k:1 ハッピーエンド
"A happy end"

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「もしかしたら人違いかもしれないけど ‥‥」

そう前置きして、珍しく逡巡しながら秋子が裕一に告げた。 『月宮あゆ』という子が入院していること、そして 2 日前から危篤状態になっていること ──


裕一が病院にたどりついた時、その『月宮あゆ』という子の容体は持ち直していたらしく、 面会謝絶にはなっていなかった。

教えられた階には、確かに『月宮あゆ』とかかれたプレートがある。 わずかに病室のドアを叩くのをためらい、それから中に入った。 ほんの数時間前までは緊迫感があったであろう その病室には、今は静かに主が眠っている脇で看護婦が一人、器械の調整をしていた。 聞けば非常に久しぶりのことだという。『月宮あゆ』に家族以外の見舞い客が訪れることは。

「あゆ ‥‥?」

それは、あゆだった。いや、多分あゆだろう子だった。 血色のよかった、あのあゆではなかった。頬の色はまあまあで病気という感じではなかったが、 点滴をうける右手は存在感さえなく今にも折れそうなほど細い。 髪もべたっとして艶が抜けている。

「うそだろ ‥‥」

彼は指を折って数えた。あれは栞のことの前だから ── あゆと最後に会ってから半年と少しか。 彼があゆの姿をみかけなくなって、ほとんどすぐに入院した位だろうか。 それほど彼女の姿は激変していた。

彼の表情に何かを感じたのか、その看護婦があゆのことについて彼に教えてくれた。 5, 6 年になるか、もしかするともう少し前、奥の森の木から落ちて瀕死の重傷を負った子。 脳波もちゃんとあり、いつ息を吹き返してもおかしくないのに眠り続ける眠り姫のこと。 ここ 1 週間急激に容体が悪化し、今はまた少し落ち着いていること。

裕一は内心で飛び上がった。頭の中でめまぐるしく今までのことがフラッシュバックする。 7 年前に何が起きたのか ── そしてつい最近おきたことは? 絞り上がっていく心臓をなだめながら裕一は図書館に向かった。

初めて訪れた図書館で目的のものはすぐにみつかった。 壁一面に並べられている新聞の縮刷版。 あれは 7 年前の、夏? 冬? 指を本の間でしばらくさ迷わせたのち、 大部の本の一つを抜き出した。脇の書見台に運ぶとそれを震える手でめくり続け、 彼は一つの記事を見出した。
それは 3 日前に子供が木から過って落ちた事件について、 野党が議会で市長の管理責任を問い質している記事だった。 事件そのものの顛末も軽く触れられている。子供が二人 ──

信じられない思いで彼はそれを見つめた。 断片的に思い出しかけていたイメージが今、一つの物語を形作る。

"あゆにはもう逢えないだろう"
7 年前のその感情は事実の把握としては正確であれ、 10 才の子供にはあまりに曖昧すぎた。 直感に突き刺さって来た想いだったからこそ、 彼は全ての防衛反応を動員して記憶の底に封じ込めていたのだった。


夜も早々に名雪が部屋に戻って寝てしまったあとのリビングで 彼は秋子に尋ねた。なぜかまだ名雪の前で話すにはためらいがある。

「秋子さんは、知ってたんですか?」

固有名詞をぜんぶ省いた問いを当然のように彼女は理解して。

「そんなはずはない、と思ってましたけど ── もしかしたら、と」

7 年前はほんの子供だった彼と違い、もちろん彼女は覚えている。 森の奥で遊んでいた二人の子供と、事故のことは。そして『月宮あゆ』という名前も。 彼の両親がこの街にいたから彼の保護者ではなかったにしても、 彼がその日まで泊まっていた家の主人だ、 連絡先の一つに決まっている。新聞に載り、 市の政争の具にもなった事件を覚えていないはずがない。 その後のことも気に掛けつづけていた。

「俺は忘れてましたよ」

自嘲気味に彼は答えた。

「他人のことは言えないですよ。ほんとうに何もかも忘れてたんだから」

彼女が急須と湯飲みを二つ持ってリビングに戻ってきた。 二人が森で遊んでいたことは皆が知っている、と彼女は告げた。

「二人ともそうは言わなかったわね。でも靴をみればどこで遊んでたかは分かるの。 あの日、あの場所で二人を見つけた時は心臓が止まるかと思いました。
あゆちゃんを病院に運ぶのがもちろん先だったですけど、裕一君、あなたのことも」

最初は二人とも落ちたのではないか、彼女はそう思ったという。 呼んでも彼も答えなかったのだと。

「名雪には、可哀相なことをしたわ」
「?」

彼が首をかしげるのをみて、彼女は微笑んだ。

遥か昔のこと、名雪がどう言おうともほとんどが忘却の彼方にある。 実際、6 年前のことでも 8 年前のことでもすぐに思い出せることは数少ない。

思い出した。そう、彼の目の前であゆは木から落ちたのだ。

重い本の山を片付けながら、連鎖的に思い出されていく 7 年前の出来事。

彼はゆっくりと家路についた。名雪に返事を書いていなかった理由も思い出した。 この街に関係することはすべて忘れていたかったということを。 あまりにそれは衝撃的でありすぎて。忘れたかったということも忘れてしまって。
そして 7 年目にして、ひきよせられるようにして再びこの街を訪れたことを。 平気な顔をして、名雪と同じ家に居候し。自分のことを棚にあげて香里を慰めて。

「ただいま」
「おかえ ‥‥ どしたの、裕一」
「え、ああ、なんでもない、ただいま」
「おかえりなさい」

名雪の問いかけも、うっとうしく彼は適当に返事をかえす。 二人して出迎えてくれる水瀬家の玄関を潜り、 今日ばかりはそれを疎ましく思いながら彼は自分の部屋に戻った。


夜中、3 時過ぎに彼は起き上がり、階下に降りてダイニングの電気をつけた。どうもよく眠れない。 夕飯は二人の顔を見ていられなくてそそくさと部屋に戻ってしまったので、 すこしお腹がすいていたが、 冷蔵庫の中を覗いても、 もちろん大したもの(すぐになんとかできそうなもの)は入っていないだろう、 と思いつつ他に思いつくこともなかったのでドアを開けて、おにぎりを発見した。

「‥‥」

朝一番に謝ろうと思いつつ、彼は皿を取り出し、やかんに水を入れて火をつけた。 お茶の用意をしていると、後ろから声がかかった。

「裕一さん」
「あ、秋子さん。起こしてしまいましたか」
「いえ、‥‥ 夜食の用意なら私がしますよ」
「別にいいですよ、俺のせいですから ‥‥」

もっとも、彼女に抗弁するすべはない。結局、彼女にすべてを任せて彼は席についた。 名雪のいないところでなら、話ができる。裕一は彼女に尋ねた。

「秋子さんは、知ってたんですか?」

固有名詞をぜんぶ省いた問いを当然のように彼女は理解して。

「そんなはずはない、と思ってましたけど ── もしかしたら、と」

7 年前はほんの子供だった彼と違い、もちろん彼女は覚えているはずだった。 森の奥で遊んでいた二人の子供と、事故のことは。 彼の両親がこの街にいたから彼の保護者ではなかったにしても、 彼がその日まで泊まっていた家の主人だ、 連絡先の一つに決まっている。新聞に載り、 市の政争の具にもなった事件を覚えていないはずがないし、 その後のことも気に掛けつづけていただろう。

「俺は忘れてましたよ」

自嘲気味に彼は答えた。

「他人のことは言えないですよ。ほんとうに何もかも忘れてたんだから」

彼女が急須と湯飲みを二つ持ってテーブルについた。

「自分で思い出したんだから、いいんですよ。
あゆちゃんも、裕一さんがこの街に戻って来たのが嬉しかったんでしょうね ‥‥」
「毎日毎日、たいやき食べながら待ってたんだろうな。
名雪には ‥‥ 明日、連れて行きます」

おにぎりの二つ目を飲み込みながら裕一は告げ、彼女も小さく頷いた ── 了承、と。


翌日。

「あゆちゃんが?」
「ああ」

7 年前の出来事は彼女には関わりのないことだ、 そう思って彼は単純にあゆが入院中だと告げて名雪を連れ出した。

「昨日から裕一がおかしかったのは、」
「黙ってて悪かった。俺もショックが大きかったらしい」

みちすがら病状をざっと語ってきかせる。

「当然だよ、こんなのって」
「という訳で、俺、しばらくここに詰めてるから」
「わたしも〜」
「お前は部活があるだろうが」
「引退したもん」
「その割にはほとんど毎日学校行ってるじゃないか ‥‥ この暑い中」


その日の晩、美坂家に一本の電話が入った。香里が電話をとると、

『もしもし、相沢と申しますが』
「あら、相沢君? 電話なんて珍しいわね。いま栞を呼ぶわ」
『あ、いや、いいんだ。美坂でも』
「どうしたの?」
『栞に伝言たのむ。しばらく忙しいから会えないと伝えておいてくれ』
「どういうことよ。相沢君、」
『いや、おまえが考えてるようなことは何もないが ‥‥ 昔の友達に借りつくってたことを思い出してな、それで』
「何時頃までなの?」
『分からない』
「あのねぇ ‥‥ その友達って、もしかして相沢君の昔の女だったりするのかしら?」
『実はそうなんだ、よく分かったな。なんだかドラマみたいだろ?』
「そのドラマはハッピーエンドなんでしょうね?」
『ああ、もちろんだ。それ以外は俺も認めない。じゃあな、新学期にまた、学校で』

電話が切れ、香里は脇で黙ってみていた栞の方を向いた。電話のスピーカーのスイッチを切る。 「相沢」という姉の言葉で降りてきていたのだろう。 どことなく会話の調子に気付いたのか妹が受話器を受け取ろうとはしなかったので、 香理はスピーカーのスイッチを入れ、話が栞にも聞こえるようにしておいていた。

二人は顔を見合わせた。

「お姉ちゃん ‥‥」
「学校が始まったら嫌でも顔あわせるんだから、大丈夫よ」


新学期も始まろうかという日、栞は病院を訪れていた。 一学期は水泳をすべて休んだが、二学期はどうかという相談をするためと、 薬を受け取るためだった。

水泳はまだだめということで、彼女は少し意気消沈していた。 しかもここ 2 週間も裕一と逢っていない。

「裕一さん ‥‥」
「栞 ‥‥?」

おもわずつぶやいた声に前を歩いていた人がいきなりびくっと振り返った ── 相沢裕一だった。 彼もすこしうろたえていた。

「なんで病院 ‥‥ ああ、そういえばそうか ‥‥」
「裕一さん ‥‥ どこか具合でも?」

彼の顔色は病院にふさわしいほど悪かった。

「いや、俺はぴんぴんしてるよ」

その空元気に彼女は眉を顰めた。

「じゃあどうして病院なんかに」
「栞も会ったことがあるんだよな ── 栞、時間、あるか?」


「じゃあ、『昔の女』ってあゆさんのこと」
「おい、美坂の奴からなんて聞かされたんだ」
「一字一句そのまま。脇で聞いてましたから ‥‥」
「ぐお」

「栞 ‥‥ 信じられるか? あゆのやつ、ここで 7 年間ねむったまんまなんだと」


その日、裕一と栞の見ている前で月宮あゆは息を引き取った。
7 年を経て裕一と再会したのちに、ついに目を覚ますことなく。


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