ネパールという国のかたち

 ようやく非常事態宣言を解除したネパールだが、国内情勢はまだまだ混迷を続けている。王室、民主派勢力、革命勢力の三つ巴のだれが政権を握るのか、そしてだれが国民を幸せにするのか。まったくわからない。これを他人事だと思うなかれ。ネパールという国の歴史を見ていくと、ひょっとしたら日本がネパールのように、ネパールが日本のようになっていたかもしれない、と思うことがあるのだ。

 ネパールという国を説明してみよう。
 まず地理的には、北のヒマラヤ山脈、南のマハバラータ山脈によって隔離された山国である。まわりを海によって隔離された日本とは、山と海との違いはあるが、隔離という点で通じるものがある。
 地政学的には、山脈をへだてて北の中国、南のインドという超大国にはさまれた小国である。これも海をへだててアメリカと中国にはさまれた日本という小国に通じるものがある。これら大国にはさまれた小国が独立を保ってきたのは、ひとえに山や海によって隔離されていたことによる。
 文化的には北のチベット、南のインドの影響が大きい。ネパールの青年が高等教育を受ける場合、チベットに行ってチベット語と経文を習ってラマ僧になるか、インドに行ってもうちょっと近代的な教育を受けるか、どちらかの選択を迫られる。幕末の日本青年が、漢文とオランダ語の二者択一を迫られたようなものだ。

 ネパールという国の歴史が、また日本に似ているところが多い。
 近代以降のアジアで独立を保っていたのは日本とタイだけであるといった間違った知識がまことしやかに語られることが多い。中国のことは無視しているらしい。ましてやネパールなど、おそらく脳内の世界地図に存在していないのだろう。
 ネパールが国家として誕生したのはだいたい四世紀ころだったと思われる。これはだいたい、日本が国家として誕生したのと同時代である。インドの属国であった時期もあったが、おおむねチベットとの交流のほうが盛んだったらしい。首都のカトマンズを中心に、仏教文化が栄えていた。
 やがて一四世紀ころから国内が分裂し、日本の戦国時代のような状態になったが、これを一七世紀に統一したのがシャハ王朝、すなわち現在のネパール王家である。統一はしたものの、ここから北の清・チベット連合軍、南の英国・インド連合軍との紛争がはじまる。しかしネパールは、グルカ兵の精強と外交の巧妙をもって強国に対抗し、みごと清・チベットを撤退させ、英・インドと停戦協定を結ぶことに成功したのである。
 しかし外交では英国のほうが一枚上手だった。たいして金にもならない山国を攻める愚を犯さず、ネパールを友好国として、清の防波堤として存在させることができたのである。そしてネパールは英国だけを外界との接点として、事実上の鎖国をおこなう。日本が清とオランダとの交渉を除き鎖国したようなものである。もっとも、この鎖国はネパールが積極的にしたことというよりも、こんな山国に来てくれるのが英国以外いなかった、というのに近い。
 それよりも英国にとって大きかったのは、この友好によって、世界最強といわれたグルカ兵を傭兵として雇うことができたことである。それまで英国はインド人を雇っていたが、彼らはヒンズー教かイスラム教のため、牛も豚も食わない、薬夾に塗った獣脂すら嫌がる、インドを守るのはいいがそれ以外は嫌だといって海外派兵を拒否する、など扱いにくい兵隊だった。それにひきかえ、グルカ兵は安月給で喜んで働く、宗教的タブーがないので何でも喜んで食う、南アフリカでもマレーシアでも喜んで行く、おまけにやたらに強い、といういいことづくめの兵隊だった。つまり英国のアジア戦略は、ネパールからは用心棒を大量に雇い、日本は国家そのものを用心棒と化してロシアやドイツと噛み合わせる、というものだったのである。なんと巧妙な戦略であろうか。

 こうして第二次世界大戦まで英国の用心棒養殖地として過ごしたネパールだが、このままではいけない、という機運が徐々に高まってきた。南のインドは英国から独立する、北の中国は革命を起こして社会主義国となる、傭兵として世界を見てきたグルカ兵が続々帰郷して世界情勢を伝える、さまざまな要素により民族意識が刺激されていたのだ。
 そのころ国内は、どうにもならないくらい腐敗沈滞していた。シャハ王朝は実権を世襲宰相のラナ家に奪われ、ラナ家によって行動の自由すら奪われていた。日本の徳川幕府のような専制政治が行われていたのだ。むろん国民には集会の自由も言論の自由も許されず、隣の村へ自由に旅行することすら禁止されていた。この圧制への憤懣が、いっきに噴出したのである。
 1950年、国王が王宮を脱出したのをきっかけに、各地で武力蜂起がおこった。ラナ政権は崩壊し、ここに「ネパールの王政復古」が行われたのである。明治維新が徳川慶喜を殺さなかったように、ネパールでもラナ宰相家の死刑は行わなかった。無血に近いクーデターであった。いわゆる「国王のクーデター」である。

 ここまではあっぱれなのだが、このあとがよくない。
 ネパールの王政復古を後押ししていたのはインドだった。インドは自国の国民会議派の影響下にある政党をネパールにもこしらえ、それに民主政府を作らせようと考えていた。しかし国民的人気のある王家によって王政復古となった。この民主派と王党派との確執が深まっていったのである。
 最初は国王が首相を指名し、首相が大臣を集めて組閣する、立憲君主制がとられた。しかし民主化勢力が強く、また中国から共産党勢力も徐々に浸透してきた。これに不安を感じた国王は、ついに1960年、マヘンドラ国王は内閣を解散、主要閣僚を逮捕するという暴挙に出た。これも「国王によるクーデター」と呼ばれている。
 もともとアジアの立憲君主制は、国王が一種の抑止力、ある意味の切り札として機能することが多い。タイでは1991年、腐敗したチャチャイ政権に怒った軍部がクーデターを起こし、これが内乱にまで発展しかけたとき、プミポン国王が閣僚や軍首脳を呼んで説得し、事態を収拾したことがある。日本の2.26事件や終戦の詔勅も、混迷した事態を天皇が切り札として収拾したと考えていいだろう。
 しかし、国王がその後もみずから内閣を主宰し、他の政治勢力をいっさい認めず、独裁政治を続けるのはやりすぎだった。この国王親政というか国王独裁がなんと30年も続き、ようやく議会制内閣制度が実現したのは1990年のことである。
 さらに2001年、世界を唖然とさせた大事件が勃発する。王宮で銃撃事件が起こり、ビレンドラ国王、アイスワルジェ王妃など王族が殺された。ディペンドラ皇太子も死亡。国王を恨んでいた皇太子が両親兄弟姉妹らを殺害したのち自殺したと公式には発表されたが、それだけでは説明しきれない謎が多い。これは「王家のクーデター」と呼ばれている。
 この事件で王位は前国王の弟、ギャネンドラに移ったが、国民的人気がまるでない。前国王が開明的で、ゆるやかながら民主化を進めてきたのに対し、新国王が専制的であることもあって、事件は専制派が民主派を弾圧するクーデターだったという説もある。新国王は首相を解任、野党民主派政治家を軟禁、いっさいの政府批判を禁止、非常事態を宣言などの暴挙を続けている。これもまた「国王のクーデター」と呼ばれている。
 これで国民が怒らなかったらおかしいくらいのものだ。民主化勢力はデモやストライキに訴え、そして王制打破をめざす革命ゲリラが各地で暗躍をはじめる。

 ゲリラは現代の忍者である。忍者に根来風魔甲賀伊賀などの流派があるように、ゲリラにも流派がある。ナチスドイツと戦ったユーゴスラビアのパルチザン、超大国アメリカと闘ったベトコン、いまをときめくアルカイダ、ゲリラにもさまざまあるが、忍者における甲賀伊賀のようにひろく分布している流派となると、やはりゲバラ派と毛派のふたつだろう。それぞれチェ・ゲバラ、毛沢東という流祖をもち、「ゲリラ戦」「遊撃戦論」を秘伝の巻物として所持し、中南米、アジア、アフリカ各地に転戦している。ゲバラ派と毛派、どちらが伊賀でどちらが甲賀かというと、やはり個人的なカリスマと革命精神に頼るゲバラ派が伊賀、組織と集団で動く毛派が甲賀といえよう。
 ネパールに潜入したゲリラは毛派ゲリラだった。ゲリラは地方をオルグし、リーダーや民兵を定めて「裏の村会」をこしらえ、もはや現在機能しているのはこの「裏の村会」だけだとも言われている。彼らが中国共産党と連動している確証はないが、それらしい状況証拠はある。うがちすぎた見方かもしれないが、今の反日デモは陽動作戦で、中国はひそかにその陰でネパールを狙っているのではないか、まずネパールを押さえてチベットの独立運動家を孤立させる作戦ではないか、そんな気がするのだ。

 非常事態宣言は解除したものの、ここに至っては現政府ではもはや事態は収拾できない。国王介入という切り札は多用されすぎ、すっかり切り札としての力を失っている。おそらくは共産革命が起こるか、それを阻止せんと米軍が軍事介入し、ネパール全土がアフガン化するか、どちらかしかないように見える。
 もしかしたら日本もこうなっていたかもしれないと、ふと考える。たとえば、2.26事件で青年将校の決起に高松宮が呼応し、昭和天皇を廃して高松宮を中心とする天皇親政が実現したら。政党政治家や軍首脳を死刑投獄、戒厳令を続けていたら。そのまま首相の任命と解任を繰り返していたら。そして青年将校や北一輝の、純粋だがあさはかな意見をとりいれ、人権を極端に制限した国家社会主義的な農本政治になっていたら。そんな気がするのだ。


戻る          次へ