-rw-r--r-- 1 kensyu users 38190 Sep 30 23:40 update66.html -rw-r--r-- 1 kensyu users 23712 Sep 30 23:40 update67.html -rw-r--r-- 1 kensyu users 16992 Sep 30 23:40 update68.html -rw-r--r-- 1 kensyu users 16121 Oct 12 19:25 update69.html -rw-r--r-- 1 kensyu users 7933 Nov 21 22:31 update70.html -rw-r--r-- 1 kensyu users 10499 Dec 9 00:43 update71.html -rw-r--r-- 1 kensyu users 6881 Dec 22 00:11 update72.htmlどれほど A300 の面倒見の負担が重かったかという後半であった。
そのおーそーじだが、そーじきのメンテ(フィルタの交換とか)したら、そーじがそれなりに 楽しくなった。ちゃんと汚れとか落ちるんだもん(をい)。
村上春樹 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 (上/下) 新潮文庫現実世界と幻想世界の往復という、わりとよくあるダブルストーリー、ではある。 内向色が強さは仏文学的、 そして「そうかもね」的な、肩をすくる仕種の似合うセンスはアメリカが舞台かと おもうようなとこで おもいっきり東京なので読んでて最後まで違和感がとれんかった。 こういう書き方は文学科出身とヤマかけたら演劇かぁ。演劇屋の考え方はよーわからん。
自己完結的内閉性の打破 ... てのは、カナメになるのは打破の結果でなく、その動機(ドライブ) をどこからもってくるかってのにあるから、そこが弱いのは物語として痛かった。
思想的には『灰羽連盟』のが健康的ではあった。
さて。10 月期のトップ。... 今年度のエースというには敵は 『フィギュア17』、『あずまんが大王』があって苦しいかも。
レキに言われてラッカが逃げ出すようでは、ラッカにレキを救う資格はない。 もともと自分を支えるのに手一杯のラッカにレキに手を出す資格そのものも疑問なわけだが。 ラッカの行動自体は、危険だ。 結果としてラッカが傷つかなかったのは偶然にすぎない。 だが、これ以上のことをラッカにさせることができなかったというのは、体験的な必然なんだろう。
レキのほうに救われる資格があるか ... 列車に轢かれそうになってようやくというところ?
一度は死んだ人間であるから、ふたたび轢かれるという状況での反応はふつーと異なる。
ただこれ、よーするに「助かりたい」と声に出せば救い出すことができるという
よくあるシーンにおいて、声に出させるために外部からの圧力をかけるという、
これまた典型的な解にまっすぐつきぬけたので、かんどーもへったくれもなかったのも事実ではあった。
この世界観は「年越しの壁の光」を観たときによーやくふにおちた。 とざされた空間 ... というよりは、外部とのインターフェースを「壁」という名で具現化し、 直接、意識レベルで扱うことを可能にしたもの。 「烏」とは意識(論理)管理下におけなかった I/F であり、トーガとは管理した(意識の上で計算に入った) I/F であると。 外部世界がどうなっているかということについて、興味をもつ意味はないのだと。
ラッカのケースでみたように、外部からの「手」が「存在しないと思うこと」 と「実際に存在しないこと」とは必ずしも一致しないのだけれど、 「存在しないと思」いこんでる側にとっては、 それと「気付いてないだけ」という状態を区別しようがない。
「気付いてないだけ」と仮定し、外部の「手」の探索に意識を伸ばすという作業は、 定義によって当機的で重い負荷である。 でなければ、「存在しないと思いこむ」という状態は安定でない。
ラッカの問題のラッカ側の描かれかたは、したがって観るべき点はない。 焦点は、烏の存在になぜ気付くことができたのか ── だから。 烏は、もうすこし観ていたかった。これは「その存在に気付いてくれ」という外部の存在の想いであり、 ... 「存在しないという諦め」との戦いそのものだから。
以下は感想メモ:
絵。宮崎アニメ的な拝啓描きこみのこまやかさ ... と想ってみていたが、 さりげなく宮崎アニメ以上のこだわりよ、草に落ちた影のエッジが草にそってぎざぎざになっている。 後半やや髪の毛の表現を中心にダレた感があるし、 「作品」に影響を与えないように枚数減らしの位置を調整する神経が、 かえって目についてうるさかった。
ネム。自分にはもう手は出せないとみきった立場としては、 たしかにこれ以上表現しようがないかもしれないが、 レキ〜ラッカの話とレキ〜ネムの話の交叉にあたる、 レキ昇天を見ながらの、ネム〜ラッカの会話で ネム側の想いがラッカに確かに伝わったと確信できる(ラッカが不審に思うくらいの)程度の ネムの感情表現は欲しかった。... つーか、ここでネムに大きな(ほっとしたなどの)感情表現のために これまでネムの感情表現を抑えこんできてたんだと思ってたんだがな。
ラッカ。典型例として。
カナ、ヒカリ。一般人としての存在。
クウ。健康的な存在、現世への回帰のキー。
橋本紡 『毛布おばけと金曜日の階段』 電撃文庫わたしまけましたわ、ってか ... 白状すればイラスト買い (絵はヤスダスズヒト)。 「バトルシップガール」の粗筋読んだ時にそのまんまブラックリストにつっこんであった作者なんだが、 「リバーズエンド」の時もあやうくイラスト買いしそうになるとこで手首をおさえて本屋を出たんに、 今回は本屋の出口でひっかえした。読む前の期待水準はマイナスっつーか 諦め(面白くなくてもモンクつけらんない弱味)があるっつーか、なかなか複雑なところ。
で、読んだ。... むぅ、採点だけなら「中の下」とでもしとけばいい話だが、評文とすると難しいぞ。 人物描写、なんか妙に細かいんだが、その細かさがなんの役にもたってないとか、 きちんと描写されてしまってるおかげで人物設定の歪みまできちんと映し出してしまってる (高校生〜大学生のはずなんに、思考&感情レベルが小学生じゃねーか? 感情未分化なら未分化なりに複雑な構造を持つもんだと思うぞ)とか、 条件設定から一歩枠をふみこえるきざしという本筋骨格のはずの流れが 結末に何の影響もあたえてない不思議な構成とか、... おそらくは作者の特徴とすべき部分が、 単なるノイズになりさがってるのはどーゆー訳だ?
感想:
せっかくの設定なのに、よむとこないっす。まだしばらくブラックリストでいーや。
そのへんの SF 繰ればこれだけでジャンル一つできそうなネタだし、
この話の条件でも解(話のおとしどころ)はふたつみっつすぐに思い付く。
で、たとえば SF ファンやってるような竹本泉なら
そんなもんにかすりもしない落し方をしてくるだろ〜なという期待感があったり、
あのへんやこのへんやら(← てきとーに上手いベテラン漫画家名いれるよーに)だったら
こーするかなあーするかなと思うのもある一方で、
新人さんならこーゆうんでもいーかな、といった風に作家別に許容範囲が変わる。
... ということを考えたのはつまり、これがララデラの、しかも新人さんということで おそらくもっとも許容範囲が広く(つまり期待値が低く)なってたことを自覚したからだが。
問題設定の終った次の 1 ページでラストの落し方が浮かんでくるほど簡単な話だったが、 構成の非常に綺麗な話で、とりあえず不満というほどのものはない。 むしろ今号唯一の収穫かもしれん。
とはいえ、たとえば作者が竹本泉だったとしたら、 その「問題設定の終った次の 1 ページでみえた落し方」が そのまま本当に落し所になるだろうということは、絶対に思わない。 新人さんだったから、そのまま本当に落し所になるだろうということに疑いを持たなかったし、 またそれは許容できる。
... なに言ってんだか自分でもよく分かんなくなってきたな(をいをい)。
作者名を伏せて読むって作業も要るんかねぇ。
... とだけ書いて寝るわけにもいかんか。
個人的に三大デバッガというと strace, printf, objdump で、 gdb 使うようではズンと敗北した気分になれるんだが、 strace あんまり使わんもんなんかな。
ところで「デバッガ」というからにはプログラムの逆実行 (プログラムを 1 ステップずつ遡る)
くらいはできてほしいのだが、できるやつ少ないねぇ。
gdb で "backtrace" がスタックの内容を上に辿るという意味に assign されてるのを知ったとき、
なんとこんじょなしかと思ったもんである。
つーかですね、最初から linux 入ってて「ラク」だったはずの SL-A300、 なんでこんなに手間がかかるんだ。えーい、こんちくしょー、 実使用まで 1 ヵ月とふんだのに 2 ヵ月すぎてまだ ROM fs の中身が安定しない。