Evangelion Genesis y:x 更新日誌(1999 年 1 月)

[過去の日誌目次へ] [前へ] [次へ]

1 月 31 日。
おむすびころりん本舗の「野沢菜茶漬」というフリーズドライなふりかけがある。 けっこう好きで、かなり前からよく食べている。近所では小田急の店でしか売ってないが、 地元の長野ではそれなりに売っていた。もっとも東京より高価かったってあたりが謎だが。 中身がまんま入ってるのから 6 袋入りのに替わり、5 袋、4 袋と次第に減ってることとか 初期の、生姜が一杯入っていて野沢菜と区別し辛く ほとんど地雷原のような茶漬から生姜が消えて穏やかな茶漬に変わったとか、 いろいろあるけど、ま、それはいいことにしよう。とりあえず旨いので許す。

さて、 これには 1997 年の 10 月頃より 梅かつおの朝粥なるものが 25 周年記念と称してオマケについてきている。 1999 年 1 月の今もまだつづいている。 1 年以上つづき、しかも年の境を 2 度またいでいる。 .... '25 周年' というのは何時から何時までのことなんだろう?

まあつまり、この「朝粥」、もとの「野沢菜茶漬」と同レベルかそれ以上に良い味だしてるので 独立なモノとして売っていただければ買うんだけどなあ、 と延々と待ち続けてる訳。 「朝粥」を 1 袋買うと「野沢菜茶漬」が 4 袋ついてくるというのは ちと能率が悪い。 おむすびころりん本舗が何を考えてるのか知らないけど、 さっさと出して欲しいと思うものである。
新製品リサーチとしても 1 年 2 ヶ月もやれば十分すぎるだろう。

'25 周年記念' という期間の概念としてまだ 25 周年が続いているためには 論理的には 24 周年の翌日から始まって 26 周年の前日で終わるケースが あるだけだと思うんだけど、 まさか今年の 10 月まで出ないんだろうか....


1 月 30 日。
'signal 11'
gcc の Internal error の一つだけど、 メモリが酷使されるためにおきるケースがほとんど。 つまり、システムが脆弱にすぎるぞ、という警告で、 起きるようだとシステムがそれ以降まったく信用できない(gcc だからこそ検知した。 ほかの program で同種のメモリエラーが起きれば OS ごと落ちかねない)わりに難治で、 Linuxer にとっての悪夢ともいえるメッセージである。

3 年振りくらいかな.... kernel 2.2.1 の再構築中に、久しぶりに見た。 K6 移行でメモリ負荷が上がったからか、 発熱による熱暴走限界へのメッセージか。

K5 への downgrade を決意したエラーメッセージだった。


1 月 29 日。
新聞の TV 欄見て思ったこと。昨日、次回予告で見たばっかの「シン・カ」の文字がある...

『彼氏彼女の事情』 Act:18.0 「シン・カ」。
主題がカチっと定まった回のわりに散漫な印象があるのは、 やはり主人公が有馬ではまだ弱いからだろうな。有馬総一朗からの主観的印象は印象として、 有馬一族のありかたをもう少し丁寧に描きこむとかして一族の(敵対的)存在感を出すあたりが まずやっておくべきことだろうと思う。ほんとうにツマはじきにされているのなら 一族の集まる場でそもそも話題になんかのぼりもしない。 総一朗に (ストレスの?)ハケ口を求めている '姉さん' もいることだし、 一族内部で '姉さん' と敵対関係にある人達による総一朗の囲い込みを見せて欲しかった。 一族すべてが総一朗に敵対的イコール一族が一枚板なんてことはないんだから。
つうか、このままだと、なんかえらく仲の良い一族なんですけど。 偏見 120% だけど、金持ちな一族って身内同士は仲悪いもんでないのかな。

後半は話に聞く例のシーンへと一直線、な流れ、でも話に聞くほどのことはないと思う。 まあ、確かに 7 時前の放送で抽象表現だけとはいえよく描けたってのはあるか ...

有馬が戻ってきたのは 8 月 4 日、本を大量に借りたのはお盆前ということで 30 冊読むのに使えるのは 20 日間ほど。.... みゅ。 とりあえず雪野の 50 冊に挑戦! はちょっちきついんではなかろーか。


1 月 28 日。
LAN の 100M 移行の話。基本的には 3 策ある。
  1. ぜんぶ 100Base-TX に張り換え。
    100 NIC は 3000 円以下、100 専用 dumb hub も 1 万を割って いっそ全部交換してしまってもいい。 ただ 1 枚だけ PCMCIA な NIC があり、これを 100 移行すると ここに 1 万とすこしかかる。
  2. atropos に 100 と 10 の NIC 2 枚差ししてリピーター兼用。
    どーせ LAN が活きてる時は atropos も活きてるんだから、 一見、一番安そうに見えるけど、 atropos には 7 枚のカードがすでに差さっていて、 NIC 2 枚差しするためには 8 slots もつマザーに交換しなければならない。 これが意外に高価くつく。
  3. 10/100 共用ハブに交換を任せる。
    stored-forward な switching hub でさえ 3 万を割って、単なる dual hub (10/100 のネゴは NIC 任せでハブ自体はスルー?) は 1 万前半。 しかし 100 の dumb hub が 1 万を割っている関係で、 相対的に高価な共用ハブを使ってまで 10/100 switching を残す意義が問題だ。
3. がいまのところいちばん安く、2. が高価だがその差わずかに 2000 円ほど (まじめには計算していない)、 世の中のモノの値段の付き方に感心した一瞬であった ...
まあ、これぐらい競合関係にないと「策」のうちに入れてもらえないので それはそれで論理的必然だけど。
ちなみに 1. には 100 な PCMCIA NIC は 10 のやつに比べ消費電力がケタ一つ大きいのと、 ぜんぶ 100Base-TX にしてしまうと 100 を通すような Category-5 cable をマジメに作るのはけっこうしんどいというデメリットが待っている。 2. には 8 slots もつマザーの希少性に鑑み、これから先マザーの選択がむつかしくなる。 3 - switching hub の場合は 1. より高価につくのに 1. より悪い速度しかでないし、 3 - dual hub の場合は hub をまたぐ 10/100 ネゴにまつわる相性トラブルを耳にすることは多い ... といったようなデメリットがあることは分かっている。

『彼氏彼女の事情』 Act:17.0 「彼の去来」。
前半はほとんど記憶に残っていない。 後半、雪野の心理に沿って観るとあんまり面白くないというか、 つまり一人称的な造りのところに極端な視野狭窄状態に入ってしまっているので 雪野に沿うと(雪野の感情以外の)周りがさっぱり分からなくなるので 有馬に沿って眺めていた。
有馬には 雪野からの心理距離が離れたように思える訳で、したら頬に触れるといったような sexual な意味合いの強い行動をここで起こす筈がないのだがな、 などと観てたら、あっさりキレて、有馬の行動に一貫性が出てしまった。

偶然なのか、芸が細かいのか疑わしいが、ってあたりがちょっち信用がなかったりする :-)


1 月 27 日。
先日録画してあった『もののけ姫』をようやく観た。 ちなみにカレカノは未だ観ていない。 観るどころではなくて増える一方のテープを LIFO ── Last In First Out, 最後に録画したものから順に観ている (テープの空き領域の管理がラクだ)ので、 ようやく次に観るのがカレカノ、いやそのまえに何か録るかもしれないけど。

さて、『もののけ姫』のこと。
絵:
ジブリ特有のフルアニメーションは相変わらず綺麗だし、背景の彩色は感動的でさえある。 もっとも めいっぱい動かすために簡略化された人物と詳細に描きこまれた背景のマッチングの悪さ、 たとえば背景から感じられる光の柔らかい当たりと 人物への光のコントラストの強い当たりの差、 人物の影が背景に落ちているときの背景事物に沿ったデコボコが やわらかすぎるといった不自然さも相変わらずだった。
一切の記号表現を排除した、たとえば走るシーンにおいて 足をきちんと動かして、その上で歩幅と走った距離がちゃんと一致しているといった 手抜かりの無さが一か所を除き徹底していたのは、 ジブリのものとしてもあまり見たことがない。 カメラワークを CG を使って低い視線からなめさせた走りがもったいなく思うほどで、 おそらくは背景と動物の絵の差を解消すべく導入された CG、 気合いを入れられたセルにあっさりと負けてるんではなかろうか ... って、人物も CG だったりはしないだろーな。 序盤のタタラ神の CG やラストのシシ神様の CG に見るべきところはないけれど、 中盤の水面の計算に使われたとおぼしき CG やその他の幾つかはこれぞ CG の使い方の 見本と思えるほどセルの中に融け込んでいた。 もっとも、 ついでに人物が水の中に漬かった時の屈折の変化もやっといて欲しかったかもしれない。 あの水は屈折率 n = 1 とでもいうつもりなんだろーか。
ついでに。 話す時は引き、聞く時は身を乗り出すといった身振り手振りの動作が大きいのは (アニメにしてはわりと)感情を抜き気味にした喋り口と表裏一体として ジブリの人物の特徴の一つだと思っていた。だから ジコ坊が時々動きを最小限にとどめて他人の話を見据えているのは、 ちょっと芸風変わったというか、そういう人物も描けるのだな、と少し思う。 もひとつついで。三日月が夜明け直前に空高くあるというような絵は いい加減なんとかしてもらいたいものである。今回の場合、単に 27 日月(三日月の左右逆) にすればいいだけなんだから。

話:
やたらに腕や頭が落ちまくるのは、必然性がイマイチよく分からない。 (ヒーローにありがちだけども)無駄矢が一本もないというあたりで 既にアシタカ彦の強弓の上手さは伝わって来る訳で、 かといって後半で弓が強いことを何かに使った訳でもない。 前半の自己防衛のためだけに騎馬武士の首や腕を矢で射落としている冷酷さと 後半のあまりの生命尊重の同居は『火の鳥』(by 手塚治虫)を彷彿とさせるが、 あちらは「神」(= 理不尽なもの)である。 『もののけ姫』においては、「理不尽なもの」はシシ神様(人を助け、イノシシは助けなかった) であり、エボシ様(「合理的なもの」)と対立する構図なんだから、アシタカが「理不尽」 といったカラーを持ってはまずかろう。 もちろん局面局面で彼が、話の中では明らかにはされていない自分の価値観に基づいて 最善を尽くしているらしい様子は描かれており、 それで十分だと言えばいえないこともないけど。

つまり、この話で主軸になっている問題は「難しい」問題である。 ちゃんと言うと、利害衝突の問題であって、かつ相手の事情の斟酌なしに自分の利害だけを 計算する条件での妥協点が存在しないという意味で、 ケースバイケースに考えてさえ解がないという意味で、 アシタカに見えている問題は「難しい」。 エボシやオコト主から見えている問題はまた別で、彼等の問題の立て方では 問題を解くのは「易しい」。 シシ神は必ず滅ぼされるし、オコト主の一族の絶滅は近い将来のこととして確定している。 そこに深く考察すべき不確定要素はない。
妥協点を掲げることができない以上、アシタカは右往左往せざるをえず、 その行動には目的が無いのだから目的からみた一貫性がある筈もない。 とりあえずエボシやオコト主に「生きろ」と説くことは無意味である。 エボシの頭にあるのはタタラ場とシシ神の対立で、 オコト主の頭にあるのはタタラ場の人達に打撃を与えることだから、 ともに自分自身が生きぬくことはそもそも交渉主題に上っていない(それは瑣末な問題である)。 そして、アシタカは「共存する方法は無いのか?」と彼等に問うが、 もちろん彼等が立てたのは違う問題なのだから、この問題を考える労力を払われるはずがない。

全体に『ナウシカ』原作と似た物語でありながら、大きく違う点がここにある。 ナウシカは腐海(自然)を愛しながら、それを行動の中心に置きつつも しかしそれを他人に説くことはせず、 常に説く相手の観点に立ち、その利害に沿った。 相手の利害に直結する問題に自力で還元することのできなかったアシタカに説得力が ほとんどなかったのは当然のことである。
現在の現実社会における人と自然の共存共栄は単なる棲み分けを目指すものではない。 多くは、共存共栄することによって人に利益をもたらすからこそ共存する、 という形の論理をなす。これと対比すればアシタカの問題の立て方は naive なところがある。 『もののけ姫』において、実質はエボシの完勝であって、これとジコ坊の

「いやあ、まいったまいった。バカには勝てん ‥」
という言葉が象徴する見掛けのアシタカの勝利は混同できないが、しかし 『もののけ姫』が物語として成立しているのも後者が前者を覆い隠してしまっている効果に よるものだと思う。タタラ場は無くなったにせよ、 もともと砂鉄の産出した重要な土地である、シシ神が亡くなったことによって 妨害が一段落したならば、再建は容易であるだろう。 こういった実質的な「人間の勝利」と同時に、 ともかくも山(自然)は生かすことができたという アシタカ(愚直な正直さ)の達成感の(見た目の)両立。

今となっては、興味の持てる主題の扱い方であるかどうかは、良く分からない。


1 月 22 日。
諸般の事情によって、遠ざけておきたいソフトの一つである Excel なんぞとお近付きになっていた。 このクラスの表計算ソフトは presentation と computation が混然となって どっちつかずの印象が強い。 そもそも表の中(座標があるという意味)にタイトル等が置かれるという発想自体が presentation 用アプリとして信じられん。 ... のだが、世の中これで十分であるらしい。不思議だ。

ちなみに linux 用にも Applixware という office 系アプリがある。 Microsoft Office 対抗馬としての期待の星だけど 肝心の Word 文書との互換性の点でナン(日本語や絵の convert にコケるとゆー話) なのでまだ使いもんにならない。
褒めるほうも書いておくと Applixware の spreadsheet は linux 上で日本語の(たぶん)使える貴重な、おそらくは現在唯一の spreadsheet の筈だが 立ち寄ってみた webpage には大したことは書いてなかった。on line document くらい webpage に置いとけばいいのに。足し算引き算くらいなら awk にやらせるからどーでも いいとして、もちっと複雑な関数がどれだけあるかってのにそれなりに興味がないでもないし。 とりあえず最小二乗 fitting と主因子分離くらいは出来ると嬉しいな。 要は行列の固有値/固有ベクトルを算出する routine 組み込んでおけばいいんだし (← 自分で書くのは behavior がシビアだから嫌 :-)。

『彼氏彼女の事情』 Act:16.0 ── はまだ観てない。ただいま「もののけ姫」録画中なので。 さて、四捨五入しなくてさえ 10 日もほっとかれた話にケリをつけておこう。
イリアステルにおける 再々反論とその続き(12, 13 日. 14, 15 もか?) を眺める。

「なんでこれ(『ビバップ』)、アニメでやってんだろう?」
あるいは
「なんでこの人(新谷かおる)、こんなもん(『ぶっとび CPU』)描いてるんだ?」
「まだあなた(日高万里)に書けるような話でないと思うので大事にあたためた方が 良かと思うですよ... それ(『時間屋』)は...」
なんてのも感想の構図として同類かな。 期待するものに対して違うものが現われてくること自体は別にどうということはない。 ただ、方向を違えればそれだけレベルが落ちざるをえないし、その落差が事前に 予測できる程度のものであってなおかつそれを公正に眺めれば赤点であると 評価せざるをえないのなら、そこに現われるのは「予定通りにつまんなかった」 ということになるだろうと思う。 ちなみに "つまんなかった" と書いたのは「面白かった」の対義に 使える言葉がこれしかなかった論理上の要請からで、べつに『ビバップ』とかが 「つまんなかった」という訳ではない、念のため。

ポポロクロイスを褒めるにあたって、写実主義への批判が込められていたのは ある程度事実で、つうかそう読み取れないようだとナンだと思うけど、 無分別な reality に意味がある訳ではなく、必要なところ、 必要な成分こそ表現に力を注入されるべきだと思う ... くらいの意味を込めた。 写真でさえも、本物を real に切り取っている訳ではない。 そこには強烈な撮影者の意図が込められる。 それは露出であるかもしれないし、 構図であるかもしれないし、 フィルム、レンズの選択を通して表現されているかもしれない。 写真撮影が下手な奴、という言葉が、たとえばピントを外すとか露出を間違えるとか を意味することもあるけれど、どうしてその写真が撮られているのかが見て分からない、 そういう写真ばっかり撮っている、ということを意味することもある。 写実主義ということと上手下手ということはぜんぜん関係がないことは明らかだ。

アニメが漫画と比較してさえ絵が簡略化されたものだったのは 費用という要請以外にも、複数人による分担作業の都合上、 あまりに微妙な個性は絵に与えることができなかった、ということが大きい (でなければディズニーアニメで誰が描いたのか分からないようなアニメばっかり 量産されていることの説明がつかない)。 コミックのカラーページの髪の色にはアニメほどおかしなものがこないのもこれが理由、 もともと白黒で人物の区別がつくような絵になっている(はずの :-)漫画においては、 髪の色まで多色を使って人物の識別する必要が無い。

ということはつまり、アニメにおいて表現力が上がることはアニメを縛っていた制約の 一つが解き放たれるということで、喜ばしいことには違いない。
しかしそのことは、決して、たとえばロストユニバースやビバップにおける CG とセルアニメの間の違和感を弁護したりはしない。 いまさっきちらと眺めた『もののけ姫』、CG があちこちに使われていることが一目瞭然だけど、 句読点を覚えたのが嬉しくて文中にむやみに挿れまくったどこぞの誰か (in 『アルジャーノンに花束を』)と同レベルに感じとられるようでは 評価に値しないと思う。

第二の論点。

... そろそろ使われている述語が私の理解の範疇を越える (私が知る系統の概念かどうかに自信がもてない)。そもそも「選択」という言葉が。
正正コンフリクト、負負コンフリクトにおいては結局「選択」が必ず行なわれる、 正負コンフリクトには「選択」が発生することはない、 という使い方をしているけれど、 個別言語の図式の話や「自分とは何か」の問題は正負コンフリクトの問題の一つであって、 「選択」が発生しないことは当然のことで話になんの問題もない。

ついでに書くと、 正負コンフリクトも問題を正正(負負)コンフリクトに書き直して選択することはありえ、 「自分とは何か」に対して回答を与える作業の一つにそういうものが含まれていると思う。 ... つまり、この問題を「自分とはどうあるべきか」という問題に置き換える作業は 正正コンフリクト(どっちのタイプの自分が自分にとってより望ましいか)への 書き直しになっているし、もちろん選択が発生している。
正正コンフリクトでの '正' の量の評価を行なう時に、たいがいついでに正負コンフリクト に直面するのはもともとの問題の構図が 正正コンフリクト、正負コンフリクトともに発生している状況だからで、 正負コンフリクトのために「正」の評価が難しくなっているからこそ 正正コンフリクトもまた重みを増している。これはもちろん正負コンフリクトの 評価が重要だということでもあり、人が正負コンフリクトに興味を持つのは それが「選択」に直接は関わらないにせよ、間接的に関わっているからこそ興味を持つ ── という論理構成にとりあえず問題は感じない。... という自信無げな形になっているのは 正負コンフリクトの重要性の位置付けの話はどーせそこらに一杯あるだろうからで、 いまためしに作ってみただけの論理なんぞ一瞬で撃破されるのが見えてるからである ^_^;

さてもとに戻って、

アニメ制作者はアニメという言語によって構造化された産物であると言えるでしょう。 彼らがそうした制約から逃れることはできないのです( 引用)。
これはまったく本質ではなく(そもそもトートロジーとちゃう?) ...
製作者がアニメしか造れないかどうかなんてことは視聴者の知ったことではないのだから。 今日の今回の話の冒頭に挙げたように、 製作者でさえも差し替えがきくものだとして物語を眺めることができ、 物語の質、傾向その他もろもろ を決めるのは製作者(集団)の代表者だけでないことは確実であり、 代表者によってさだまる制約がその物語にとってやむを得ない制約であるとは限らない。

私は確かに「製作者に尋ねることができる」という形で論理を組み立て直した。 でもこの時の「製作者」が製作者集団の代表者個人を意味するとは書いていない ── とはこの文脈だけを読むとかなりアレな書き方になってるので、 ついでだから時事ネタで説明しておくと、 カレカノで庵野監督降板の噂がちょいまえに流れた。
監督が物語の製作として全てを握っているなら、これはすなわちカレカノの製作中止にも 匹敵するニュースの筈だけど、そんなことはない。 カレカノを製作する集団の中において、監督は確かに一定の位置を占めてはいるけれど それがすべてカレカノの色を決めている訳じゃない。 逆に、カレカノの色すべてを定める集団というものがどこかにある(もちろん監督を含む)筈で、 そういう集団をもってカレカノの製作者と呼ぶことにすれば、 これはなるほど「製作者に尋ねることができる」というときの尋ねる相手としての 「製作者」にもっともふさわしい人(集団)となるだろう。 そして「製作者」にアニメという制約がつくかどうかは それこそ物語の内容によってのみきまることである。 なにしろアニメでなきゃ嫌だというスポンサー、放送局があったら、 そういうものでさえも交換が効くものとして扱われているのだから、 「製作者」内部の個人個人にいたってはなおのことである。


1 月 20 日。
est に VNC を投入し、一応リモートで動いた。つまり、 est の DVD ROM drive に入れた VCD を hardware decoder 経由で、 atropos の上に表示させた controller を 使って atropos の上で 視聴することに成功した。
コレ(72k, 1/2 size) がその atropos での表示画面。 下段中央右寄りの窓は est の窓で、ここに decoder の controller が表示されている。 Display 部分は est の decoder から atropos の capture card へ S cable で繋ぎ、capture card に表示させている。
画質は ... まだ DVD 持ってなくてこれ Video CD なので未評価。

VNC は 10M の LAN を跨ぐのではやや反応が鈍い。 est に 800x600x16bpp と小さい画面を使ったとしても 1Mbytes ある。 LAN の能率を 20% とみて 10base-T で 200kbytes/s ほどだから 0.2 fullscreen/s ほどの 更新になる。全画面を更新する必要はめったにないから ここまで極端にトロくはないけれど、それでも今時の高速描画に慣れていると ちと辛い。で、100M 移行したいがそのうちに。 なにしろ少なくともカード 2 枚、ハブ 1 個を同時に交換しないと効果がないからねぇ。 しかも 10/100 共用ハブ買うよりもしかして全部まとめて 100M 化 + 100 専用ハブの ほうが安いんと違うか...?

さて、忘れられた頃に話を続けよう ── すでに 1 週間以上経っていて、 続けるのも気力が要るっつうか、眠いので以下は明日:-)


1 月 18 日。
という訳で復活。
14/15/16/17 とまとめて書いたら気力が尽きた。 ネットワーク周りの security やらなんやらの微調整も終わり、あとは VNC で est も完成する。 ただ、est はキーボードもディスプレイも繋がってないマシン (どっちも VNC 経由で atropos から間借り予定)なので、 VNC の導入ん時だけはキーボードとディスプレイを atropos から借りて こなくちゃいけない。 生きている atropos のキーボードをひっこぬくと ちょっちショートが恐いので est の残りの調整はまたいつか、とゆーことに なりそうである。
1 月 17 日。
結局 est の出産にともなってトラブルをおこさなかったハードウエアは無かった。

最大のガンと後になって判明した DVD Decoder は, 付属の CDROM の中の readme 読むと、 このカードを差したままで OS の install をしないで下さいと書いてある。
── OS install する前に、この文章をどーやって読めというのだ?
とゆーか、OS install する前の人間の誰が install した後の driver のタメの CDROM なんぞの中身をいちいち全部事前に熟読すると思うんだろう...?

そーゆーことは紙に書いておけって、ったく。


1 月 16 日。
est のケースってな要するに M95A-PC AT のことで、幅はともかく奥行きが大きいと書いていたと思う。 実はこの奥行き、それなりにそれなりな配慮な結果であるらしい。
つまり、CPU のヒートシンクのフィンが前面からの CD-ROM Drive と 後背からの PCI なビデオカードに挟まれてぎりぎり成り立つような、 そういう奥行きのつもりで設計するとこれがミニマム、つまり AT マザーのサイズは幅 22cm、長さ 22 〜 23cm、 CDROM Drive の長さが 21cm なら このケースの奥行き 45cm というのは 端ぎりぎりに Socket7 が置いてあるマザーを置いて、CDROM Drive を入れた時に ぎりぎりで干渉しないサイズ... ということか?
んだけど、21cm の奥行きをもつ DVD Drive をつっこむと確かに Drive 自身は 何も干渉しないけど電源コネクタが見事に CPU フィンと干渉した。 ついでに 20cm 長の S3-864 なビデオカードも CPU の脇を通りすぎて DVD Drive と干渉せり。
これ、ほんとはケースの設計としてちょっと間抜けなのであって、 3.5inch ベイと 5inch ベイの上下を逆にしとけば よほど背の高いフィン使わない限り CPU フィンとの衝突なんて起きない筈なんだけどな。 もっとも、これはきっと放熱の都合だろう。

ケースそのものの取り回しは小さい割には良い。 ふつーなら溶接されているようなところでさえネジ止めになっていて ほとんど鉄板一枚一枚のレベルにまで徹底的に分解できるのは、 分解できて中が触りやすいとか言うんでなしに分解しておかなければ とても中を触れるような大きさのシロモノではないから 多少割り引いて考えなければいけない ── つまり、一度組み立てた後でたとえば HDD を外したいという場合、部分的に分解すれば 外れるというんでなく、事実上、半分位は解体しないと外せないので、 その辺はナンだけども、 それなりに自由度はあった。 これで電源が静かでさえあれば、(24h サーバな) atropos のケースにするんだけどなあ...

ところで、上記の干渉について。
結局 est には 16cm 長の、DVD Decoder のオマケについてきた Permedia2 なカードをいれたんだけど、最終的には display を繋げないつもりの est に 4M SGRAM なカードってなんかちょっともったいない(864 は 2M DRAM だ)。 せめて suezo にいれてある CL5434 と交換、 しようとしたら suezo のケースも小さくてこっちは (est にはなんとか入る) Permedia2 さえ入らなかった。
ケースの拡張性がどーこーと言うが、ベイの数よりはスロットや IRQ の数のほうが 資源として貴重であり、したがってスロットの数を増やしやすい、 そういう「拡張性」の大きい、つまり小さいケースが好みだというのを前に書いた。したら、 それの裏返しとして「ドコに何を挿れるか」という「拡張性」 が著しく損なわれているような気がしないでもない ^_^;;


1 月 15 日。
atropos の CPU を K5-133 から K6-166 に換えた。 これにともなって、mpeg decoding rate がどれくらい改善されたかを測った結果 ── まったく変化が無かった。 使ったのは VideoCD,『トップをねらえ!』の 3 巻目 5 話後半冒頭と 6 話の ED のあたりだけど、 どっちでもだいたいこんなもん:
  sound の設定         fps
  stereo,medium,    : 12.6  「そんなんでは出撃できん!」のところ。
                    : 13.3   ED, 太陽の出る瞬間
  stereo,medium,zoom:  4.0      同上
  stereo,high       :  5.9   音も映像もとぎれがち。
  stereo,high       :  8.6
  stereo,high,zoom  :  3.2   音が途切れがち。
  mute              : 18.7
  mute              : 18.9
  mute,zoom         :  6.3   映像とまりがち。

測定には mtv 1.0.8 を使用。VCD Drive は Nakamichi MJ 4.8(SCSI-2).
zoom というのは スクリーンサイズを倍にした時のもの。 いくつかパラメータをいじったところ、 ISA バスボトルネック、メモリバスボトルネックの二つが支配的という感触。
普段 human-computer interaction の tuning には気ぃ入れても performance tuning は めったにしない。しかしいくらなんでもクロック比 1.6 倍の CPU つっこんで CPU ボトルネックな計算でまったく改善されないというのは悲しすぎる(K6-166 は K5 に比べるとかなり発熱する) のでメモリ周りの設定を変えて 20.0fps 出るようにはしておいた。
以前の数値とちゃんと比較するために underclocking してみたいと思うけど狭いトコに手ぇつっこむのも あんまりやりたくないのでまだやってない。

しかし、素ではなかなか事態が改善されないというのは、 以前のマシン、ある意味けっこうバランスが良かったのだな。


1 月 14 日。
電車ん中で A4 なマシンを広げてる欧州な方ひとり。 所持者の身体の大きさのせいで錯覚を起こしそうだが A4 のマシン、だと思う。 私が気付くまでかれこれ 20-30 分ほどは使っていたと思うが、 A4 クラスって実用 1 時間も持つのかしらん、 ターミナル駅までにバッテリはもたんのではなかろーか、一所懸命 叩いてたけど。
欧米で (B5 以下級より) A4 が売れるのは車移動がほとんどのせいだ、 ということになっている。 しかし、電車移動で A4 を持ち運ぼうとする日本人はいるのだろうか、と思う時、 別にそんな事情がなくても A4 でも十分に小さいんだろーな、と思うのである ...
1 月 13 日。
某氏から CPU を一ついただいた。 そんな訳で atropos が est を出産するため、 私はこれから産婆さんである。 昨日 suezo が atropos から自立した(NFS mount が外された)ばかりとて 一息つく暇もない atropos かーさんであった。 まったく大変だねぇ ...。
atropos のメモリは 64M bytes, この出産で 48M に減る筈だが難産なら 32M に まで減るだろう。 ま、脂肪(ramdisk) が 13M もあったんだから、多少は痩せてもよかろ? > atropos

マシンネームはすべて "Five Star Stories" からで、今回うまれるのは 黒騎士(blacklist な OS)専用っつうことで "est" とあいなった。

マシンネームには一つだけ守っているルールがある。 それは最初の 1 文字が必ず今までのと異なるように ── ということである。 マシンネームの abbreviation の時に、1 文字打てば補完が効くのと 2 文字 打たなければならないのと、使い勝手はかなり違う。

初めて買った PC-9801Vm2 は lachesis で、このマシンが破棄されて以来 lachesis の名をもつマシンがなかったので今回つけようかと思ったけど、 ルール優先("localhost" と衝突する)ということで復活は きっと 7777 年までないだろう。
ちなみに clotho は(J3100SS001 が破棄されてからの)長い眠りから醒め、 昨年(MK-32 として)ちゃんと復活した。

2 文字と 3 文字の差はたいしたことないけれど、 1 文字と 2 文字の差はけっこう大きい。
電話の内線転送のアクションがボタン 1 つからボタン 2 つに変わった時、 使い勝手の悪化は凄まじいものがあった。

emacs のコマンドは良く使うものに限っても最早 1 打鍵では どーにもならないから、2 打鍵はやむを得ない、そうすると モノによっては指が勝手に M-x function-name と打つのと たいして気分が変わらなかったりする。

One action の有難さ、という話でしたっ。


1 月 12 日。
先日から続いているところの交換日記な議論。
私(Dec.17) → 彼(9 日) → 私(9 日) → 彼(11 日) → 私(11 日) と続いて来ている。 一見、私が即日、彼が 2 日後に書いているようにみえるが 一日の始まりと終わりの定義のズレによる見掛けの時差であって、 実態は相互に 20 時間以上あいている。
ま、いずれにしても今日はなんもなかろ、と思っていたら .... 15 時間そこそこか? で、 再々反論 が載っていた ... しかも長い。
前回、若干、本質部分を先送りにしたよーな気分はあったんだけど、みゅ、 その反動で今回のは面倒そうなので明日回し .... にすると、マラソンと一緒で 止めると再開がきついんだよねぇ。
前半読んでたらなんかイチから説明せなならんのか、とちと暗くなったけど、 後半にちょっちとっかかりがあったので、なんとかなるか ──

まず第一の論点、「なんでこれアニメ(実写)でやってんだ?」という発言の裏。
鑑賞者がこの問いを発する時、その意味するところは見ためよりも遥かに深く、 広範囲なことを問うていることがある(その一端は既に触れた)、 ので今この筋には深入りしたくない。
ただ、鑑賞者自身がアニメ(実写)に何を求めているか、ということではなく、むしろ どちらかといえばアニメ(実写)に期待していないものが 滲みでてきているように思う。 たとえば実写なドラマ『プライベートアクトレス』に対して発したこの発言には、 『プライベートアクトレス』(の原作)は事実上、実写では不可能だろう、 ということが裏にある。 『ガラスの仮面』にも同系のことを思うし、実際、『ガラスの仮面』の実写なドラマの 脚本、演出の苦労には涙をさそった。月影先生の迫力だけで話がもっていて、 マヤあたりはどーでもよろしかった:-)
だから、この返答としての「アニメ(実写)でやるしかなったから」という消極的選択は あんまり有意義な返答ではありえないと思う。

第二の論点、に入る前に scaling factor に関する暗黙の発言について。
私の癖の一つとして 1.5 倍差で同一視できるのなら 1000 倍差でも同一視できるだろう、という scaling factor の過度の軽視に見える論理展開がある。 そもそも y:x における根幹のネタもその一つだ :-)
これは裏をかえせば「量的違いは質的違いを(この場合には)生まない」 と主張していることに相当する。 最初からそう書けよ、という話もないでもないけど、 論理の見通しが格段に違うのでよく使う。 ま、若干特異な書き方なのでちょっち副作用もある ^_^; 今回もそうで、媒体の「選択」という時の選択の幅に関して少し戸惑いがあるように思う。

表現する時に使われる媒体、言語とは何だろう? すでに挙げたように、それは言葉であり、音楽であり、絵であり、人の動きであり、 それ以外のさまざまなものだろう。 また何かしらの感情を表現する時に、人が採る手段は常に一つではなく、 そのうちのどれかを自然に選びとっている。 これが最も上位のレベルの(おおまかな)「選択」である。 さて、電話を通じて何かしらの感情を表現することを考えれば、 この時に人が採れる手段は、このレベルでは言葉か音楽に限られる。 しかし実際には、日本語があり英語があり、音楽でも口笛があり、 他にもいろんな可能性があり、それらのどれかが選択されるだろう。 最下位層ではそれこそ文字一文字一文字の選択が行なわれているに違いない。
さて、 これらの「選択」に媒体の選択という以上に区別する必要があるだろうか? 何かによって「選択」の幅を狭められることはある。 完全に自由に選択できることはめったにないが、かといって自由が完全に奪われていることも まためったにない。それだけのことではないか?
個別の例について考えれば、それぞれある程度以上の上位層では確かに選択の幅がないだろう。 そういう上位層について選択の幅がないことが 下位層について選択できない/しようとしないことは絶対に意味しない。 興味があるのは選択できる層についてであり、あるいは 上位層のどこまでが本当に選択できないのかを鑑賞者が知ることはできないのだから、 適当だと思う上位層までだけを製作者が選択できないと仮定して 何かを問うことは意味があることだろう(というよりそうするしかないだろう)。

アニメという制約を受けても、そう、漫画的な表現によるものがあり、 実写的な表現を採用するものもある。 「媒体選択の理由を問う」という時の「選択」の意味するところは、 アニメの中のそういう表現の傾向の問題であることもあるだろうし、 アニメ/実写の選択理由を問うものであるかもしれないし、 もっと上の TV ドラマ/ラジオドラマ/CD ドラマの選択理由を問うているのかもしれない。 "メディア" という実イメージべったりの言葉を使わず、 "媒体、言語" という抽象化されやすい言葉でできるだけ押し通しているのは もともとこういう選択を統一的に扱いたいという思いが裏にはある。

だからあんまり具体例に拘泥しても仕方ないというか、 むしろ有害な気がする(実際、'幅' について狭く捉えすぎ)ので 具体例に対しては意識的に答えなかった。 もういいかと思うので:

しかしビバップって実はアニメでやる必要をぜんぜん感じない(日誌 Dec. 17)。
ビバップが実際に実写でやれる可能性があったかどうかは知らないし特に興味はない。 しかしビバップが実際にコミックで連載されている以上、アニメ以外の選択の手段が あったことだけは確実である。 別にアニメなビバップが失敗してるとは特に思わないし、 選択の重大さが分かっていない、とも思わない。 けど、粋狂なことをしているな、位は思ってもバチはあたるまい、 って、「粋狂」の中身を説明しなければならないような気がするけど、 これはもうそれこそ今回の議論をぜんぶ読み返していただく他はない。
山がそこにあるから山に登るといったことを別にとやかくは言わないが、 歩いて登るよりはヘリで空輸したほうが荷物は多く運べる訳である。 粋狂を押し通すにも金がかかる。結果的に TV 東京では半分も放送できなかったんだから、 produce 能力に完全な信をおくことができないといったあたりの理由も きっと 5% 位は含まれていることだろう。

ところで今から実写なビバップが出来たとして観るかと尋かれれば、ま、観ないだろうな。 それこそ '二流の実写' になっていそうだから。


1 月 11 日。
突然な 9 日の話は もともと アニメのイリアステル 雑な記(9 日) に対する反論として出たものである。で、それに対する再反論が 雑な記(11 日) に出てきたんだけど ....

再反論の要点の一つ目、「媒体、言語を選択する自由ありやなしや?」 という観点は実はあまり焦点にならない。この観点からの反論は要約すれば

「なんでこれアニメでやってんだ?」
「そりゃアニメでやるしかなかったからだろ?」
ということになるけど、この流れならもちろん
「この製作者さんもかわいそうにねぇ ...」
という結論になりそうだ :-) この反論の論理は確かに納得させるものがあるには違いないが、 メディアミックス路線おお流行りの現在、 この会話の流れは製作者にとっても視聴者にとっても かなり不幸な論理展開ではなかろうか(言わないのがお約束というやつ)

もう一つの論点、「そも媒体の異なる作品相互に優劣ありやなしや?」 ── 再反論に興味ある視点が含まれているので語りたいことは多いが、 基本的なところに誤解があるのでそれを解いておこう。

「表現したいと思う内容その他によって、言語の間に優劣が発生する」 と私が表現したとき、優劣の判定をするのは本質的には使用者である。 鑑賞者にとって、出来上がった作品は言語が違えば異なる作品であり、 表現したいと思う内容如何に関わらず、そこに優劣は(他の条件がなにもないのなら) 確かに存在しない。
しかし、造る前の段階においては 使用者には選んだ言語が使いやすいか否かという重大な観点が発生している!

彼らは、あくまで同じ媒体の中で表現の可能性を追求します。
と再反論では語られる、それは表現者に対する過大評価というものであって、 複数台のカメラ、複数種のフィルム、サイズを使い分ける写真家がいる ── と例を一つ挙げておけば反論には十分だろう。 もちろん与えられた条件外の媒体を使うことはできない。それは当然のことだけど、 それにしても彼らが 与えられた条件内で狭いながらも媒体の選択に神経を回していないとは私には信じられない。

同じものを表現? した写真と絵画があったとして、 どちらがより優れているのか、ということを論じることは一般にはもちろん出来ない。 ただ作者だけは、 作品を表現したい内容の「再現」あるいは「代用」であると扱うことが許されるが故に、 言語相互、作品同士の優劣を語る資格をもっている。 たとえば推敲とは そういうもの(作品を表現したい内容の「代用」だとして吟味すること)も含むだろう。

ということはつまり、 作品の鑑賞者はその作品の媒体選択の理由を作者に尋ねることができる、 ということでもある。視点を注意深く扱う限りにおいて、優劣を語ることができるのである。

ところで、彼のところで掲示板を置こうかどうしようかという話があるそうな。 この話、掲示板向きで どー考えてみても日記的なトコロで書くコトだとは思えないので、どっかに私も移したいけど 量的に半端で手立てがない。 日記は掲示板に書いたものと違って散逸しないから、時間的余裕はあるけど 掲示板があると嬉しいか ... といっても、もともと日記にぼそっと書いたことから 始まった訳で、掲示板があってもやっぱ交換日記 :-)で行なわれることかもしんないな。 実際、どこぞの掲示板で別の議論をしてたりする訳だからな ...
それにいまんとこ日誌は nemacs で書いて netscape 3.0 で表示を確認してる訳なんだけど BBS に書き込むとなると mule に w3 を立ち上げなければならない。 mule はいまんとこ家では w3 使う時と MIME-encoded mail を読む時だけ (あとは nemacs)なので、BBS だと書くのがちょっち腰が重かったりもする^_^;
実際、 BBS 上に対する反応よりも日記に書かれたことに対する反応のほうが、 私の場合、遥かにはやい。これはこれで問題なんだろうなと思うけど、 いまんとこかんべんして mOm
BBS 上の反応が異様にはやい時もあるけど、実はそーゆー時は mule を立ち上げっぱなしにしてる時で、そーなってると mule 以外での作業が なかなかできんのね ...


1 月 10 日。
はじめて『ポポロクロイス物語』が面白くなかった。
たしかにラストの捻りは、人の死なないポポロクロイス的で味があったかもしれない。 けど、これにしても大岩を崩すほどの爆発を起こしておいてこのオチはなかろう...

ポポロクロイスは感情の揺さぶり方を典型例にして、 その機序を(描く時間を)省略したうえで 30 分という時間にストーリーを詰め込んでいる。 だから月をぼけっと眺めているような時間の中にも それなりの心理の動きがないと観るところがなくて辛い。
シオンとピエトロが見つめあって、普通ならシオンが目を逸すところ、そのまんまひいて ピエトロが先にダウン(頬を染めた)という展開は木陰から見つめているナルシアとあわせて みるべき点の一つであったように思う。 が、ガミガミの陰謀をシオンが認めたところで誰でもいいからアクションとってほしかった。 このタイミングで話を動かさないからピエトロ、ナルシアの筋が平板になってしまった ...


1 月 9 日。
表現する体系というもの、適材適所。
モノゴトを何かしら表現するにあたっては、表現する媒体、言語が要る。 それは文字通りの言葉であるかもしれないし、 人の動き(演劇、ダンス、パントマイム)であるかもしれないし、 絵(絵画、漫画、アニメ)であるかもしれないし、 音楽かもしれないし、それ以外の他の何かであるかもしれない。

何を選ぶかは表現者の自由である ── つまり a priori な優劣はこれらの間に存在せず、何の理由もなければ 「より優れたもの」として唯一つの言語が自動的に選ばれる訳ではない。
しかし、何かを表現したいと思うようになれば話は変わる。 表現したいと思う内容その他によって、言語の間に優劣が発生する。 『アポロ 13』の現実という名の迫力の一部は SFX によってのみ実現できるものであるし、 『大運動会』のカメラワークは SFX ですら不可能なものがある。 俳句を詠むのに特に積極的な理由がなければハワイ語が使われることはないだろう。
数式処理を Fortran で書く人もいないし Cobol で OS を今から書くこともないだろう。 新規の数百万行規模のプロジェクトで 今 C++ でなく C を選択すべき理由は歴史的経緯以外のものがあるとは思えない。 perl で 1 行のところを C で数百行使ったことを知れば親切な人なら perl を教えてくれるかもしれないし、perl で 10 万行のプログラムを書くくらいなら C で書けと言われるに違いない。

「やってできないことはない」というのと 「それを使うのもいいだろう」ということの間にはまだかなりの差がある。 a priori な優劣が存在しなくても、

「わざわざ何故その媒体を選んだのか?」
という問いは有意義なものでありえる。
『カウボーイビバップ』という作品が 「アニメでやる必要を感じない」 と語る時もそうだ。 Japanimation という言語は滑らかな動きや非定型の微細な感情表現を苦手にする。 3D CG は立体感のありかたもセルの 3D 表現と大きく違う。 つまりこの作品の追求している演出のほとんどが、アニメが苦手とする分野である。 たしかに Japanimation でこれだけのものを表現してみせた苦労と技術は かなりの迫力を生み出しているが、しかしもしそれだけにとどまるならば、 これは二流の実写にすぎないという誹りは免れまい ── perl で 1 行のところを C で 100 行使って書いてみせても誰も感動しないのと同じことだ (苦労は分かってもらえるだろう)。 単に「よくできた表現だ」ということ以外に、そうすべき理由がそこに必要だと思う。 そしてそれは『アポロ 13 』がやってみせたように、
「我々はまさにそれを追求した」
というものであってもかまわないけれど、ビバップがそういう作品であるかどうかは また別に検討と考察の要ることであって、 決して暗黙のうちにそう決まったりはしないと思うのである。

実写のほうが言語として優れているから、ビバップのような優れた作品は実写を使って 正当な評価を受けるべきだ ── などという意味では決して無い。 たとえば『アポロ 13 』をアニメでやったとして、 それでもその主要な感動はたぶん伝えることができるだろうけど、 そんなもんたいして意義があるとも思えないという位の意味で、SFX でやった価値はあった。 翻って、ビバップを実写でやったものと比較したとしてアニメのビバップはどれほどの点で 実写なビバップに優れていられるだろうか?


1 月 8 日。
『彼氏彼女の事情』 Act:14.6「これまでのお話(後編)」、Act:15.0 「声の向こうに見えるもの」。
これが何故ポケモンチェックに引っかからないか不思議だ...
もちろん 3 秒/切替え を遥かに下回る、そもそも滑らかな表現だから 引っかからないのは当然だけど、 あれに集中していて目を回して倒れる人が出ても私はまったく不思議に思わない。 2 周ほどベタに付き合ったあとで意識を絵から外したけど、いったい何周まわした?

明らかにこの演出は効果も含めて意図的である。 もちろん実写でもできること(つーか実写だったな)だから アニメだけ規制を強めることは意味がないけど、なるほどこんな危険な演出も出来るんだ ...
そういえばガラスを引っかく音などもできるのか? 高周波すぎて TV から音がでないと思ってたけど。


1 月 6 日。
Debian を断念し、 suezo atropos の copy となったところで machine dependent な部分の設定をした。
X の設定は、かなり細かいチューニングをかけてあって ディスプレイの水平同期限界 64kHz に張り付いた 1200x900 70Hz を実現してあった筈だが もちろん設定なんか綺麗さっぱり忘れている。

で、いまだに 1152x864 67Hz しか実現できてない。
うーむ ... 1200x900 70Hz ってどうやったんだろ (ちなみに XF86Setup に任せると 1024x768 70Hz どまりである)。

とりあえず suezo 前に張りついての作業は X の設定で ほぼ終わり。あとは atropos から remote でもやれることなので、日誌もようやく復活できたのでした。まる。

ほんとは 1999 年問題: or.jp → ne.jp 移行にからむ link の書き換え (についでに行なう webpage の再整理)が待ってるんだけど、 それは、ま、もすこし先でいいことにしよう。

PS.
バチあたりな私は、いまさっき y:x が 16 万を越えたことを知りました。 見捨てられずも、ありがとうございます ...。


1 月 5 日。
4 日はディスクを rescue したところでダウン、そのまま寝た。
せっかくディスクをまっさらにしたんだから、 ためしに こないだ買った Debian にしてみんとす、というところで Debian を atropos につないだ CD-ROM から NFS install.
ちゃんと suezo にも CD-ROM Drive (CM205) が繋がっているんだけど、 すでに obsolete らしく Debian には driver が付属していない (公平のために書くと Slackware 3.5 にも付属しない)。うーむ。

さて、install の感想 ──

超絶的に面倒いっ! なんだこの install sequence はぁ!?
なんでいちいちいちいちいちいち query が出やがる?!

pkg selection に辿りつくまでは、まあ、いいとして、 standerd (89Mbytes) 選んだところで 89Mbytes を一気に展開すると思いきや、 細かいパッケージ毎に設定メニューが出て来て、 remote host からの install ができないこととあわせ、 コンソールにはりついていないといけない。 install 中途のマシンでは他に何もできないから、 これは退屈以外のなにものでもない(WWW を徘徊することもできない :-)

既 install な system にパッケージを追加するにはこれでも良いが、というか この方がカスタマイズの document 込みという意味で遥かに良いけど full install sequence がこのパッケージ追加手順の連続というのは .... 疲れた。
Slackware は一気 install には向くが既 install な system の version up には向かないというのが標準的な評価である。 逆に言えば、まっさらなところに install するなら Debian は Slackware に到底およばないことをはっきりと思い知らされた。
── もっともこれは Slackware がパッケージ管理に手を抜いているということであり、 かならずしも公平な評価ではない、ないんだけど、 疲れたという現実にはまったく逆らえず結局 suezo の system は atropos から / 以下をほとんどまるごとコピーしてすませ、Debian 構築途上な / は 脇にどけられた。

しかしそれにしても、いまや default の emacs は ver. 20 のやつなんか ...


1 月 4 日。
秋葉までオフでちょっち出かけ、戻ってきたら suezo がおかしい。 おもえば Dec. 14 の事件がその前兆だったか、いつのまにか HDD の中身がぼろぼろになっている。 しかも立ち上げ時に HDD を認識しないばかりか、 BIOS の出す HDD の signature message が化けている... つまり OS の bootup に入る前に、"Conner CFA-340 ...." と出る message が "Co!!n CFDA-34! !!" みたいになっている。
「.... なんだこれ? ディスクの寿命か?」
というのを表向きの感想として、IDE ケーブルに雑音が乗ったんだろうと アタリをつけた ... が、まだ未確認(Jan. 6 現在)。 read だけのファイルは化けないが、write するファイルはアウトだな、 とかいった戦略以前の問題として、 そもそもパーティションテーブルを認識するのがやっと、e2fsck の '-b' option (alternative superblock を指定して利用する) なんて今回初めて使った。

同じディスクではパーティションに分ける意味は今はもう ほとんどないと最近の PC UNIX 入門書には書いてある。 論理的にファイルシステムが破壊されることはほとんどなく、 物理的にディスクがクラッシュする時はどこのパーティションにいれておいても 一蓮托生だからだけど、 今回パーティションを念のため切っておいて良かったと思った。

fsck をかけると /lost+found 下にファイルが回収される訳だけど、 パーティションをきってあるおかけでどの /lost+found にどういう種類のファイルが集まるかが事前に決まる ── バイナリファイルがあつまるところに less で中を覗くのは あんまり意味がないし、 テキストファイルが集まるならその /lost+found はたぶん重要なので安易に消してはいけない等々の取り扱い方が /lost+found 毎に事前に決まる。
これはファイルを救うのに非常に役に立ち、結局救うべきファイルは 1 つを除いて すべて救い上げることができた。

救えなかったファイルは X の設定ファイル(/etc/XF86Config) で、 これが救えなかったことによって 6 日に苦労することになるんだけど、 それは 6 日のに書こう。

ところで「バックアップは?」とゆー話もないでもないが、メインの atropos ならともかく suezo のバックアップは なんもせずほったらかしなんであった^_^;
さすがに反省した。 /home, /etc は atropos 同様に全てのディスクに分散 backup とることにしよう ...

ところで秋葉でのオフというのは、旧かくし EVA な人達のあつまりで、 おおむね同人誌から IBM-PC なパーツ屋さんめぐりなどした。 もちろん正月明けで流通が動いていないのでたいしたものがある訳ではないが、 それでも正月前の PC Watch なモノの値段からは少し動いていた。
なかなか面白かったのは、 宗教な人がスピーカーで神の声を聞きなさいというのをやっていたんだけど、 さすが秋葉というかなんというか、 車用のバッテリーをラジカセとともに板にくくりつけ、 それを背負って頭の上にスピーカーを出してテープを回していた。
どうみても手作りなその構成は、 単なる電池なラジカセからスピーカーに流しているのとは違い、 ものすごく(旧時代の)秋葉的だった。

声は何回か聞いたことがあるから、この人自体は前から秋葉に居たはずである。 たぶん今もきっとやっていることだろう ...

もうひとつ面白がったこと。昼食を食べた某喫茶店。カップスープなマグカップは こういうところでは整理のため縦に重ねられるようになっていることがある。 しかし、... 客のところに持って来る時に中身が入ったカップスープを縦に重ねて もってくるとはなかなかやってくれる。 ちなみに糸尻は濡れてなかったので、かなり微妙だった筈だが接触はしていなかった。

もちろん、飲み終わったカップは縦に重ねて脇に置いておいた :-)


1 月 2 日。
1 日に寄ったところが平地のトコだけだったので、山な神社として大山(@神奈川)に初詣。 「寒いぞ」と称して昼過ぎに出かけたら、2 日というのに人がいっぱいで下社に たどりつくころには上に登ると日が暮れそうな感じ。 ライトをもってきてないので登るのはともかく下山が時刻的に冗談にならない。 しかしせっかくきたんだからと言って日向観音のほうへ歩き出す。

日向観音(大山の東稜線)というのはつまり、普段、家から西に眺めている大山の手前側で 「家はどのへんかいな?」という興味ということだったんだけど、もちろんすでに 暮れかけた時刻、稜線といえど満月が照らす明りだけとなっては はっきりいって風景を観るどころでなく、足元がちょっと恐すぎた。 つまり、顔をあげるとせっかく暗順応していた眼が満月に晒されて明順応してしまい、 ふたたび道に目を落とすと .... そこは真っ暗だった^_^;

東の空、つまりほぼ真正面にゆっくりと地平から満月がのぼってくる様子、 それが暗喩している事実は非常に恐ろしいものがあった ...
日没後の薄明が終わりを告げた時、立っている場所いかんでは 進むことも退くこともできなくなるだろう.... 東に開けているから日の出は早い、なんとかなるか? ── つまりは半分まだ冗談のつもりとはいえそういう思考まで頭に出て来るような事態で、 なにしろ、部分的には立って歩けなくなっている。 手で斜地を撫でて様子を探りながらでないと石に乗って滑り落ちるか穴を崩すか 分かったものではなかった。

結局、最後の 300m ほど、 先行していた登山者さんに合流して、そのライトのお世話になってしまった。
という訳で恐かった山道ベスト 3:

  1. 高尾山旧道 (立ち止まると道が消える)
  2. 高川山都留側の夜間下山 (道らしきものが 20 くらいあるようにみえる林)
  3. 今回の大山の東稜線のライトなし夜間下山 (石コロだらけの地雷原な山道が見えへん)
当然なことだけど、まっとーなとこにいくときはそれなりな格好と気分で行く。 散歩のつもりで出かけた低山で
「ちょっとこっちにでも行ってみっか」
とやった時がいちばん危ないのだった ....

ちなみにこの日、あまりに神経を消耗したのでえらく早く寝ることができた。


1 月 1 日。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします ── と 2 日にでも書くつもりでいて、 それどころではなくなって結局 6 日になってしまいました mOm

この日は川崎まで初詣。初日の出は経路上から金港橋のむこうの東京湾に見えた。 "Golden Bridge" だからといって陽に照らされて輝くなんてことはなく、 当然ながらシルエットに沈んでいた ...

川崎は予想よりは人がすくない。その昔、湯島や伊勢での初詣で とんでもなく長い時間がかかったことを思えば、表参道手前の混雑に突入してから 外に出て来るまで 1 時間弱というのは、 お参りした気分に浸るまえに終わってしまった感じ ^_^;

持ち出したカメラは CoolshotII のみで、しっかり T2 と用途衝突している感じなので そのうち CoolshotII + T2 → Coolpix600 ってのがありそうだと思った 1 日だった。


[SS 目次へ] [y:x 目次へ] [前へ] [次へ]