朔日の河童

「今日も暑くなりやがったな」
 源三郎は日野の渡し舟に乗りこみ、ふところから手拭いをとりだして汗をぬぐった。江戸の牛込を出たのは夜明け前だったが、もう正午を過ぎている。陽はてっぺんに近い。
 背負っていた荷物を舟べりにおろす。縄でからげた竹刀が十数本。源三郎の通っている剣道場の師匠の使いで、江戸の問屋からかついできたものだ。
 井上源三郎といえば三男坊とはいえ、八王子千人同心の家柄である。れっきとしたサムライ身分だ。師匠とはいえ百姓身分の近藤周助に使われるわけもないのだが、生来この青年は腰が低い。
「ああ、いいですよ。どうせついでだから」
 とにっこり笑って引き受ける気安さに、周助もその嫁も、つい源三郎に頼んでしまうのだ。

「おや」
 源三郎はふと、外の景色に目をこらした。
 川を胡瓜がいくつも流れている。
 驚いたのはそのことではない。
 この当時、旧暦六月の朔日、川に初物の胡瓜を流すならわしがあった。
 この日に胡瓜を流すと生涯中風にならないという言い伝えもあれば、家族が溺死しないという言い伝えもあった。凝った家では胡瓜を丸木橋のようにくりぬき、中にちいさな人形を楊枝で止めて流す。
 源三郎が目をこらしたのはそれではない。
 流れてゆく胡瓜が、ひとつふたつ、見ているうちに川の中に消えてゆくのだ。
 それと同時にちいさな波紋が生じる。
 いや、ちいさな波紋とともに水の中からちいさな腕が伸び、それが胡瓜をつかんで沈めているのだ。
 やがて泡がたち、水から勢いよくはねあがったものがある。
 水の影をおびて青い、ちいさな人に似たものだった。
「……河童か?」
 源三郎は手拭いで目をごしごしとこすった。

 そのころ多摩川の河原では、クソガキどもがよからぬたくらみをしていた。
 宮川の勝太。石田の歳三。
 このふたりが寄るとろくでもないことしかしでかさない。
 歳三は川っぺりの砂地に木の棒で地図を書き、いっぱしの軍学者にでもなったようなもったいぶった口調で講義する。「縛りつけて猿轡をかませとけば、伝通院の稚児でもつとまる」と悪口を言われている美少年である。
「いいか勝っちゃん、この軍勢は擬兵だ。敵兵をこっち側に寄せておいて、わしらは精鋭を率いて逆から攻める。できるな?」
「まかせておけ」
 いっぱしの大将ぶって重々しく答えた勝太は、もはや餓鬼と呼べる年齢ではない。十三歳といえばそろそろ元服の準備でもしようかという年頃だが、あいかわらず歳三のような子供を集めてガキ大将として日野に君臨している。
「よし、あとは軍勢を催して……」
 そこまで言った歳三は、ふと口をつぐんだ。
 異様なものを見たからだ。

 そいつは川からやってきた。
 からだじゅうに藻をからみつかせ、水をしたたらせながら、ひょこひょことこちらに歩いてくる。
 青黒い顔色のそいつは、胡瓜をいくつも手にもち、そのひとつを囓りながら、ケケッと啼いた。
「……こいつ、河童か?」
 勝太は大きな口をぽかんとあけたままだ。
 人間の子供とすれば、四歳か五歳くらいの背丈だろうか。そいつはもいちどケケッと啼いて、ふたりに胡瓜をさしだした。
 気圧された勝太は素直に胡瓜を受け取ったが、歳三は無愛想に断った。
「要らん」
 それでもそいつは気を悪くした様子もなく、胡瓜をひとかじりして、またケケッと啼いた。どうやらそれは笑っているのだと、勝太はようやく気がついた。
「おまえ、わしらの話を聞いていたな」
 むっつりと黙っていた歳三が、ふと険悪な顔をしてそいつに問いかけた。
「兵は密をもってよしとする。この計略、漏らされては成功はおぼつかぬ。おぬし、間者とみなして斬る」
「おいおい」
 止めようとする勝太を無視し、歳三は木刀でそいつに殴りかかった。
「けけっ」
 そいつはえらく陽気な笑い声を残し、ざんぶと川にとびこみ、そのまま泳いで逃げてしまった。
 本気で叩きつけるつもりだったのに、あっさりとかわされてしまった歳三は、木刀をだらんと下げて、茫然と見送るのみだった。
「……やはり、河童か?」

 源三郎は道場に竹刀を届け、すこし剣を振ってから家に戻ろうとしていた。
 そろそろ日も暮れようというのに、まだ暑い。
 朔日だったことを思いだし、宿場町で氷を飲んでいると、なにやら外が騒がしい。
「なにがあったんだ」
 別な客に茶を運んできた女に聞いてみた。
「なんでも街道筋で、バラガキどもが騒ぎを起こしているとか」
「なんだ、いつもの悪戯か」
「いいえ、こんどのはえらく大人数で、悪戯なんてタチのもんじゃないようで」
 すこし気になった源三郎は氷を飲み干し、女に教えられた方角へ向かってみた。そのとき、おなじ茶店で茶を飲んでいた、えらく背の高い男が同時に立ち上がるのを、源三郎はみていた。

 街道は大騒ぎだった。
 菜っ葉、大根、川魚、麻衣、藁束、米俵など、そこらの店の売り物が散乱している。銭もあちこちに散らばっている。ガキどものやった仕業に違いあるまい。
「たしかに、これは悪戯にしてはタチが悪いな」
 源三郎は苦笑した。
 ガキどもの大半は街はずれに逃げこんだらしく、みんなそちらを追っていったらしい。ほぼ無人だった。
 そこへガラガラと、大八車をひく音がする。
 源三郎がみると、米俵や銭を詰めたカマスを積んで、街はずれとは逆の方角、神社へ逃げていこうとする子供がいた。
 その車をひいているのは、近藤周助に道場を貸しているお大尽、宮川家のせがれ、先頭に立って道案内をしているのは、やはり近藤道場に便宜を図ってくれている日野宿の名主、佐藤のこせがれではないか。
「……あ、あいつら」
 さすがに源三郎の頭に血がのぼった。
「これはもう子供の悪戯じゃねえ。泥棒だ」

 そのとき源三郎の脇をすり抜けていったものがある。
 さっきまで茶店にいた大男だ。
 男はあっという間に大八車に追いつくと、道端に落ちていた薪ざっぽうを拾い、ガキどもをさんざん殴りつけた。
 子供の多くは泣きながら散ってしまった。
 勝太はさすがに泣きもせず、車を捨てて歳三とともに逃げた。
 男はそれを追う。
 ふたりは神社の境内まで逃げこむと、猿のようにするすると大鳥居によじ昇った。
 男は木登りは苦手らしく、下からふたりを睨みつけている。
「おりてこい」
 大男は怒鳴った。
「いまならまだ勘弁してやる。素直に降りて謝るがいい」
「やなこった。謝ってほしけりゃここまでおいで、甘酒しんじょ」
 歳三が憎まれ口を叩いた。
「でないと、こうしてやる」
 勝太は裾をたくしあげると、ぴいっと小便をぶちまけた。
「あっ」
 源三郎が叫んだときには、すでに男は小便まみれのずぶ濡れになっていた。
「おのれ、もう許してはおけぬ」
 真っ赤になって怒った大男は、神社の軒下にある大柱をかついできた。
 それを軽々と振りかぶり、渾身の力をこめて
 ごぉぉぉん
 と鳥居に叩きつけた。
 おそるべき馬鹿力である。
 その衝撃でふたりの子供は、脅かされたコガネムシのように、ぱったりと地面に落下した。

「おやめくだされ。もうよいではありませんか」
 怒りでわれを忘れている男は、源三郎の制止もきかず、ふたりの子供に襲いかかろうとした。
 勝太と歳三は衝撃がまだ残っているのか、それとも落ちたときの打撲のせいか、もがくだけで逃げられない。
 男の怒りの一撃で、子供の頭蓋がまさに砕かれようとしたそのとき。
 さっと男の前を横切った影があった。
「あ、あの河童」
 朝ごろ河原で胡瓜を囓っていた、あの幼児とも河童ともつかないものではないか。
 そいつはケケッと啼くと、手に持った小枝で大男の脇腹をつついた。
「おのれ、こわっぱ」
 激怒した大男は芝居のようなセリフを吐くと、みさかいなしに脇差を抜き、そいつに突きかかっていった。それは源三郎も、道場で見たことのないほどのおそるべき勢いだった。
「……あ?」
 てっきり小芋のように串刺しされたに違いないと思った刹那、そいつは剣をひらりとかわし、逆に小枝で男の目をちょんちょんと突っついて逃げたのだ。
「……う?」
 まさか自分の剣が避けられるとは思ってもいなかったのだろう、目をおさえた男はしばらくうずくまり、目をあけた時にはそいつは川の方角に遠く逃げていた。やがて小さな水音が聞こえた。

 変なやつとの闘いで逆に闘志が抜けてしまったのだろう。ようやく落ちついた男を源三郎はなだめすかし、さんざん謝って酒をおごり、ようやくバラガキどもの悪戯を大目に見てもらうことになった。
 料理屋で大男は酒をひといきに飲み干した。
「そういえば、まだ名乗っておりませんでしたな。私は島田虎之助と申します」
「ああ、あの直心影流の」
 場末の源三郎でも名前は知っているほど、虎之助は著名だった。幕末三名人のひとりである。これも三名人のひとり、男谷精一郎の男谷道場に入門して、すぐ印可を受けるほどの天才であった。その剛力を活かした斬撃は「岩をも断ち割る」とおそれられた。バラガキだった勝麟太郎、のち海舟を弟子にしてきびしく仕込んだことでも知られる。
「それほどのお方を存じませんとは、まことにお恥ずかしいことで」
「いえ、恥ずかしいのは私のほうです」
 島田はちょっと照れて酒をまたあおった。
「あんな小さな子に突き負けたのですからな。それにしてもあの子、不思議な身のこなしはするし、小枝が三倍にも伸びたように思えたし……」
「私も近在であのような子を見たことはありません」
 源三郎は素直に答えた。
「天狗ですかな」島田は笑った。
「あるいは河童か」

「くそ、イテテテ……」
「歳、だいじょうぶか」
「だいじょうぶじゃねえよ」
 どさくさにまぎれて、ようやく河原に逃げ込んだバラガキふたりは、殴られた傷と鳥居から落ちた打ち身の痛みのため、自業自得とはいえ七転八倒していた。
 そこへ川を泳ぎ渡ってくるものがいる。
「なんだ、またおまえか」
「胡瓜はもういらねえよ」
「お前と遊んでる場合じゃねえんだ。あ、痛ぇ」
 心配そうにふたりを見ていたそいつは、ふと姿を消し、やがて蓼に似た、ざらざらした草を手にいっぱいかかえて戻ってきた。
「なんだ、今度は野菜か」
「え、これを傷になすりつけろだって?」
「まあ駄目でもともとだ。白兎にゃならんだろ」
 ふたりは草をもみほぐし、汁をあちこちの傷口になすりつけた。心なしか、痛みが和らいだような気がする。
「おい、小僧」
「あれ? もういない」
「やっぱ河童なのかな」
 残りの草を手にとって、ぼんやりしている歳三に、勝太はからかうように言った。
「どうだい歳、おまえんとこの薬屋でこれを売り出したら」

 ふたりのバラガキは、この大騒ぎの責任を取らされることになった。
 勝太は性根を鍛え直すため、正式に近藤道場に入門させられた。
 歳三は他人の釜の飯を食って世の中の厳しさを知れというわけで、江戸の松坂屋に奉公させられた。その奉公のことを番頭に頼み込んだり、歳三を江戸に連れていったり、いろいろ世話を焼いたのも、源三郎である。
 その折り、石田家の店先に
「河童直伝 金創打身ほねつぎに妙効有り 石田散薬」
 という看板がかかっているのを見た源三郎は、いつかのことを思い出して笑った。

 ところが歳三は、江戸でも不始末をしでかし、日野へ逃げ帰ってきた。しばらく薬の行商をやりながらぶらぶらしていたが、勝太のあとを追うように近藤道場に入門。そのころ勝太は、近藤周助の養子となって近藤勇を名乗っていた。
 やがて近藤道場に、白河藩の元家中とかいうサムライの息子が入門してきた。名を沖田総司という。
 総司の顔をはじめて見たとき、兄弟子の勇も歳三も源三郎も、
「あっ」
「あ、あれ……」
「あ、あいつ、あの河童じゃねえか」
 と絶句した。
 そのことを歳三が姉ののぶに告げると、好奇心に富んだ彼女は、わざわざ用事を作って総司の顔を拝みにでかけた。帰ってくると歳三に、
「ぜんぜん河童に似てないじゃないの。色が青黒くて、目がはじっこにちょっとだけついてて、顔はひょろっと長くておまけに曲がっていて、河童というより胡瓜みたいだったわ。もっとも、あんな青ぶくれでうらなりの胡瓜じゃ、河童も食べないでしょうね」
 と笑った。
「ひでえことを言やがる」
 めったに笑わない歳三もこのときは頬を崩した。
「ああいうのが意外と、たくさんの女に惚れられたりするのかもしれないぜ」
 源三郎も勇も、にやにやと笑った。人間の将来ほどわからないものはない。


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