」
 駿河医師は、和之の差し出した書状を読み、うなずいた。
「結構です。ではあなたが、この承諾書にご記入のうえ、印鑑を押してください」
 和之は文書をろくに読みもせず、機械的に住所氏名を記入し、鞄から印鑑を取り出して捺印した。
「これで結構です。手術の日取りは、もう少し患者の様子を見てから決めます。決まったら連絡します」
「くれぐれもよろしくお願いします」和之はもういちど、深々と頭を下げた。

 駿河医師は和之を見送って、しばらく病院の廊下を歩いた。
 その途中、軍服の人間が数人すれ違った。いずれも中年以上の男で、かなり高官らしく、胸や肩に肩章やら略章やらを、いろいろぶら下げている。
「えらくものものしいですな」
 和之の質問に、駿河医師は苦笑する。
「ええ、B棟で防衛省が軍事研究をしているらしいんですよ。見張りが立っていて、私も入れないくらいです」
「そんなこと、しょっちゅうあるんですか」
「いや初めてです。どうも相当、極秘の研究らしいですな」
 そんなことを話しながら、ふたりは大学病院の受付まで歩いていった。
 そこで和之はもういちど深々と頭を下げ、病院を出て行った。駿河医師は、あおいの眠る103号室へと戻っていった。

 あおいの眠っているはずのベッドは、空だった。


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